鈴木勝利の「つれづれ日記」

コラム

vol.69 パンをそして自由を~自由とは責任を持つこと~
2013/09/15

 人間は自分自身が自由であることに限りない誇りを持つ動物といえる。

 これは原野に棲息する動物は人間に捕獲されないよう逃げるが、これは自由を意識して行動しているわけではない。いわば生きようとする本能によるのに対して、人間の自由とは、人間としての尊厳があるから不可欠なのである。だから、人は自分だけが自由であればよいのではなく、他人の自由も尊重しなければならないのである。

 しかしこうした考えは、人が生まれながらにして備わっている本能としてあるのではない。昔は奴隷制度があったし、今日でも全体主義の国では、個人個人の自由はない。こうしてみると、自由という人間の尊厳は、人間だからいつでも存在するのではなく、ある条件が必要なことがわかる。

 その条件とは、ひとつには、生きるための環境がある程度満たされていることである。極端に言えば、今日食するパンがなければ、自由というような精神的なものは必要としない。飢えをしのぐためであれば「何しろパンがほしい」ということになり、その時に他人から制約を受けていても我慢してしまう。だから自由とは、まず生活できる豊かさが保障されて始めて価値を持つのである。

 もうひとつの条件は、生活がいくら豊かになっても、人間の精神的側面にかかわる成長がなければならないという点である。人は「自分がこの世で一番いとおしい」と思っているように、他人もまた、「自分を一番いとおしいと思っている」ことを認められる自らの思いやり、自分だけを絶対化させない人間性を持たなければならない。

 私たちが日常ふだんに、まったく当たり前のものとして享受している自由とは、その前提条件が崩れれば一夜にして夢と化す脆さをもっている。それはちょうど、毎日車に乗る快適さと便利さを求めているうちに、足腰を弱め歩くことすらかなわなくなってしまうことと同じように、また筋肉は、筋肉を使わなければ弱くなり、知能もまた、知能を使わなければ劣っていくのと同じように、自由であるためには相応の努力が必要なのである。

 作家の曽野綾子さんは、「自由とは責任を持つことである」と言い、1912年にノーベル生理・医学賞を受賞したフランスの医学者アレキシス・カレル氏は、「努力と勤勉の法則は、生理情況の安定の法則よりも一層重要である」と著すのも、同じことを意味している。

 自分が自由にものを考え、自らの意思で判断し行動するためには、そのための努力と勤勉さと責任を必要とするのである。好き勝手のわがまま放題の社会、人々が怠け、遊びほうけ、他人のスキャンダルを喜び、そしてそうした人々の心情をもてあそぶように、真偽の別なくのぞき趣味のニュースを流し、嫌がらせや煽情が正義の仮面をかぶる社会や時代は、本当の意味での自由とはいえないのである。それは自由な社会なのではなく、人間が堕落し、社会が崩壊する前兆かもしれない

 せめて自分だけでも、「努力」し、「勤勉」であり、そして「責任」を持ちたいと思う。
自由でありたいために。

(2012年12月20日・本稿は1982年~1988年執筆の原稿を加筆・修正したものである)