鈴木勝利の「つれづれ日記」

コラム

vol.86 矢切の渡し ~恋は感情、愛は理性~
2015/02/15
 かつて一人の女性を愛した?ことがあった。
最も中学生の頃であるから、愛したといえるほど、心の奥深くにある魂を揺さぶるようなものではなく、異性に目覚める成長の過程での、心の道草とでも言ったほうがよいかもしれない。
それでも誰しもが経験する、あのほのぼのとした淡い初恋には敗れていたから、いささかは女性の愛おしさを意識できていたし、そんな自分に大いに満足していたことを思い出す。

 一つ年下の彼女には、三つ編みの似合う黒髪が印象的であったが、そんな彼女とは言葉を交わしたこともなく、ただひたすら遠くの物陰で、後ろ姿に見惚れているだけであった。

 友人からは、お下げ髪に惚れているなどと揶揄されたが、顔を合わせたり話をしないことで、私の頭の中では彼女は日を追って理想化され、自分には手の届かない遠い存在になっていった。
だから自室から遠くに見える彼女の家の明かりをみつめて、長い間、窓辺にもたれかかり、早熟にも、結ばれる二人の姿を夢想することもしばしばであった。

 この二度目か三度目の恋は、もちろん叶わぬままに終わったが、恋が人にもたらす力の大きさに感心したものであった。異性を恋することは、人に偉大なエネルギーをもたらす。

 あの人のためなら、と、大抵のことは乗り越えられそうな気になる。たとえ両親の反対があっても、二人の愛があれば矢切の渡しに乗ることもいとわない……

 しかし、やがて現実との葛藤が始まり、不確かな愛が崩壊すると挫折し、離別が待っている。

 作家の曽野綾子さんは、随筆の中で次のような話を紹介している。――大きな会社の経営者の息子さんが、名門大学を出て出世が約束されている父親の会社を離れ、自動車の修理工場を始めた。
やがて子供連れの年上の女性と結婚した。彼は学生時代よりも色艶がよく、油のまみれて働きながら、三人の家庭はほのぼのとした温かい感じであった。
あるとき友人が、こうした境遇になぜわざわざ飛び込んだんだ、と尋ねたとき、彼は「うちの女房はな、苦しい時代にパンパンしとったんや」と答えた。夫人も静かに頷いて微笑を返していた。――

 そして曽野さんは、このすさまじい夫婦の信頼を見て、自分がもし、このような息子の母だったら、息子の勇気ある、しかも純粋な行為をひそかに誇りにすると述べている。

 一人の男と一人の女がともに生きるということは、一時の恋の感情だけではないようだ。お互いが相手を、一人の人間として信頼するかどうかの理性が伴わない関係は、単なる本能のうずきに過ぎない。
生活のためとはいえ、商売として見ず知らずの男に身を任せてきた女を愛することができるのは、肉体のうずきではない。
嫉妬に身を焦がすでもなく、軽蔑することもないのは、ひたすらその女性を人として信頼し愛しむからであり、自分の過去が語られても、微笑んでいられる愛情と信頼に、改めて敬服するのである。