鈴木勝利の「つれづれ日記」

コラム

vol.71 ○○にあらずんば人にあらず ~傲慢が招く危機~
2013/11/15
 「平家物語」は、平清盛一族による平氏一門の隆盛を著した名作との呼び声が高いが、清盛の最盛期には全国で500を超える荘園を保有し、中国の「宋」との貿易による莫大な財産を手にしていたという。主人公清盛は、「平家物語」では悪逆非道の暴君として描かれているが、鎌倉中期に年少者の啓蒙を目的に古今和漢の教訓的な話を通俗的に説いて、「十か条」の教えと諭しを編纂した「十訓抄」(じっきんしょう、じっくんしょう)(編者は未詳)では、若い頃の清盛は、「人がとんでもない不都合な振る舞いをしても、冗談と思うことにした」とか、「やったことがちっともおかしくなくても、相手への労わりとしてにこやかに笑い、とんでもない誤りをしても、役立たずと声を荒らげることはない」、あるいは「冬の寒い時に身辺に奉仕する幼い従者を自分の衣の裾の方に寝かせ、彼らが朝寝坊をしていたらそっと床から抜け出して存分に寝かせた」、また、「最下層の召使いでも、彼の家族や知り合いの見ている前では一人前の人物として扱ったので、その者は大変な面目と感じて心から喜んだ」という逸話が記されている。どちらが正しいのか知る由もないが、歴史が後世の価値基準で評価が二分されるよい見本である。

 この平家物語で特に有名なのは、平家隆盛の絶頂期に平家一門の平時忠(清盛の義弟)が述べたと言われる「平氏にあらずんば人にあらず」という言葉であろう。ライバルに源氏がいたわけだから、「平氏でなければ人間とはいえない。源氏は人間以下」だということを意味しているのだろう。後の世では、もっぱら人間の「傲慢」を表す際に使い、「傲慢な人間は凋落(ちょうらく)も早い」という否定的な意味をもたせている。

 話は変わる。
 流行り廃りは世の常といっても、中身は結構、人の勝手気ままから生まれているものが多い。女性の服飾に限って言えば、物を売るメーカーや小売店側が意思をそろえて「今年はミニスカート」を流行らそうと思えば、宣伝と合わせて他の服の種類を少なくすることで世はミニスカート時代となる。だから季節が到来する前に、「今年はこの服が流行する」とテレビが報じるやいなや、それを求めて消費者が殺到する。流行が決まる瞬間だ。

 今年の秋冬物はカシミヤセーターが主役になりそうだという。価格は一般的なウールセーターに比べて倍近くなるのだが、販売計画では昨年に比べてユニクロは10倍以上、高島屋が3倍、無印良品が2倍、そごう・西武が1.6倍を見込んでいる。アベノミクスによる消費意欲の高まりに期待しているというが、果たして消費者は今年も売る側の思惑通りの消費行動をとって、街中がカシミヤセーターのオンパレードになるのか興味は尽きない。

 流行は元来、女性を美しく見せるためのものに限っていたが、ある程度生活が豊かになったせいか、男社会にも生まれ始めた。飲み物も例外ではない。自販機のお茶も、「濃い茶」の評判が高いとなれば、全メーカーが抹茶を加える工夫して「濃い茶」の販売に力を注ぐ。ビール戦争も同じだ。私などがビールのコクが分かるはずはないにもかかわらず、ひたすら"コクのある"ビールを注文する。

 仔細に分析してみると、今日の流行というのは、客の好みの選択に任せるというよりは、メーカー側が客の好みに合う商品をどう開発し、いわば「○○を使わねば人にあらず」的雰囲気を作れるかどうかにかかっているようだ。しかもその上で、客が強制されたとは意識せずに、自分の意思でそれを選択していると錯覚させることも流行を作るうえで大事になっている。

 人の気持ちなどというのは移ろいやすい。前後のつじつまが合うかどうかを気にしないことが多い。
 本州と島を結ぶ連絡線が嵐で欠航すれば「不便だ」と訴えたのは昔の話し、トンネルと橋にとって代わられるや、連絡線で味わった郷愁を思い出して船を残せと叫ぶ心変わり。
 あヽ、愛すべきSL。その空に吸い込まれていく煙の美しさ、ダイナミックに動く機関車。スピード第一の新幹線よりも、SLこそ汽車としてふさわしいと。かつて、煙を吐いて走る蒸気機関車に、沿線では汚物を浴び洗濯物が汚れる、乗客は煙に咽んで健康を損なう、騒音がたまらないと、多く出された非難の声はすでに忘れ去られた。

 どうやら人の心変わりに期待すれば人を欺くことも簡単にできるらしい。難しい理屈があるほど分かりにくく説得力は弱くなる。感情にストレートに訴える方法をとればいいのだ。その上で、「平氏にあらずんば人にあらず」という雰囲気を作ってしまえばもうこっちのものとなる。
 大阪という地も分からないことが多い。政治的には「維新の会」が全府を席巻していたが、民主主義の常識が無視されても異論の声は小さい。

果たして、沖縄のオスプレイの受け入れをめぐって、知事でもない大阪市の市長が、同格である他市の八尾市に受け入れを要請する非常識がまかり通る。さらに、驚いたことには一市長の発言に従い、自治体として格上の知事が市長の使い走りをして八尾市を説得に訪れる様は、地方自治を無視している暴挙のように思える。おそらく、「維新の会」代表の発言だから、維新の会では格下の幹事長として使い走りをしたのであろうが、地方自治とは政党の上下関係で動くものではない。これが「維新の会」が掲げる「地方自治の確立」のようである。

 こうしたことが行われる背景には、【「維新の会」にあらずんば政党にあらず】の傲慢さがある。去る9月29日に投票された大阪堺市長選挙では、常勝「維新の会」が予想を超えて大敗した。大阪府民の良識の勝利と言えるのかもしれない。そこに反省がなければ、橋下維新は「何をしても」、「何を発言しても許される」という傲慢さによって、日本の国を、各地方都市を誤った道に導くことになってしまう。

(2013年10月25日・本稿は1982年~1988年執筆の原稿を加筆・修正したものである)