鈴木勝利の「つれづれ日記」

コラム

vol.7 イジメとケンカ
鈴木勝利 顧問
2008/07/30

 子供たちの学校でイジメが起こって被害者が自殺すると、マスメディアが一斉に取り上げ、世に言う識者がさまざまな言を弄する。
いや、弄するというのはいささか適切ではない表現か。「詭弁を弄する」とか「策を弄する」というような使い方が一般的だから、識者の発言を表す表現として「弄する」というのはやはり不適切だと思う。
そう思いつつも事件が起こると、さも、したり顔で評論する様をテレビで見るとつい使いたくなってしまうのだ。

 今から20年以上も前に、大阪市大で「イジメの発生メカニズム」を分析した結果が、法律雑誌「ジュリスト」に発表されていた。それを読んだときの衝撃を思い出す。

 「イジメ」とは、加害性と・被害生徒だけでは生じないという。そこに「観衆」と「傍観者」が存在してはじめて「イジメ」が存在する。
「観衆」とは、加害者と被害者を見て「はやし立て、面白がって」いる生徒をさす。
「傍観者」とは、被害者と加害者を「見て見ぬふり」する生徒をさす。

 ふと、学校時代の自分を思い起こす。
若気の至りという言葉では許されないが、昔はよくケンカしたものだ。
イジメと違うのは、取っ組み合い程度はしても恐喝などはしなかったことだ。
恐喝があったとすればそれは俗に言う不良がしていたようだ。
おかしな言い方だがケンカをする者と、恐喝などの不良グループとは棲み分けがされていたような気がする。
そういえばケンカには必ず「時の氏神」がいて仲裁をしてくれた。
以外に仲裁されることを見越してケンカしたことさえあるような気がする。
そこに「ケンカ」と「イジメ」の違いがあるのかもしれない。

 ショックはこれにとどまらない。
「観衆」は面白がり囃し立てるのだから、加害者は得意満面で元気づく。
「傍観者」が、受験でそれどころではないと見て見ぬふりすれば、加害者はこれにも元気づけられる。
こうして終わりなき「イジメ」は繰り返されていく。
もし「観衆」と「傍観者」がいなければ、昔と同じ「ケンカ」だから級友の仲裁で一件落着になるに違いない。
言い換えれば、昔は「観衆」と「傍観者」はいなかったから「ケンカ」で終わったのではないかとも思う。

 ショックはさらに続く。
「イジメ体験」と「イジメられ体験」の両方を持つ子供は全体の約30%近いという。
これが何を意味するかといえば、イジメていた子供がいつなんどきイジメられる側になるかもしれないということだ。
戦々恐々する子供たちの気持ちを想像すると暗くなる。
かつて社会問題になった連合赤軍は、大菩薩峠で仲間どうしによるリンチ殺人を繰り返したが、この時も自分が被害者になるのを恐れて加害者に手を貸し、いつしか自分も殺されてしまうという殺人の連鎖が人々を震え上がらせた。
このときは子供ではなく大学生が中心だったのだが、「イジメ」では小・中学校生の心理に同じことが起こっているのだ。

自分がいつ被害者になるかもしれないという恐怖から、沈黙することで逃れようとする。
かくしてイジメは闇に沈み、被害者が自殺するまで表沙汰にはなりにくくなる。
学校側が積極的に気をつけていない限り発見は難しい。
学校側が「気がつかなかった」という言い訳よりも、「気をつけなかった」というのが正しいに表現に違いない。

ケンカは「対等」か「強いものと弱いもの」の争いといえるが、どうも「イジメ」はそうではなく、「弱いもの」が「より弱いもの」を「イジメ」ることのようだ。
そういえば子供たちによるホームレス殺人も同根なのだろう。

最近のテレビでよく見る芸人による番組では、芸人同士がお互いをあげつらうシーンが多い。
「バカ」「アホウ」の言葉が飛び交う。あるいは個人のプライパシーの暴きあいも当たり前になりつつある。
それを笑い転げて見入る観客、視聴者、そして自分の存在。
当人同士が了解しあっている限り口を挟む必要はないかもしれないが、番組を見た幼い子供たちが、他人の悪口を言うことや秘密を暴露することが許されると思ったりはしないのだろうか。
なんとも嫌な世の中になったものだ。

さてゾッとするイジメの話はまだ続く。著者は失念したが、この分析を記した「犯罪の同時代史」ではさらに不気味な現象が紹介されている。
自殺者を出したクラスで生徒たちに作文を書かせる。
「自殺の理由はいくら考えても分からない」、「もっと僕たちを信用して相談してくれればよかった」、「自殺する勇気があるのなら、元気に登校してほしかった」。
こうした意見がある中で、同級生39名のうち、少なくとも七割の生徒が、被害者がリンチされ恐喝されているのを見ていたということが明らかにされる。
先ほどの「観衆」と「傍観者」だ。
自分が観衆となり、傍観者であったにもかかわらず、「理由が分からない」「僕らを信用して欲しい」「自殺する勇気があるなら…」と。級友がリンチされ恐喝されていることを見ていながら、「僕らを信用して…」とは一体どのような神経を持っているのだろうか。
この精神構造を、著者は「薄気味悪い」と表現している。

満員電車の中でも、およそ公共と名のつく場所で、他人が不道徳の行為をしていても、あるいは明らかに暴力を振るっていても、見て見ぬ振りをする大人たちの社会。
そうした社会を見て育っていく子どもたち、学校におけるイジメも大人社会の反映なのだろうか。
20年も前から分かっていたイジメ問題も、一向に改善される兆しは見えない。
だからつい、「識者が言を弄する」と言いたくなってしまうのだ。


労働においても、人生においても、人間の尊厳を掲げる労働組合の理念こそが当たり前の人間、当たり前の社会、当たり前の会社をつくっていくことが出来るのだろう。書生論議と笑われようが、ひとり一人の人間のあり方に口角泡を飛ばし、人間である組合員の全人生にかかわる活動を論ずる様を思い描く。

惰性に陥った組合運動に光明を点すのは、惰性に気づき始めたリーダーの人々である。