鈴木勝利の「つれづれ日記」

コラム

vol.82 人のこころ~幸福なのか不幸なのか~
2014/10/15
 自分の周囲に起こる不幸にはいろいろとあるものだが、この幸福とか不幸というものはかなり主観的なものである。
この世に生を受けた子どもの性格とか境遇というのは、子ども意思とはまったく無関係に存在する。
 子ども自身が、こういう性格に生まれたいとか、こういう家庭で育てられたいとか考えるわけではないから、言い換えれば、自分が今、こうして存在しているのも運命なのかもしれない。
と、割り切ればいいとばかりいえない。自分の意思とはかかわりなく無条件で生まれた子どもにとっては、親の愛も家庭の愛も無条件になければならないのに、そこにもし、夫婦愛の欠如や、
家庭崩壊の兆しがあったりすると、無条件な子供にとっては、許しがたい大人の条件によって翻弄されることになる。自分が存在する家庭の家族愛の有無とか貧しさを、
「あヽ自分はこんな不幸な星のもとに生まれたのか」と、嘆き悲しみ、運命を呪うことになる。
 こうして育った人間は、たとえば失恋したときにも、異性にふられたという客観的事実と、好きで一緒にいたいという自分の願望とのギャップを埋めることはできない。
 幼い頃から、貧しさを事実として容認できず、裕福でありたいという観念、願望とのギャップを、運命を呪うことで処理してきたからである。その事実が望ましいことであれ、望ましくないことであれ、
事実を事実として認めることができるかどうかは幸福感を大きく左右する。

 「ハーレムの暑い日々」の著者吉田ルイ子氏は、ロバートという白人と学生結婚し、やがて離婚してしまうのだが、ロバートはアメリカの共産党員として人種差別に反対し、
「ハーレムのリンカーン」と呼ばれるほど、“素晴らしい”人であったそうである。
このロバートは、1964年夏のハーレム暴動で、自分の愛車を黒人に壊されたときから、“ただの白人”になってしまう。
建前ばかりで真実に眼をそむける共産党員を考えるうえで面白い話しだが、それは別にしても、ロバートを一個の人間としてみるときに、
「こうあらねば」という観念と、自分の財産を破壊されて生まれた悔しさによる本心とのギャップに悩みつつ、それがエゴであれ何であれ、本心に従った行為が非難される謂(い)われはない。
 愛車という自分の財産を破壊した黒人たちに憎しみをもつのも人間の本性であるし、肌の色によって人が人を差別するのは許しがたいというのが、「人間の倫理」であるのも正しいと思うからである。
 かつて、進歩的といわれた一流のジャーナリストが、黒人が長期間滞在したホテルの部屋に泊まった折、部屋に染み付いた体臭に辟易(へきえき)した自分の心と、人種差別反対を唱える自分の記事との乖離(かいり)に愕然としたという。
 運命を呪うことも、自分の醜い劣情やエゴイズムに眼を閉じることも、いずれも幸福とは無縁なものだ。幸福とは、事実を事実として認めることから感じられるに違いない。

 世界で一番幸福だと思っているブータンの国民についても、何が幸福かの尺度によって評価は分かれる。
人類の歴史上、文明や科学の進歩によってもたらされた「モノ」が豊か生活こそが幸福なのだと考えている人には、ブータンの国民は貧しく幸福ではないと考えるだろうし、「モノ」のあるなしにかかわらず、
自分の心に充足感を持てることこそが人間の幸せであると考えている人には、ブータンはこの上ない「幸福な国」と映るに違いない。
 何が幸福かは難しいが、少なくとも私は、現実に起きてしまったことや、自分でしたことが自分にとって不都合なことでも、事実は事実として認め、けっして眼を瞑(つむ)ることだけはしまいと、いつも心に言い聞かせなければならない。

(本稿は2012年3月にj.union社の社員向け「温故知新」で執筆した原稿を加筆・修正したものである)