ある工場のひと隅、重工業地帯にふさわしい運河に沿って雑草が群生し、その中に数本の名も知らぬ草花が見える。やわらかな日差しを受けると、それは雑草と呼ぶには可憐すぎるほど、淡い黄色が映えていた。
路傍の草花は、人知れずひっそりと咲くものといわれても、その可憐さは否応なく人々の目をとらえる。
仕事の合間に事務所の化粧室に入った彼にとって、何の感慨もない、何の注意を払うものでもなく、まったくいつもと同じ日常の所作であったのだが、いつもとは何かが違う雰囲気を感じていた。化粧室の片隅、空き缶の中に一本の花。それがいつも見慣れている構内に咲く雑草とわかるまでには多くの時間はいらなかった。
化粧室の清掃には、業者から派遣されている専門のおばさんがいる。彼の頭の中で、毎日二回程度の挨拶以外に口をきくわけでもなく、ただ黙々と訪れ、清掃が終わると来たときと同じように帰るおばさんの顔がよぎった。
空き缶は道端に無造作に投げ捨てられているものと同じ、特別に変わったものではない。その中に、これも名もない草花が一輪。お金がかかっているわけでもなく、飾るのに労力がいるわけでもない。そんな光景が、見る人の心に与えたものは何だったのだろうか。
翌朝、掃除のおばさんは、いつものように事務所の中にチラッと眼を配ると、軽く会釈をして化粧室に向かおうとした。そのとき、事務所の女性が一斉に立ち上がった。「ご苦労さま」「ありがとうございます」の声に、一瞬驚いたように戸惑いを見せた。
おばさんは不思議な顔つきをしたまま掃除にむかいかけて、何かに気がついたように、ふとふり返った。そしてニッコリと恥ずかしそうに笑ったが、その笑顔には本心からの嬉しさがたたえられていた。
その事務所が、それまで以上に明るくなったのはいうまでもないが、彼にとっては、空き缶と一輪の草花によって、多くの人が何かを感じてくれたのが嬉しかった。おばさんの心づかいが嬉しかったし、そして、その感激を素直に喜んでくれた事務所の同僚の気持ちに接したのが嬉しかった。
気に入られてお礼を言われたいなら、お金をかければ簡単に済む。打算に走っていれば、空き缶に雑草では誰が喜んでくれるのか心配の限りである。おばさんは、そんな打算もなく、いつも掃除する化粧室に、その花が似合うと思っただけで、これほど喜ばれるとは思いをしなかったに違いない。事務所の人々もまた、空き缶に一輪の花が、こんなにも心の中を、忘れかけていたほのかで好ましい気持ちに満たしてくれるとは思わなかった。
人生、感動はいたるところにある。どうやら感動とは求めて生まれるものではないようだ。人々の何気ない行為にこそ感動が潜んでいると言えるかもしれない。日本の多くの企業の職場でも、同僚の何気ない動きの中に、多くの感動がひそんでいるに違いない。
ある禅僧はいう。
「魅は与よって生じ、求によって滅す」
(本稿は2012年3月にj.union社の社員向け「温故知新」で執筆した原稿を加筆・修正したものである)



