犯罪の低年齢化が進んでいる日本社会の現状に対してさまざまな人から子どもの教育や在り様に評論が加えられている。かなり前になるが、社会に現れる現象はわずか一つの要因からうまれるのではなく、いくつかの要因が複合して生まれると記した。そしてそれらの現象を解決するには、複合されている要因すべてを解決しなければ結果も変わらないとも述べた。
教育一つとっても、学校も、教師も、家庭も、拝金主義の経済界も、政治への不信感も、それぞれの要因が複合して今日の社会風潮を作っているのだ。だから教育を改革するには、学校も、教師も、家庭も、経済界も、政治も、関係するすべての人々が自らを改革しなければ教育はよくならない。こうした問題を論じる人も、実は上に挙げた要因の一つを構成しているのだ。学校関係者かもしれないし、労働者も含めた経済に関係する職業の人かもしれない。また、父か母か、息子か娘かという家庭人かもしれないし、政治に携わっている人かも知れない。なのに教育のガンは、自分以外の人や組織にだけ原因があり、「自分だけは正しい」前提が貫かれている。関係者みんなが「自分が正しく、他の組織や人や環境が悪いのだ」と考えてしまうと、結局は改革しなければならないことは「ナシ」ということになってしまう。そして今よりもっと悪くなっていく。
人は、誰しもが自分だけは正しいと思いたい。しかしそう思いつつも、もう一度自分を見つめ直すことによって始めて自分を変えることができるのだ。他者の批判よりも、自分が、よき学校関係者なのか、よき教師であるのか、よき家庭人であるのか…。すべての人がまずは自分の在り様を考えるのが改革のスタートになるのである。自分の在り様を考えるのであれば、ある剣豪の名言「我以外皆師」のごとく、教材は身の回りに無限にある。
ある知人がこんな話をしていた。
その知人は交通事故で大部屋に入院していた。たまたま重症患者のいない外科病棟で、毎夜遅くまで患者どうしの他愛無い会話が続く普通の病室であった。その日も普段と全く同じように語り疲れて就寝していたが、夜中に赤ん坊の泣き声に目を覚ましてしまう。部屋のあちこちから「チェッ」という舌打ち、「うるせェ」との呟き、眠気を妨げられた患者の不満の声があちこちから聞こえる中、「母さんここにいるよ。母さんここにいるよ」と幼い声が聞こえた後、赤ん坊の泣き声がぴたりとやむ。「なんだ、母親がいるじゃないか」「もっと早く泣きやませればいいのに」、患者は思い思いに勝手な文句を言いながら再び眠りに入っていく。病室はシーンとなって以前の静寂に戻る。
寝そびれた知人はしばらくしてトイレに立つ。病室を出て歩いていくと、先ほど赤ん坊の泣き声が聞こえたとおぼしき病室に差しかかる。通りがかりに開け放たれた病室のドアからふと中をのぞくと、入り口脇のベッドが眼に入る。さっきまで誰かが寝ていたと思われる空のベッドがあり、隣のベッドに小さな頭が二つ見える。立ち止まって見入っていると、おかっぱ頭の少女が、隣に寝ている赤ん坊の頭をなでながら、耳元で「母さんここにいるよ」と囁きかけている。赤ん坊がスヤスヤ寝入ったのを見た少女は体を起こしかけた。知人はあわてて病室から離れたそうであるが、ベッドにもどった後も、少女の「母さんここにいるよ」の声が耳を離れず、いろいろと思いをめぐらすことになる。
昼間は付き添っていた母親が帰った後、一人ぽっちになった赤ちゃんは寂しさから母親を探し求めるように泣き続けたに違いない。その泣き声に自分たちも起こされたのである。「うるさい」とか、「チェッ」とか、不満タラタラに、である。
そんな時、隣に寝ていた少女は、そう、おかっぱ頭から想像するにきっと小学生になったばかりの幼子だ。少女は泣き叫ぶ赤ちゃんのベッドにのぼり、隣に添い寝すると頭を撫でながら「母さんここにいるよ」と必死に囁きかける。やがて赤ちゃんは、母と思しき(おぼしき)優しい温かみに心を安んじてスヤスヤと眠りに入る。
あの幼い少女の思いやり、泣いている赤ちゃんの傍らに添い寝して、赤ちゃんの心を安んじさせる行い、なんと素晴らしい少女ではないか。我が家の家族一人ひとり、自分を含めた家族全員に、こうした何気ない思いやりの心が育まれているのだろうか。ふと我が家の至らなさに思いがいってしまう。小学校に入学したばかりの少女に感動すると同時に、少女もすごいと思いながらも、あんな素晴らしい少女に育てている親はどんな人なのだろうか、どんな教育をしているのだろうか、と、わが身に置き換えて思いはどんどんと広がっていく。とうとうその日は、それ以降、まんじりともせずに朝を迎えたという。
どんな立派な教育論も、この小さな少女の行為には及ばない。自分を埒外において教育を論ずる大人たちよりも、少女の行為に心をめぐらせ自分の家庭をみつめなおす知人の方が、はるかに社会の改革に有意義な人だ。知人の家庭がよくなったからといって社会の風潮が改善されるわけではないが、そう思う人が一人増え、また一人増えていくことで社会は変わっていくのだ。戦後60年かけて問題が起きたのであるから、これから徐々にでも60年かけて直していけばいいのだ。
身の回りにおきる些細な出来事も、受け手の自分の感性次第でよき師になるのである。我以外皆師。
教育一つとっても、学校も、教師も、家庭も、拝金主義の経済界も、政治への不信感も、それぞれの要因が複合して今日の社会風潮を作っているのだ。だから教育を改革するには、学校も、教師も、家庭も、経済界も、政治も、関係するすべての人々が自らを改革しなければ教育はよくならない。こうした問題を論じる人も、実は上に挙げた要因の一つを構成しているのだ。学校関係者かもしれないし、労働者も含めた経済に関係する職業の人かもしれない。また、父か母か、息子か娘かという家庭人かもしれないし、政治に携わっている人かも知れない。なのに教育のガンは、自分以外の人や組織にだけ原因があり、「自分だけは正しい」前提が貫かれている。関係者みんなが「自分が正しく、他の組織や人や環境が悪いのだ」と考えてしまうと、結局は改革しなければならないことは「ナシ」ということになってしまう。そして今よりもっと悪くなっていく。
人は、誰しもが自分だけは正しいと思いたい。しかしそう思いつつも、もう一度自分を見つめ直すことによって始めて自分を変えることができるのだ。他者の批判よりも、自分が、よき学校関係者なのか、よき教師であるのか、よき家庭人であるのか…。すべての人がまずは自分の在り様を考えるのが改革のスタートになるのである。自分の在り様を考えるのであれば、ある剣豪の名言「我以外皆師」のごとく、教材は身の回りに無限にある。
ある知人がこんな話をしていた。
その知人は交通事故で大部屋に入院していた。たまたま重症患者のいない外科病棟で、毎夜遅くまで患者どうしの他愛無い会話が続く普通の病室であった。その日も普段と全く同じように語り疲れて就寝していたが、夜中に赤ん坊の泣き声に目を覚ましてしまう。部屋のあちこちから「チェッ」という舌打ち、「うるせェ」との呟き、眠気を妨げられた患者の不満の声があちこちから聞こえる中、「母さんここにいるよ。母さんここにいるよ」と幼い声が聞こえた後、赤ん坊の泣き声がぴたりとやむ。「なんだ、母親がいるじゃないか」「もっと早く泣きやませればいいのに」、患者は思い思いに勝手な文句を言いながら再び眠りに入っていく。病室はシーンとなって以前の静寂に戻る。
寝そびれた知人はしばらくしてトイレに立つ。病室を出て歩いていくと、先ほど赤ん坊の泣き声が聞こえたとおぼしき病室に差しかかる。通りがかりに開け放たれた病室のドアからふと中をのぞくと、入り口脇のベッドが眼に入る。さっきまで誰かが寝ていたと思われる空のベッドがあり、隣のベッドに小さな頭が二つ見える。立ち止まって見入っていると、おかっぱ頭の少女が、隣に寝ている赤ん坊の頭をなでながら、耳元で「母さんここにいるよ」と囁きかけている。赤ん坊がスヤスヤ寝入ったのを見た少女は体を起こしかけた。知人はあわてて病室から離れたそうであるが、ベッドにもどった後も、少女の「母さんここにいるよ」の声が耳を離れず、いろいろと思いをめぐらすことになる。
昼間は付き添っていた母親が帰った後、一人ぽっちになった赤ちゃんは寂しさから母親を探し求めるように泣き続けたに違いない。その泣き声に自分たちも起こされたのである。「うるさい」とか、「チェッ」とか、不満タラタラに、である。
そんな時、隣に寝ていた少女は、そう、おかっぱ頭から想像するにきっと小学生になったばかりの幼子だ。少女は泣き叫ぶ赤ちゃんのベッドにのぼり、隣に添い寝すると頭を撫でながら「母さんここにいるよ」と必死に囁きかける。やがて赤ちゃんは、母と思しき(おぼしき)優しい温かみに心を安んじてスヤスヤと眠りに入る。
あの幼い少女の思いやり、泣いている赤ちゃんの傍らに添い寝して、赤ちゃんの心を安んじさせる行い、なんと素晴らしい少女ではないか。我が家の家族一人ひとり、自分を含めた家族全員に、こうした何気ない思いやりの心が育まれているのだろうか。ふと我が家の至らなさに思いがいってしまう。小学校に入学したばかりの少女に感動すると同時に、少女もすごいと思いながらも、あんな素晴らしい少女に育てている親はどんな人なのだろうか、どんな教育をしているのだろうか、と、わが身に置き換えて思いはどんどんと広がっていく。とうとうその日は、それ以降、まんじりともせずに朝を迎えたという。
どんな立派な教育論も、この小さな少女の行為には及ばない。自分を埒外において教育を論ずる大人たちよりも、少女の行為に心をめぐらせ自分の家庭をみつめなおす知人の方が、はるかに社会の改革に有意義な人だ。知人の家庭がよくなったからといって社会の風潮が改善されるわけではないが、そう思う人が一人増え、また一人増えていくことで社会は変わっていくのだ。戦後60年かけて問題が起きたのであるから、これから徐々にでも60年かけて直していけばいいのだ。
身の回りにおきる些細な出来事も、受け手の自分の感性次第でよき師になるのである。我以外皆師。



