古い話だが、経団連の元会長職にあった土光敏夫さんが、人々の尊敬を集めていたのは、経営者の手腕もさることながら、つきつめていけば人格にあるのは誰もが認めているようである。
労働界の重鎮であった今は亡き宮田義二さんが、ある会合で昼食を出されたとき、箸もつけずに係りの人にパンを買いに行かせる土光さんを見て尋ねると、「もう年で、全部を食べられない。箸をつけると残りを捨てることになりもったいない。それなら若い人に食べてもらったほうがいい」と答えが返ってきたという。それからというもの、宮田さんは食事の時にはいつもこの話を思い出しているという。
あるとき、テレビがこの土光さんの生活を放映した際、朝食のおかずに「めざし」が出されていた。一事が万事で、生活は質素を極め、財界の総理とまで異名をとっていた人なら、さぞかし華美な生活を送っているだろうと想像していた多くの視聴者は驚きをもって見たようである。放映後すぐに全国から感動の投書が殺到したのも頷ける。
しかし、貧乏な私などは冗談によく言うのだが、経済界の頂点に立っている人が、それに奢ることなく、時折めざしを食することに清貧さがあるのであって、例えば私がめざしを食べても、それは相応の生活態度として話題にもならない。それでも成金という蔑称もあるように、テレビで放映される売り出しに成功した芸人や芸能人、投機で一攫千金を成した人々、商売で多額の利益を手にした人々などの価値観や華美な生活を垣間見ると、多少のひがみあるかもしれないが分相応の生活をしているほうが、心の清々しさを持つことができる。
他人の心の中はのぞくことができないから、人は言葉や行動によってその人の心を推し量る。マスコミ関係者から時折耳にすることだが、例えば先の土光さんの放映についていえば、「有名になったのはテレビで放映した我々のおかげ」ということになる。確かにテレビの影響力は大きいから一面の真理でもあるのだが、「我々のおかげ」というそこには相当の驕り、傲慢さが見え隠れする。自慢話をするテレビ関係者の虚栄心は満足できても、人としての価値は落ちるところまで落ちたとしか言いようがない。
千葉県にある仏母寺の住職である玉峰尼は、腰まであった黒髪を切って頭を丸めてから今日まで、尼僧のおしゃれとはなんだろうかと、自問自答を繰り返してきたという。僧の身でおしゃれとはいかにも女性らしい発想で心も和むが、彼女がたどり着いた心境は、「髪を切って僧になることを落飾(らくしょく)といい、飾りを落とす意味がある。さまざまな分別を毎日、毎日洗い落とすことで、幼子の真っ白なキャンパスのような心になる。それが尼僧のおしゃれだと思うのです」。
幼子の真っ白なキャンパスは、成長に伴って色に染まっていく。あれこれ考えるようになって分別が生まれてくる。分別は選択を求める。「あいつは嫌いだとか、憎いとか。あっちがいい、こっちがいいとか。この仕事はしんどい、割に合わない、こっちのほうが楽だとか、必ず人間は選ぶ」。
そして彼女は、こうした迷いの悟りとは、選ぶことではなく、なりきることだという。「母親なら母親になりきること、サラリーマンはサラリーマンになりきること。俺にはもっといい仕事があるはずだなどと思うのではなく、いま自分に与えられたことに全力を尽くすことです」。
(2013年6月11日・本稿は1982年~1988年執筆の原稿を加筆・修正したものである)



