「他人の長所が分かるのは才能、欠点が分かるのは凡才」といわれるが、毎日の生活で怒りや不愉快な気持ちになるとき、以外にその原因を他人に求めることが多いような気がする。
自分は一生懸命やっているのに、他人は少しも認めてくれないと不満を抱くし、彼は独りよがりで自分勝手だとか思うのも、「自分に比べてあの人は」という他人への批判に根ざしている。
あるお坊さんが、「ピーマンは臭(くさく)くて辛い。しかしこのくさくて辛いところが人に好かれる。人間も欠点で人に好かれるようになったら一人前だ」といっている。
ここまでの心境になるにはずいぶんと心の修業が必要だと思うが、他人をとやかく言う前に、自分自身を省みても、自己嫌悪に陥るほど自分の欠点が目につく。
人間というのは面白いもので、他人のことをとやかく言う前に、己をよくみつめよ、といわれて自省するあまり、自己嫌悪でノイローゼになる人も出てくる。
他人を見下す人も困るが、自虐的過ぎる人も困ってしまう。
一休さんは、旅の途中で泊まった農家のおかみさんから、死んだ夫が生計をたてるために鳥やウサギを殺生してきたが極楽に行けるか、と問われてこう書き残す。
「造りおく罪が須弥(しゅみ)ほどあるならば、閻魔の帳につけ所なし」。須弥(しゅみ)とは、世界の中心の山という意味だそうで、人間の罪をひとつひとつ数えたら山ほどあり、
地上にはその人間がいっぱいいるので、閻魔さんの帳面にはつけきれない罪の数になってしまうという意味である。
人間というのは、罪を犯さざるを得ない存在だから、その罪は数えたてるものではなく許されるものだが、しかし、「罪を犯す人間は、自分であることからは逃れられない」ということだろうか。
もともとインドで誕生した仏教(釈尊)は、「自我を滅却し、輪廻転生から逃れることを、宗教上の努力の至高の目標とした。
(中略)仏教は穏健な制度組織を中心に形成された。喬荅魔(ごうたま、釈尊のこと)は、若いときには禁欲を試みてみたが、やがて身体をひどく虐(しいた)げても、生の苦悩からは脱しきれないと観念した。
そこで、そのかわりに、彼は、普通の放縦自由と禁欲主義者の苦行の中間の道をすすめ、自分自身も、また数多くの弟子も、瞑想や宗教上の討論や物乞いをして生活した」(中公文庫「世界史(上)」ウィリアム・H・マクニール著)と
いうものだから、人は聖人君子である必要もなく、人がもっている長所や短所を許容した宗教だから、僧侶である一休さんも妻を娶るし農家のおかみさんにこうして悟らせたのだろう。
こうしてみると、人間の心の平静というのは、実に微妙なバランスの上に保たれているのが分かる。
鋭い観察眼も、他人の欠点よりも長所を見出すものでなければならないし、自己嫌悪を恐れて反省することをしなければ、単に自惚れの強い人間に成り下がってしまう。
この微妙なバランスを支える芯は、結局は自分の人生観や価値観をどう持つかであるように思える。そして、自分を幸福と思えるかどうかも、それによって左右される。
最近は価値観の多様化といわれる時代のようであるが、私からみれば、多様化しているのは欲望であって、価値観は空洞化しているといったほうが適切のような気がする。
人類がこの地上に姿を見せてから今日まで、あるいは今日から永遠に続くであろう未来まで、自分とまったく同じ人生をおくる人間は、自分以外には存在しないのだから、人間には動物と違う尊厳があるのだと思う。
だから人は、自分を愛するのだし、単に欲望によってのみ生きるのではなく、人間らしさという共通の価値観をもつことができる。
その共通の価値観があってはじめて、職場でも地域社会でも「欠点まるがかえで信じる」人間関係の礎ができるのだろう。
(本稿は2012年3月にj.union社の社員向け「温故知新」で執筆した原稿を加筆・修正したものである)



