鈴木勝利の「つれづれ日記」

コラム

vol.87 われ泣きぬれて蟹と戯る~人間の才能や能力と人格~
2015/04/15
 国語学者の金田一春彦氏によると、天才的歌人といわれる石川啄木も、実生活は滅茶苦茶であったという。春彦の父、金田一京助と啄木の友情は有名であるが、晩年の啄木は借金をしまくったようで、しかもその借金を返したことは一度もなかったと言う。春彦は子ども心に、そのときの母の様子を覚えている。父の京介が啄木にお金を融通するために、母は嫁入りのときに持ってきた着物まで質入れし、結局返済がないために質流れになってしまう。その時の母を見て、啄木に対してはあまりいい印象を持っていない。しかもその借金が生活費ではなく、女郎屋通いに使われていたとなってはなおさらで、嫌味で気障ったらしく、尊大で近づきたくない人間であると酷評している。

 ここまでの話は当たり前として、人としての価値を問われるのは、このように相手を酷評しても、その人の長所を認める度量があるかどうかである。
 春彦氏は言う。「しかし、人間性に欠陥があったからといって、啄木の短歌についての才能は輝きを失うものではありません。そこで私はふと、怖れを感じます。人間的な欠陥に目を奪われ、敬遠してしまう私のような態度が、いろいろな才能を押し潰しているのではないか、と―」。

 以前にも書いたが、あのニュートンは、若い頃に発表した論文が世間から叩かれたことに腹をたて、それからというもの、論文ができるとそっと登録だけして机にしまっておく。そのうち誰かが同じような内容を世間に発表して悦に入っていると、「すでに何年前に私が発表している」とやる。これがニュートンの報復なのだが、天才ニュートンの人間的欠陥ぶりがわかって面白い。偉大な人には、えてしてこうした隠された面があるようだが、そうしたことに関心を持つのも、自分自身の弱さや醜さを気にしすぎて、欝になり易い人にはいい薬になると思うからである。
しかし、この薬も、傲慢な人が使えばさらに人格を落とさせる毒ともなる。

 いずれにしても人間というのは、他人とのかかわりを抜きには存在しないのだから、奇人変人といわれても生活できる才能や能力がある場合は別にして、やはり信頼されるようにならなければならない。そのためにも、人間の弱さや醜さを認めた上で、自分自身を奮い立たせ律していくしかない。完璧で一部のスキもない人間は、それはもう神様に違いないのだと思う。

 啄木の話でもう一つこんなことがある。あるとき啄木が、短歌を野口雨情(十五夜お月さん、七ツの子などを作った歌謡詩人)に持って行き意見を求めた。〞東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて――〟の最後を、啄木は〞蟹と遊べる〟としていたが、自分の奥さんは〞戯れる〟のほうがいいと言うので、どちらがよいかという相談であった。野口雨情は、いい歌と思えなかったので、「どっちでも」と答えたと言う。こうして有名な歌は作られたそうだが、やはり後年流行し、もてはやされた「サラダ日記」などと比較することさえ憚る光り輝く短歌といえ、改めて啄木の才能に畏怖を覚えるのである。
(本稿は2012年12月にj.union社の社員向け「温故知新」で執筆した原稿を加筆・修正したものである)