近代社会では、世の中の出来事すべて(それは国際問題でも、政治でも、国内のあらゆる事象でも、すべてにわたって)マスメディアの影響を抜きには考えられない。自分では自らの意思によって出した結論と思っていても、突き詰めると、意外にマスメディアからの影響を受けていることが多い。
もともと人間は他人からの影響を受けて育っていく。もって生まれた本能や才能、あるいは性格による部分が多少はあったにしても、たとえば、数学でいえば1+1が2であることは、学習することで知るのだ。
基礎的知識は他人から教えを受ける。そこまでは誰もが同じだ。問題はそこからで、基礎的知識から理論を演繹していけるか否かで能力に差がつくのかもしれない。
同じように、ある出来事をマスメディアを通じて知ったとする。そのとき、鵜呑みにする人と、出来事の本質やそれがもたらす影響を考えられる人とでは差が出てくる。
どちらが望ましいかといえば後者であることは論を待たないし、マスメディアに影響されない自らの意思と誇れるのである。
しかし、後者であるためには、基礎知識と感性とでもいおうか、何らかの努力や才能が必要になる。
小説家は語彙を豊富に駆使することで、一つの現象を鮮やかに文章表現する。カメラマンは私たちと同じ景色を見ながら、ファインダーを通した眼で景色がどのように表現できるかを見ている。それらは知識と感性によるものだ。
日常の一種殺伐とした世の中ゆえに、人々は感動的な話に惹きつけられる。
感動は読み手や聞き手の感性によって違ってくる。感動的な話なのに、聞いても何気なく聞き流す人もいれば、見ても気がつかない人もいるのだ。
禅僧の中野東禅さんが、今は亡き作家の灰谷健次郎さんから聞いた話と断りながら
ある本にこんな話を書いている。
「灰谷さんが学校の先生だったころ、夏休みの宿題に、『いちばんうれしかったこと』について作文を書くように出題した。
ある生徒は母子家庭で、母親がミシンをふんで生計をたてていた。だから海水浴にも山にもなかなか連れて行ってもらえない。ある暑い日の夕方、町工場にはさまれた狭い長屋でのことであった。縁側で遊んでいたその子は顔を上げると思わず『かあちゃん! 夕やけや! !』といった。時間を惜しんでミシンを踏んでいた母親が思わず『あら! ! まっかやね―』といって子供のそばに来ていっしょに座り、日がくれるまで二人してじっと空をみつめていた。そしてこの少年にとって、その夏いちばん嬉しかったことは『夕やけ』という作文になったのである」
中野東禅氏は言う。「一刻を惜しみ、暮らしに終われるのが精一杯で心にゆとりのないように見えたこの母親が、子供の感動に共鳴し、自分を捨てて無為の時間をともに喜んでくれた。…」
夏休みに友だちが海や山に行くのを見ても、暮らしに追われ時間を惜しんでミシンを踏んでいる母親をみればせびることもできず、ひとり家の縁側で遊んでいる子ども。ふと顔を上げたら「夕やけ」が眼に入った。思わず見とれて母親にその美しさを声に出す。母親はミシンを踏んでいた手を休め、隣に来て同じ感動に浸って座り続けてくれる。仕事に忙しい母親とたとえ短い時間でも共に座って夕やけを見ていたひと時、それこそが、この子供にとって海や山に行くよりもはるかに嬉しかったのである。
この話には特別な知識や才能は関係していない。ただ一つ、子どもに夕焼けの美しさに感動する心と感性があったことであり、その子どもに応える母親の心に豊かさがあるだけだ。私たちは識者が唱える教育論よりも、子に対する母親の慈しみの心に感動するのである。
でもよく考えてみると、知識や才能といわなくても、これは実に日常的で平凡な話なのだ。子どもの声を無視する母親もいれば、一円でも収入大事とばかり生返事でやり過ごす人もいるだろうが、ちょっとしたこと、すなわちこの場合、しばし隣に座って子どもの心に思いを馳せるというなんでもないことが「この夏いちばん嬉しかった」になるのだ。夕やけも特別なことではないし、隣に座ることも特別なことではない。
平々凡々とした日常生活の中にこそ、感動は芽吹いているのかもしれない。
感動は人々に新たな思いを生じさせ、活力を生む。
人生は感動に出会えるほうが幸せなのだ。だとしたら、何気ない日常生活に感動が潜んでいるのに気がつかないのは不幸なのかもしれない。



