1985年8月12日18時56分、日本航空123便は、羽田を出て大阪伊丹空港に向かう途中、群馬県多野郡上野村の高天原の尾根(御巣鷹の尾根)に墜落した。
運輸省航空事故調査委員会による事故調査報告書(1987年6月19日)によると、乗員乗客524名のうち死亡者数は520名、4名の乗客が奇跡的に生存した。
生存者は着座の姿勢や人体に接した周囲の物体などの状況が、衝撃をやわらげる働きをしたため生還できたものと考えられた。
死者数は日本国内で発生した航空機事故では2011年5月の時点で最多であり、単独機の航空事故でも世界最多を記録している。
夕方のラッシュ時とお盆の帰省ラッシュが重なったことなどにより、著名人を含む多くの犠牲者を出し、社会全体に大きな衝撃を与えた。
同報告書では、同機が1978年6月2日に伊丹空港で起こした、しりもち着陸事故後の、ボーイング社の修理が不適切だったことによる圧力隔壁の破損が事故原因とされている。
これをもって公式な原因調査は終了している。事故現場に散乱していた遺品に中に、死亡した乗客が記した最後のメモが含まれており、人々の涙を誘った。
人生まだしなければならないことが山ほど残されている。妻のこと、子どもこと。それよりも人生まだ始まったばかりである。
この世に生を受けて、希望の人生の幕が開いたばかりというのに。いや、人生の頂点に立ったとしても、人々から持て囃される成功者であっても、今、自分の意思とは無関係に、確実に迫ってくる死の現実。
死にたくない、生きたい。事情の分からぬ乳飲み子でさえ、危険には本能で泣き叫ぶというではないか。墜落する日航機の機内で、人間が死を確実に意識した極限のとき、何を考え、どうしようとしたのだろうか。
もしそのとき、自分が助かりたい一心のため、他人はどうなってもいいと祈ったにしても、それが非難されるとは思えないが、そんなときだからこそ、さまざまな人間の本性が顔をのぞかせたに違いない。
芥川龍之介が随筆でこう書いている。「子どものない女が、小さい子を持っている隣の母親と知り合いになる。そしてうらやましがりつつ、大変かわいがっていたら、その子が死んだ。
そのことを気の毒だ、気の毒だと涙をこぼして夫に報告すると、夫は、お前、なんだか嬉しそうだね、といぶかる。その奥さんはびっくりして、悲しいけれど嬉しいんです。
そういう私は悪い女でしょうか、どうすることもできません、と涙ぐんだ。夫は何か人生の大きなものにぶつかったような気がして黙ってしまった」実に哀しい話だと思う。
そして、君なら、と反問されて、否定できない自分がいる。私にはロマンがある。こうしたい。一生懸命努力して、実らぬとしても努力した自分に満足したい。人間とは高い理想を持つものだ。
夢を追い続ける人生も素敵だと思う。でもそれは人生の表である。感謝しつつ憎んだり、友人の栄達を祝いながら嫉妬し、仕事も真面目にやるし怠けもする。
そんな哀しさも、また自分が持っている。なんと嫌な自分ではないかと思いつつも、また、それが人間なのだとも思う。憎むから感謝があるのだし、裏切るから忠誠もあるのだ。
人生の表に現れる明るいものの方を、ひたすら追いかけよう。「生きるために何をしても良い」のではない。良心をすり切らしてはいけないのである。
良心をすりきらした者には、いつか代償が求められる。
第二次世界大戦の敗戦で、満州から逃げ帰る日本人開拓団は、ソ連に凌辱の限りを尽くされるが、その逃亡は、生きるのも地獄、帰るのも地獄であったという。
「大きな河に差しかかると子どもたちを川の流れに突き放す。“お母さん”と泣きながら叫んで流れていく子……。
子どもたちもいつ母親たちから突き放されるかを恐れて“お母さん、一生懸命歩くから……迷惑をかけないから連れて行って”と哀願する」。
この地獄から生還した人も、今、まだ戦後が終わらぬことで償いをしているのである。
(本稿は2011年7月にj.union社の社員向け「温故知新」で執筆した原稿を加筆・修正したものである)



