「ふつうの女の子に戻りたい」と言って引退した歌手が、いつの間にかまたテレビに姿を見せたり、苦節二十年、泣かず飛ばずで俗にいうドサ周りの毎日を送っていた歌手や芸人が、ある日突然、脚光を浴びて登場するなどの浮き沈みに象徴される「明日のことは神をもってしても分からない」芸能界の世界は話題に事欠かない。
歳相応ということになると、よほど熱狂的なファンでもない限り、歌手のショーなどを鑑賞することもないが、たまたま娘にせがまれて引退前の山口百恵ショーを見たのははるか昔だ。ふつうのサラリーマンにとっては高い入場料を払ったものの、面白くもなんとも感じずにいた当時を懐かしむ気になったのは、のちに彼女の個性について面白い話を聞いたからである。
山口百恵はその引退のラストコンサートで最後の歌を歌い終えたあと、マイクをステージにおいて退場した。会場からの長いアンコールの催促にもかかわらず、彼女は再びマイクを取り上げることはしなかったという。終演後、関係者の「なぜ?」の質問に、彼女はこう答えた。「床の上に置いたマイクを拾い上げるのって、何か不自然でしょう」。
作家の藤原新也氏は、著書「乳の海」の中でこういう。「何か不自然と感じることは、そこに自分が自分らしくあるために、このようにする、あるいはしないことが自然だ、という規準が彼女の中に在るということだ。〞不自然〟という言葉は、たくまずして彼女自身の中に確固とした自我制御が存在することを物語っている。彼女は、【自身】のあるがゆえに床の上のマイクを拾わなかった。沈黙を歌う百恵ならではの締めくくりである」。
この解説に妙に感心した記憶があるが、人気商売はもとより、自分が生活している環境の中で、自分が自分らしくあることと周囲の人間関係との調和を失すると、それはもう個性ではなく、単なるわがままとなる危険があり、大変難しいことでもある。
山口百恵の場合も、アンコールにこたえるという主催者のスケジュールを台無しにしたことや、観衆の期待を裏切った意味ではわがままのそしりを招きかねない。なのに、非難されるよりはむしろ個性の象徴として評価されるのは、彼女の日常の生活態度、人格、歌の実力などが好ましく思われていたからに違いない。こうしてみると、自分らしさとは、その「らしさ」の瞬間だけで決められるものではなく、常日頃の生活態度によって評価が左右されるもののようだ。
「らしさ」といえば、私たちが、たとえば友人や同僚の結婚に贈る言葉も、送別の際に贈る言葉も「らしさ」とは程遠い、周囲の評価や当事者の受け取り方などを考えた上での、飾った言葉を使うことが多い。もちろん、いろいろと考えれば名文はできるのだろうが、淡々として飾り気のない素直な気持ちが出ているほうが、どんな名文より人に感動を与えるし、そうなってはじめて「らしさ」が出るのだろう。そういえば、披露宴で「立て板に水」の挨拶より、恥ずかしくてたどたどしく、つっかえつっかえ述べる友人の挨拶に感動したことが意外に多いことに気づく。
(2012年12月20日・本稿は1982年~1988年執筆の原稿を加筆・修正したものである)



