人間の心理は実に微妙にできている。外界から同じ刺激を与えられても、そのときによって反応も違うし、また思わぬ力を発揮することもある。私はよく言われる「巨人・大鵬、卵焼き」の類で、とくに巨人ファンを任じてきた。この野球の世界でも、投手と打者の心理は結果を大きく左右する。よく、四番打者は投手からマークされるので、その条件下で打つのは難しいというが、双方の心理状態から分析してみると、あながちそうとばかりはいえないようだ。強打者を相手にした投手は、配球に神経をとがらすのは当然だが、その神経を使う心理が、投球の力の配分に微妙な影響を与えて甘い球となって打ち易くなる確率が高くなることが多いともいわれる。
反対に、下位打者だと相手を見下す心理が、自分の最高の、あるいは力以上の投球になって抑える確率が高い。そして強打者はますます強打者のイメージを高め、下位打者は一層打率を落とすことになる。よく新人で活躍した翌年、活躍しないと「二年目のジンクス」と称される。これは一年目で活躍したことで、周囲からちやほやされ、舞い上がって、あるいは「この程度か」と自惚れて自らの鍛錬を怠ることが多いからである。相手は研究を重ねて再びの活躍を阻止しようとしているときに、自分はそれを超えて鍛錬をしない限り、今度は抑え込まれる。特にスポーツでは顕著なことだが、私たちの社会においても傾向は同じだ。
「あの人は優秀だ」というイメージが出来上がると、周囲はそれを前提に評価するから、他の人と同じことをしても、結果として評価は高くなる。だから評価は、必ずしも当事者の力を正確に表しているものばかりではない。
日本は肩書き社会といわれるように、相手の態度も肩書きで変わることがある。○○会社社長の肩書き、○○労組委員長の肩書き、初対面で相手が敬意を払って、あるいは思惑をもって丁重な態度で接してくるとき、それはあくまで自分の肩書きに対してであって、必ずしも自分そのものへの評価ではない。もし社長でなかったら、もし委員長でなかったら、挨拶すらしてくれないかもしれないのだ。相手は肩書きに対して礼をとっているにすぎない。もちろん、肩書きを得る活躍をしたのは間違いないから、すべてが肩書きの力で本人は関係ないとはいえない。が、人は総じて肩書きの力と、個人の力を混同しがちなもののようだ。肩書の力をすべて自分の力と錯覚すると自惚れとなり、反対に人格の評価を落としてしまう。これを克服するには、そういう自分を離れた所で、今一人の自分でみつめて自戒することなのであろう。本当に「自分のことは自分が一番良く知っている」ようになれればいいのだが、これが結構難しいのだ。
話はとんでしまったが、人間社会の難しさは、その微妙な心理が、他人には分からないことである。ほんの些細な言葉のたったひと言が、相手の心を傷つけ、人間関係を破壊してしまうことを私たちはどれだけ多く見てきたことだろうか。
私は今日も、誰かの、「心の花園へ、土足で踏み込んで」いるのかも知れないと思うと、人の気持ちを慮(おもんばか)ることの大切さを痛感するのだが、そのうえで、「人間はこの複雑な現実の中に生きて、常に充たされない気持ちを持ち、さまざまの苦しい経験をする。そして、それに対して、つい知らず知らずのうちに、『これというのもあれのせいだ』と、敵役をさがす」(「妄想とその犠牲」武山道雄著)ことだけはせぬようにと言い聞かせる。
「苦しい登山をしていると、つい同行者が憎たらしくなる」(同書)ことが、日生活の中でも起きやすい。
人を踏みつけようと、踏みつけられようと、それが人生だ、と、生きるためには何をしても良いという考えに陥りやすいのが人間だが、すべての人間関係、それが親子でも、夫婦でも、友人でも、恋人であっても、「人に踏みにじられたときは残念だ。しかし、親しい人を踏みつけた時はもっと心が痛む」(「愛のあけぼの」三浦朱門著)という良心だけは、いつも持っていたいものである。
(本稿は2012年1月にj.union社の社員向け「温故知新」で執筆した原稿を加筆・修正したものである)



