人間社会で最も大切といわれているのが言葉である。日常生活では何気なく「コミュニケーション」という表現で当たり前にあることとして過ごしてしまうが、相手に自分の気持ちや考え方を伝える手段として、言葉は決定的な力を発揮する。
しかし直接言葉を伝えるには限界があって、伝達できる相手の数は限られてしまう。そこで文章が登場する。もちろん記録を保存するという役目もあるが、文章は直接発する言葉とは違った効果を持つ。同じ文章でも紙を媒体にしたときとパソコンとでは人々に与える印象が変わってくる。
また、文章は読むのが面倒くさいというようなマイナス面もある。だから編集者は、いかに興味を持って読者に読んでもらうか知恵をしぼらざるを得ない。読みやすく工夫する紙面、興味ある記事の掲載、読みたくなるような見出しなど、編集者の努力は並大抵でない。さらにこれが週刊であれば、週一回は発行しなければサボったことになってしまう。義務感が時には脅迫観念のように感じてしまうことさえある。
労働組合の教宣活動が敬遠される一つの理由である。
昔、私が教宣を担当したときに先輩から教育されたのは見出しのつけ方であった。
もちろん記事の書き方やテーマの選び方なども教わるのだが、今でも強烈な印象を持って思い出すのが、そのとき引用されたお隣り韓国での見出しにまつわる話である。
終戦直後、韓国では李承晩大統領が就任した。戦時中の日本支配に憤激していた大統領はお決まりの独裁者で、韓国の漁業を護るとして国際法とは別に勝手にラインを引き、それを李承晩ラインと称した。このラインを超えて操業した日本の漁船は韓国軍に拿捕され、日韓関係の緊張が続いていた。これは、そんな時期に起きた話という。
ある新聞社が校正ミスを犯し、李承晩「大統領」を李承晩「犬統領」としてしまった。「大」と「犬」、たった「点」一つの違いだが、大統領の逆鱗にふれた新聞社と編集者は犯罪人として処断されたという。
ここで私が言いたいのは独裁者への非難ではなく、校正の重要性である。たった一つの「点」でこれだけの騒ぎになるのだから、新聞を発行する編集者は細心の注意を払い、慎重にも慎重を重ねて仕事をしなければならないという教えなのである。
しかし、自分はなんとも重要でかつ難しく報いの少ない仕事を担当しているのだと、悲観することはない。
組合活動の中で教宣活動が果たしている役割は、さまざまにある。
考えてみれば、自分の意思を紙面に反映させ、しかも多くの組合員に読んでもらうチャンスを与えられているのだ。最高責任者の委員長でさえこの特権は持っていない。大変恵まれている担当業務なのである。
今、ホームページの作成に苦労している担当者の諸氏も、考えようによっては「特権」を持つ恵まれた仕事に携わっているのである。
これこそが、文章に四苦八苦し眠れぬ夜を過ごした苦労を吹き飛ばす情宣担当者の「やり甲斐」なのではないだろうか。
次回に何を記そうかと今宵悩むのもまた、楽しい人生のひとコマなのかもしれない。



