毎年11月になるとプロ野球のドラフト会議が始まる。ここ数年、希望入団に指名されないで浪人する選手や、アメリカのメジャーリーグを希望する選手が出て話題には事欠かない。このドラフト会議は一般で言えば○○球団という会社への就職に該当する。一般の就職では、希望する会社は本人の意思に委ねられている。A社にするかB社にするかは本人が決めている。それと比較すると、ドラフト会議は、抽選で指名権を持った会社にしか就職が許されていない。職業選択の自由が損なわれるという批判はこの部分を指す。それらの批判を覚悟した上で、なおドラフト会議にこだわる理由は何なのか、という話題も提供してくれる。そもそも野球も、サッカーや他のスポーツと同様、自由競争でスタートしたのだが、就職を目指す選手はどうしても有名球団に流れやすい。選手が特定の球団に偏っては勝負がつまらないという批判が生まれた。あるいはまた、欲しい選手に多額の報酬を約束する、これも財源が豊かな特定の球団が有利になってしまう。労働力の需給関係と同じで、契約金は天井知らずに上がると同時に、金の力を使って他球団に決まりかけている選手を集めることさえ起きてしまう。「強くて有名で財源が多い球団が有利になる制度を改善」することで、球団間の戦力を均等化させることを目的にしつつ、天井知らずの契約金を抑える趣旨では同一歩調がとれることもあり、ドラフト制度がスタートした。
サッカーと違ってこのように選手の就職に制限をつけるプロ野球は、所詮、企業の都合を優先させたわがままなのだが、そうした批判をかわす狙いもあり、選手生活が○○年経てば他球団に移る権利を行使できる、あるいはアメリカのメジャーリーグへの移籍も可能となるFA制度を導入するなどの知恵を絞ってきた。
さて、若い人には知らない人も多いが、このドラフト会議のたびに、いつも話題になるのが巨人軍の江川と桑田の名前である(両騒動の内容は末尾の付随資料を参照)。江川の入団騒動は1978年のこと、桑田の入団騒動も1985年と、いずれも34年と27年も前の話なのだが、なぜか今もってドラフト会議にまつわる騒動の代表格として取り上げられている。いずれも騒動の際には、マスコミに散々たたかれ、悪の権化のような評価を受けていた。そして時が経った現在、江川は相変わらず論難され続け、桑田はいつの間にか名投手の誉れが高い選手だったとの評価に変わっている。
当時、口さがない私たちは、マスコミの無責任な断定的報道を受けて、「江川はけしからん」、「いや止むを得ない」、「桑田は少年にあるまじき行為」、「いや可哀想すぎる」と、これもまた無責任な談義の花を咲かせたものであった。当事者がどんな心情でいるのかも推し量らずにである。
そして今、江川は相変わらず何をしてもよく言われないのに、桑田は当時の非難が嘘のように静かな環境におかれている。つられて私たちも、自分では見ることができない「真実」を、マスコミを通じて流される情報をもとに、さも見ていると錯覚しながら江川は悪人で、桑田は善人と信じこみ、その前提でプロ野球談義に花を咲かせているのである。なんとも無責任な自分がいるのである。
これも20年以上も前の話になるが、読売新聞が次のような記事を掲載している。タイのトップモデルであるスパンさんは、エイズのセミナーである病院の院長から、「コマーシャルにも出ている有名なモデルは陽性でコールガールである」と言われた。名は秘されていたが、記者たちは補足取材でスパンさんを指していることを突き止め、新聞、雑誌でこれを取り上げ、「トップモデルのSさん」、あるいは「目の部分を黒く修正した写真」を使って大々的に報道した。スパンさんは、他の病院でエイズではないと身の潔白を証明したが、もはや彼女のコマーシャルはテレビからすっかり消えてしまっていた。
スパンさんはこう言う。「誰も恨みはしないが、生きていながらにして殺されたのも同然だった」と。
私たちはテレビや新聞を盲目的に信じてしまうことのないよう、冷静に分析する能力を常日頃から磨くことを忘れてはならない教訓でもある。
(2012年12月20日・本稿は1982年~1988年執筆の原稿を加筆・修正したものである)
※付随資料 江川事件と桑田騒動 高校野球の歴史上、ノーヒットノーランを12回も記録した怪物が栃木県にいた。プロ野球のドラフト会議にまつわる事件として、今も語り継がれる「空白の一日」事件の当事者、江川卓(元巨人軍投手、現野球解説者)である。近年のプロ野球ドラフト会議ではさまざまな物語が生まれるが、世の物議をかもした事件や騒動の代表といえば、この「江川事件」と、これも元巨人軍投手で現解説者の「桑田真澄騒動」が双璧だろう。若い世代の人のために、両事件・騒動のおおよその状況を記しておく。
まずは、江川事件であるが、高校の卒業時にもドラフトの指名をめぐって若干の騒動が起こる。本人は、少年時代から高校では甲子園、大学では早慶戦、プロは巨人という夢を持っていたようである。したがって高校の作新学院を卒業するにあたっては、当時の阪急(現オリックスの前身)からドラフト指名を受けたが、大学を目指していたため阪急の指名を拒否し法政大学への進学を選択した。
大学を卒業する1974年のドラフト会議、江川は巨人に入団できなければ巨人と対戦できる在京セリーグ球団であればという意思をもってドラフト会議に臨んだものの、江川の指名権を獲得したのは九州福岡のクラウンライターライオンズ(現西武ライオンズの前身)であった。江川は入団を拒否、アメリカの南カリフォルニア大学へ野球留学してしまった。当時のドラフト会議の規則では、交渉権は翌年のドラフト会議の二日前まであった。そこで巨人軍は、クラウンの交渉権が切れ、次のドラフト会議の始まるまでの一日であれば契約できると主張して、その一日を使って江川と入団契約を結んでしまう。ゆえに、この事件を「空白の一日」事件と称するようになる。もちろん、この「空白の一日」は、次のドラフト会議への準備期間にあてるために設けられたもので、巨人軍の主張は到底受け入れられるものではなく、他球団はもとより、世論の非難と糾弾を浴びることになった。その後、巨人がボイコットしたこの年のドラフト会議では、阪神が江川の指名権を獲得するが、巨人軍はリーグからの脱退、新リーグの設立をほのめかすなど事態が紛糾、結局、金子コミッショナーによる「阪神に入団した後、巨人へトレードする」との裁定によって解決することになる。
阪神がトレード相手に指名した選手が、巨人で2年連続18勝を記録していた小林繁で、小林投手はトレードで阪神移籍後に22勝をあげ沢村賞を獲得した(巨人戦は負けなしの全勝であった)。小林投手に阪神へのトレードが連絡されたのはキャンプイン前日の空港で、こうした一連の経過から、「江川は悪者、小林は悲劇の選手」との評価が定着、以後、今日に至ってもなお、江川を好意的に見る人は少ない。
一方、夏の甲子園を沸かした大阪のPL学園は、3年間に5回も出場し、優勝を2回、準優勝を2回、ベスト4が1回という驚異的な記録を残している。その中心選手が桑田真澄投手、清原和博選手で、KKコンビといわれドラフト会議の注目を浴びていた。清原は巨人入団を熱望、桑田は早稲田への進学希望を表明していた。したがって各球団は桑田の指名をあきらめる一方、清原には指名が競合することが予想できた。しかし、巨人は桑田を強行指名して交渉権を獲得、清原には6球団が競合し西武が指名権を得て入団が確定する。清原は1位指名を希望していた巨人軍が、進学希望の桑田を指名したこともあって、涙を流して記者会見を行ったが、この映像も合わせて、巨人軍がいたいけな18歳の少年の心をもてあそんだとの評価が定着、桑田が後に進学をやめ巨人へ入団したこともあって「桑田は悪者」、「清原は悲劇の人」といわれるようになる。後年になって両選手とも、巨人を含む複数の球団から1位指名するといわれていたことを明らかにしている。
(本稿は2012年12月にj.union社の社員向け「温故知新」で執筆した原稿を加筆・修正したものである)



