歴史の審判とは面白いもので、後世になって過去を評価するとき、後世の価値観に左右され判断される。
よく言われることだが、今の時代は江戸幕府を確立した徳川家康を優れた統治者として評価する人は多いが、
明治時代には評価していない。それは当たり前で、江戸幕府を倒して明治維新を成し遂げた人々は、
自分たちが悪政の象徴として倒した江戸幕府を評価するはずはないからである。
このように歴史の評価は後世の物差しで変わるものなのである。
この江戸時代に起きた赤穂浪士による仇討ち物語「忠臣蔵」は、当時から庶民の間で支持され、
今日まで続いている珍しいケースである。
物語の中に、日本人の心情を打つものがあるというものの、そのために事実と違う脚色はかなりある。
この忠臣蔵は、本筋の仇討ちを盛り上げるために、周辺にいくつものドラマを配置している。
その中に豪商天野屋利兵衛にまつわる話がある。
大石内蔵助が討ち入りのための武器の調達を利兵衛に頼むのだが、
役人に嗅ぎつけられて利兵衛は囚われの身となり、依頼主を白状するよう拷問を受ける
石畳に正座させられ、石問いと称して膝の上に石を重ねられ、一枚一枚と増やして置かれていく。
利兵衛は痛い、苦しいを連発するのだが、頑として口を割らない。
役人はさらに拷問を強めようとすると、見回りに来た上役が止める。部下が尋ねると上役は、
「痛いのにやせ我慢している人間ほど口を割るが、利兵衛のように痛いとか苦しいとか、
正直に言う奴は意志が強く、口を割らせるのはむずかしい」と答える。
階段を駆け上がって、間に合うと思った瞬間、無情にもドアは眼の前で閉まってしまう。
毎朝よく見かける光景だが、目前で閉まったドアの前でとられる表情は人によって違う。
テレ笑いする人、何事もなかったかのように足を返す人、悔しさを表す人と、さまざまであるが、
どちらかといえばテレ笑いか知らん顔が大勢で、どういうわけか悔しさを表す人は非常に少ない。
このときの心理を体験的にいえば、ドアが閉まった瞬間は、単純に残念とか悔しいと思うのだが、
間をおかずに意識するのは、乗り損なった自分を見ているであろう他人の眼である。
そうすると今度は、みっともないとか恥ずかしい気持ちに襲われる。恥ずかしいからテレるのであり、
みっともないと思うから知らん顔をすることになる。だからテレ笑いも知らん顔も二つとも本当の自分の心とは違う。
他人の眼を意識した着飾ったものだ。
虚飾を守ろうとすると、いつ化けの皮がはがされるのかビクビクしていなければならないし、そう長くはつづけられない。
痛いときには痛いと言い、苦しいときに苦しいと言うことは、弱いということではないようだ。
他人にこう思われるのではないかという意識がやせ我慢を呼ぶ。
「天野屋利兵衛は男でござる」の話も、まずは自分の弱さや欠点を素直に見つめた上で、それを克服することを諭す話のようだ。
明日の朝も通勤の電車に乗る。もし眼の前でドアが閉まったら、今度は正直に残念がり、悔しがってみることにする。
(本稿は2011年9月にj.union社の社員向け「温故知新」で執筆した原稿を加筆・修正したものである)



