かつて日本のデパートの代表格として君臨していた三越は、1982年に納入業者に対して商品や映画の前売り券などを押し付け販売を始め、各種催し物への費用負担を強制するなど、優越的な地位を濫用したとして公正取引委員会から審決を受けた。さらに、三越で主催した「古代ペルシャ秘宝展」に多くの偽物を出典していたり、経営は乱脈を極めていた。当時の社長:岡田茂氏は、ジャーナリストの知人から紹介された女性を寵愛し、その愛人が経営するアクセサリー店に不当な利益を供与、自宅の改修費用にも会社の金を流用していた。こうした問題から三越内部で造反が起こり、社長を解任され非常勤取締役に降格となった。
三越は後任が綱紀粛正に勤め、顧客や取引業者の信頼回復に努め今日に至っている。愛人の名は「竹久みち」(本名:小島美知子)、社長に寵愛されて帝王のごとく振舞っていたことから「三越の女帝」と称されていた。両者とも特別背任の容疑で実刑と罰金の有罪判決を受け、岡田社長は上告中の1995年に死去、竹久は実刑判決が確定後、栃木刑務所で服役中の2009年に病気のため獄死した。
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人のおもいは、いずこへもゆくことができる。
されどいずこへおもむこうとも、人はおのれよりいとしい者をみいだすことはできぬ。
それと同じように、他の人々にも自身はこのうえなくいとしい。
されば、おのれのいとしいことを知る者は、他の者を害してならぬ。
これは、ある女性の問いに答えた釈尊(釈迦)の言葉である。解説によれば、【自分のいたみ、自分のよろこび、自分のかわいさということを感動をもって味わったことのある人なら、他の人のいたみやよろこびにも、知らず知らずに共鳴できる。それをやさしさという】という意味になる。
文明をいくら進歩させても、科学でどんなに自然を克服しても、人間が永遠に理解・解決できないものは人間関係であり、人の心である。ある出来ごとに対しても利害打算はもとより、あらゆる感情が複雑に襞(ひだ)を作る心を持っているからであろう。しかも、沈着冷静な理性よりも、感情によって動くことが多い心ゆえになおさらである。
昔からよく言われることだが、人と人との交わりにも、地位や身分や年齢や打算に惑わされない交友と、何か「ためにする」ための交友とがある。中国では前者を素交、後者を利交というが、この悪い交友、つまり利交には五種類あるという。
勢交(勢力に従う交際)、賄交(カネが目当ての交際)、談交(名声のための交際)、窮交(うだつの上がらない交際)、量交(相手の成功不成功を量(はか)っての交際)の五つだが、今まで見たり聞いたりしてきた経験の中で、思い当たる節がないわけではない。反対に親友と呼ばれる素交について、釈尊はこう答えている。
【一に与え難きを与う。二に作(な)し難きを作す。三に忍び難きを忍ぶ。四に密事を語(つ)ぐ。五に密事を他に向かって語らず。六に苦に遭(あ)うも捨てず。七に貧賤たるも軽んぜず。この七つを備えているのが親友ということになる。なにごとも話し合え、その内密のことを他人にべらべらしゃべることはしない友だ】と、いわれてみればなる程と思うことばかりである。
人の心とは、移ろいやすいゆえに、この人なら、という親友が欲しいのである。信頼できる人がいるかいないかは、その人の人生にとって大きな意味を持つことになる。男女の恋愛においてさえ、単なる性愛の関係だけなら破綻と同義語となる。
三越事件の岡田元社長は三越の女帝といわれた竹久みちについて、法廷で、「竹下はいつも私を元気づけてくれた」、「私は竹久に愛情を感じていた」と述べた。許されない背任という犯罪、不道徳な愛人の存在、私利私欲、公私混同と重い十字架を背負ってしまった被告とはいうものの、一個の人間と人間の関係に限って言えば、悪女竹久みちと犯罪者岡田茂は、意外にも良き友をもった男と女であったのかもしれない。
(本稿は2012年12月にj.union社の社員向け「温故知新」で執筆した原稿を加筆・修正したものである)



