鈴木勝利の「つれづれ日記」

コラム

vol.86 浜までは 海女も蓑着る 時雨かな ~人生「どうせ」を禁句に~
2015/03/15
       
 ときおり、講演や研修会で壇上に立って人々の顔を見たとき、ある感慨におそわれる。多くの人の目が、彼はこれからどんな話をしようとしているのかと、興味深げに思っている心を映しているからである。

 人々の羨望や憧れのライトを浴びて舞台に立つ芸能人と違って、これから話す一言が、時には物議をかもすかもしれないという緊張感もあるのだが、それよりもそこにいる一人ひとりの人生が、どのようなものだろうかという関心に近い感慨のほうが強い。

 いつごろだったか、ASP管理者向けの「つれづれ日記」で、人間が持っている能力や才能は千差万別で、決して差などないという平等はありえないと書いたことがあるが、同時に、能力や才能の差は、人間の価値を決めることではない、とも書いた。モーツアルトとニュートンのどちらが偉いなどと比較するのはおかしいし、それぞれの才能が芽をふいた結果であると思っているからである。

 しかし、人間社会というものは、どうも能力や才能の差を、人間の価値の優劣と考え違えるようである。だから一般的には、能力をさらに高めるために大学を卒業したものが偉くて、そうでないものは肩身が狭いという通念ができ、人々はこぞって大学へ、大学へということになりがちになる。

 社会人としてもっとも大事なことは、才能や能力のある人は、それが開花するような機会が与えられ、社会の文化や科学技術の発展に寄与してもらうことであり、他の人々はその人々を尊敬することでよいのである。そして能力や才能は、学校教育を通じてのみ開花するものはなく、学校とは無関係に、環境によって左右される性質を持つことも忘れてはならない。

 私は壇上に立って、人々の目を見たとき、頭の中に浮かんでくるその人の能力や才能に羨ましさを感じるのである。その人が技術系の人であれば、私には想像もつかない才能があって、それを駆使して仕事をしていることに尊敬を覚えるし、また、現場で機械を操作している人であれば、これも私には及ばない技量を持つ人として尊敬の対象となる。そして私は、と振り返ったとき、尊敬すべき人々が、能力や才能を生かすべく努力している間、私は私で、今の仕事を通じて自分の力を鍛えるよう努力しているのだと思う。だからノーベル賞の受賞者が人間として優れていて、私のほうが人間として劣るなどとは考えもしない。才能や能力の差は尊敬の対象とはなっても、その人の人間の価値を決めるものではないと思っているからである。そうした人々を前に話をするからこそ、緊張と感慨が交錯するのだ、という気がする。

 それでは人間の価値とは何を基準に決まるのだろうか。行き着いた結論は、実に平凡な「誠実」ではないかと思うようになった。仕事にしろ、同僚との付き合いにしろ、いずれにもいい加減にせずに、誠心誠意の姿勢で接することがすべてだとも思う。

 海に潜って仕事をする海女さんが、仕事場の海に行こうとしたとき雨が降ってきた。海に潜ればどうせ濡れるのだからと、雨に濡れるのを厭う必要はない。それも一つの考えであるが、仕事のために海に潜って濡れるのと、「どうせ濡れるのは同じ」と仕事場に向かう途中に雨に打たれるのとでは違うのである。人生何があっても「どうせ」を禁句にしたほうがいい。

 「浜までは 海女も蓑着る 時雨かな」。
もし座右の銘と問われれば、私は一番にこの句を挙げる。

(本稿は2012年12月にj.union社の社員向け「温故知新」で執筆した原稿を加筆・修正したものである)