鈴木勝利の「つれづれ日記」

コラム

vol.91 根はみえねえんだなあ~己の中の弱さ、醜さを知る勇気~
2015/08/15
 「殺されるかと思った」と、彼は言う。
会社からの帰り、深夜の道で年寄りの男性が、若いいかにも屈強そうな二人の男に殴られ小突かれているのに遭遇した彼は、
反射的に仲裁に入ったものの、顔面はもとより体中いたるところを殴られ、倒され、必死の抵抗も何の役にも立たなかった。
ようやく騒ぎを聴きつけた近所の人の通報でパトカーのサイレンが聞こえ、彼は死地を脱した。
 やっと一息ついて周囲を見回したとき、最初の被害者であった年寄りの男性はとうに姿を消していたという。
かなり前になるが、ある会社の若い男女十数名との懇談の際に聞いた話である。
もともとこうした話題になったのは、私が学校のイジメで最も恐ろしいのは、イジメを見ていてはやし立てたり、
見て見ぬ振りする観衆や傍観者が存在することであり、それは、深夜の電車で酔っ払いに絡まれる女性を助けようともしない大人社会の風潮の投影ではないか、
という投げかけからであった。彼は三十代の前半、調理を一生の仕事として励み、二児の父親であるにもかかわらず、「正義」に立ち向かえる勇気、そ
んな勇気が私自身に無いゆえに頭を下げざるを得なかったのである。しかも彼は言う。「もう一度遭ったらどうします」の問いに、「やはり同じことをするでしょう」。
彼は体が大きいわけでもない。喧嘩も強そうにも見えない。そして、後先を考えられない感情に走るタイプでもないのである。
そんな男が、「殺されるかと思った」ほどの恐怖心を抱きながら、再び「するかもしれない」と言える心の強さに敬服するのである。
それに引きかえ、人前で話す機会の多い自分が、口でいくら正義を唱えたところで、そうできない自分の卑怯さが醜く思えて仕方がない。社会の中で立派なことを言う人は多い。
自分を振り返っても、さも自分は努力し、苦労し、今日を迎えたと思っても、その心の奥に、弱さ醜さを隠し、ひたすらおのれをひけらかす自分に気付く。
栃木県の足利に住み、故郷をこよなく愛する相田みつおさんの書にこんなのがある。
「花を支える枝
 枝を支える幹
 幹を支える根
 根はみえねんだなあ」
 そして相田氏は、上へ伸びることばかり考えて、土の中へ深く根を張ることを忘れていた自分は、ヒョロヒョロと幹ばかり伸びて、その重みに耐えられない根の弱さを知り、
さびしかったが自分の手で自分の枝葉を落とした。そして今は、誰にもわからない根だけが知る静かな充実感を持ちつつある、と語る。
 華美で虚栄に包まれる人生は、そのまま一生を終えることは出来ても、次世代にまでその虚栄を引き継ぐことはできない。
だとすれば、自分の姿をしている木の、枝と葉と花が、土の中の根と調和しているのか、ふと考えてみたくなるこの頃である。