今年の春闘ではワークシェアリングと共にワークライフバランスが話題になっている。ワークライフバランスとは誰が創った造語か知らないが、仕事の虫と揶揄され過労死やサービス労働が問題になっている時期ゆえに、仕事と私生活を調和させる運動とは言い得て妙な言葉である。
昨年になるが官房長官の諮問機関である「ワークライフ・バランス推進官民トップ会議」は、年次有給休暇の消化率を現在の47%から5年後には60%に、10年後には100%にする方針をまとめたという。本来は組織された労働組合自らが年次有給休暇の消化率を上げるべきなのだが、遅々として進んでいない状況から政治が乗り出したわけだが、労使の自主的な関係をもって解決すべきことがらに政治が口を挟むのはあってはならないことで、かつて、オイルショックによる狂乱物価の鎮静化を図る目的をもって政府が「所得政策」を掲げたときに、労働組合が労使自治の原則を楯に撤回させたことが懐かしく思い出される。
P&S社が毎月1回定例的に開催している「j.union club」でも、この年休消化の実をあげるためのワーキングを何回か行なってきたが、年休消化が進まない理由としてあげられているのは、一つに職場における作業量と人員不足、二つに組合員の意識の問題が多かった。しかも特定の組合ではなくすべての組合に共通する課題であったように思う。
もう30年近く前になるが、1980年私が東芝労組の支部委員長時代、役員の間でなんとかして年休の切捨てをゼロにできないか、鳩首凝議(きゅうしゅぎょうぎ=大勢が集まって熱心に議論すること)を思い出す。そこで出された課題は今とまったく同じで、とくに組合員の意識で言えば、[1]取得してもやることがない、[2]病気など不測の事態になったときのため、[3]取得も自由、取得しないのも自分の自由、[4]自分がいなければ仕事に差し支える、などなどという意見に、組合として単に権利意識を振りかざすだけでは一向に改善されないということになった。それではどうするのか。侃々諤々(かんかんがくがく)の議論を何日繰り返しただろうか。組合員の一つ一つの意見に組合としての考え方を示そうということになり、やっと結論らしきものを出したのだがその内容はこうだ。
[1]取得した時間をどう使うかについて、組合の蔵書を提供し読書を通じて人生を考える機会を設けよう。例えば高齢者には定年後・老後の人生設計についての本を、というようにである。[2]当時、基準法上の年休の積み立て許容日数は40日間であった。もし40日を超える様な病は大病なのだから、休職制度の活用などで対応してもらうよう話そう。[3]取るのも取らないのも自由というのは、一見正しいように見えるが、職場の上下関係や同僚との関係がある以上、自分の取らない自由は、取りたい人の自由を拘束している現実を説明して理解を求める。[4]仕事でどんなに必要な人材でも年休の取得によって仕事が滞るようでは、むしろ上長の日常の労務管理を問うことで解決していこう。
ざっとこのような考え方を確認した後、次は対工場の問題に移る。ここで議論のキッカケにしたのは、自分がもし管理者で与えられた仕事をこなさなければならないとしたら、やはり部下に休むことなく働いてもらう道を選んでしまうに違いないということからであった。仕事量と定員の問題である。この問題を解決するには工場側の理解が欠かせないということになり、年休の取得を進めながら生産性を落とさない方法を模索することになる。そのためには第一に、計画的な取得が欠かせないことであり、職場ごとに年休の取得予定表を作り一ヶ月前までに書き込んでもらうことで管理者が仕事の計画がしやすい方法をとる、二つに、一日平均の取得者が偏らない方法を考えることであり、これは前項の計画表の記入にあたって留意することとし、三つに、組合員は土日の休日につなげる取得を望んでいるので、誰もが平均して対象になる方策として、管理者ではなく組合の職場責任者が該当者に注意することにした。さらにこの運動を通じて年休を全部使い果たした上に欠勤する人がいるので、欠勤することで他の人が取得できなくなることを説明し、欠勤者ゼロを目的にすることとし、工場には組合が責任を持つことを明言することにした。
もともと私たちの支部では一ヶ月の残業がひとり45時間を超える場合には、業務内容や残業をしなければならない理由を明記して組合との事前協議をする慣行が確立されていた。その申請書類に申請時までの年休の消化状況、今後の所得予定を具体的に明記させる、などを決め、工場側との話し合いに入った。
この時代、全社で各工場ごとに出勤率が明らかにされていたので、工場側の責任者としては、出勤率が全社で下位になることがわかっている取得運動には抵抗があると予想されていた。労使の話し合いは数度に及んだが、工場側幹部も組合の示した運動の進め方を理解し、年休消化と生産性の低下を招かない方法について労使が協調していくことを条件に、朝礼などで管理職者が率先して組合方針に協力する旨の挨拶をするところまで理解が進んでいった。
こうなると今度は組合の責任が出てくる。計画取得や欠勤ゼロの約束は守らなければならない。途中集計で危なそうな組合員が出れば、組合役員が自ら出て行って本人と膝を交えて話し合うことが続く。その一方で、あいも変わらずに休まない組合員も出てくる。硬軟両用の構えといおうか、硬のやり方は、切り捨て者が出た職場の残業申請は認めない方針を代議員で確認し、機械的にはいかないので、半期末(9月末)に取得が50パーセントに満たない組合員には黄色紙の注意書を発行する。ミシンの切り目を入れた文書で半券は本人に、残りの半券は職場の上長宛に発行する。上長宛には、「切り捨て者が出た場合は当該職場の残業申請が認められないので注意されたい」という趣旨が記載されている。本人宛ての文書には「あなたのために他の人の残業が認められない」ことへの注意を喚起する内容だ。
さらに3ヶ月経ち新年を迎えると繰り越せる20日を超える残余日数があると全員組合事務所に来てもらう。そこでひとり一人執行部が面談し、取得しない理由を明らかにしてもらった上で、前述した理由ごとの対応方針を説明する。同時に黄色紙と同じく、今度は赤紙で文書が配られる。表現も少し強めの内容になっており、赤紙と面談のセットの結果、年度末に年休取得が急増する傾向になってしまった。一年目はこれでよいとしても、年度末に取得者が増加しては計画取得の約束は守れないから、翌年度からは本人も職場も早めに取得をはかるようになっていった。
ここで面白い現象を発見することになる。職場に取得表を掲示することに対し、取得ができない雰囲気のときは取得表に書き込むことに抵抗があったのに、取得が当たり前になると早めに予定を取ろうと率先して自分の予定を書き込むようになることだ。ちょうど分水嶺のように劇的に変化するのである。だから取得運動の成否はこの分水嶺までいかに到達するかにかかっているのである。
こうして工場の幹部と職場の管理者の理解を得て年休の切り捨てゼロを達成したが、年休取得率を繰り入れた出勤率は下がったものの、全員の努力で生産性が下がることもなく今日を迎えている。とくに今も同支部の年休切捨てゼロは続いているのを聞くたびに、現役役員の苦労がしのばれるのである。
何事も最初よりも続けることが難しいという。
唐の太宗はいう。「創業は易く 守成は難し」
昨年になるが官房長官の諮問機関である「ワークライフ・バランス推進官民トップ会議」は、年次有給休暇の消化率を現在の47%から5年後には60%に、10年後には100%にする方針をまとめたという。本来は組織された労働組合自らが年次有給休暇の消化率を上げるべきなのだが、遅々として進んでいない状況から政治が乗り出したわけだが、労使の自主的な関係をもって解決すべきことがらに政治が口を挟むのはあってはならないことで、かつて、オイルショックによる狂乱物価の鎮静化を図る目的をもって政府が「所得政策」を掲げたときに、労働組合が労使自治の原則を楯に撤回させたことが懐かしく思い出される。
P&S社が毎月1回定例的に開催している「j.union club」でも、この年休消化の実をあげるためのワーキングを何回か行なってきたが、年休消化が進まない理由としてあげられているのは、一つに職場における作業量と人員不足、二つに組合員の意識の問題が多かった。しかも特定の組合ではなくすべての組合に共通する課題であったように思う。
もう30年近く前になるが、1980年私が東芝労組の支部委員長時代、役員の間でなんとかして年休の切捨てをゼロにできないか、鳩首凝議(きゅうしゅぎょうぎ=大勢が集まって熱心に議論すること)を思い出す。そこで出された課題は今とまったく同じで、とくに組合員の意識で言えば、[1]取得してもやることがない、[2]病気など不測の事態になったときのため、[3]取得も自由、取得しないのも自分の自由、[4]自分がいなければ仕事に差し支える、などなどという意見に、組合として単に権利意識を振りかざすだけでは一向に改善されないということになった。それではどうするのか。侃々諤々(かんかんがくがく)の議論を何日繰り返しただろうか。組合員の一つ一つの意見に組合としての考え方を示そうということになり、やっと結論らしきものを出したのだがその内容はこうだ。
[1]取得した時間をどう使うかについて、組合の蔵書を提供し読書を通じて人生を考える機会を設けよう。例えば高齢者には定年後・老後の人生設計についての本を、というようにである。[2]当時、基準法上の年休の積み立て許容日数は40日間であった。もし40日を超える様な病は大病なのだから、休職制度の活用などで対応してもらうよう話そう。[3]取るのも取らないのも自由というのは、一見正しいように見えるが、職場の上下関係や同僚との関係がある以上、自分の取らない自由は、取りたい人の自由を拘束している現実を説明して理解を求める。[4]仕事でどんなに必要な人材でも年休の取得によって仕事が滞るようでは、むしろ上長の日常の労務管理を問うことで解決していこう。
ざっとこのような考え方を確認した後、次は対工場の問題に移る。ここで議論のキッカケにしたのは、自分がもし管理者で与えられた仕事をこなさなければならないとしたら、やはり部下に休むことなく働いてもらう道を選んでしまうに違いないということからであった。仕事量と定員の問題である。この問題を解決するには工場側の理解が欠かせないということになり、年休の取得を進めながら生産性を落とさない方法を模索することになる。そのためには第一に、計画的な取得が欠かせないことであり、職場ごとに年休の取得予定表を作り一ヶ月前までに書き込んでもらうことで管理者が仕事の計画がしやすい方法をとる、二つに、一日平均の取得者が偏らない方法を考えることであり、これは前項の計画表の記入にあたって留意することとし、三つに、組合員は土日の休日につなげる取得を望んでいるので、誰もが平均して対象になる方策として、管理者ではなく組合の職場責任者が該当者に注意することにした。さらにこの運動を通じて年休を全部使い果たした上に欠勤する人がいるので、欠勤することで他の人が取得できなくなることを説明し、欠勤者ゼロを目的にすることとし、工場には組合が責任を持つことを明言することにした。
もともと私たちの支部では一ヶ月の残業がひとり45時間を超える場合には、業務内容や残業をしなければならない理由を明記して組合との事前協議をする慣行が確立されていた。その申請書類に申請時までの年休の消化状況、今後の所得予定を具体的に明記させる、などを決め、工場側との話し合いに入った。
この時代、全社で各工場ごとに出勤率が明らかにされていたので、工場側の責任者としては、出勤率が全社で下位になることがわかっている取得運動には抵抗があると予想されていた。労使の話し合いは数度に及んだが、工場側幹部も組合の示した運動の進め方を理解し、年休消化と生産性の低下を招かない方法について労使が協調していくことを条件に、朝礼などで管理職者が率先して組合方針に協力する旨の挨拶をするところまで理解が進んでいった。
こうなると今度は組合の責任が出てくる。計画取得や欠勤ゼロの約束は守らなければならない。途中集計で危なそうな組合員が出れば、組合役員が自ら出て行って本人と膝を交えて話し合うことが続く。その一方で、あいも変わらずに休まない組合員も出てくる。硬軟両用の構えといおうか、硬のやり方は、切り捨て者が出た職場の残業申請は認めない方針を代議員で確認し、機械的にはいかないので、半期末(9月末)に取得が50パーセントに満たない組合員には黄色紙の注意書を発行する。ミシンの切り目を入れた文書で半券は本人に、残りの半券は職場の上長宛に発行する。上長宛には、「切り捨て者が出た場合は当該職場の残業申請が認められないので注意されたい」という趣旨が記載されている。本人宛ての文書には「あなたのために他の人の残業が認められない」ことへの注意を喚起する内容だ。
さらに3ヶ月経ち新年を迎えると繰り越せる20日を超える残余日数があると全員組合事務所に来てもらう。そこでひとり一人執行部が面談し、取得しない理由を明らかにしてもらった上で、前述した理由ごとの対応方針を説明する。同時に黄色紙と同じく、今度は赤紙で文書が配られる。表現も少し強めの内容になっており、赤紙と面談のセットの結果、年度末に年休取得が急増する傾向になってしまった。一年目はこれでよいとしても、年度末に取得者が増加しては計画取得の約束は守れないから、翌年度からは本人も職場も早めに取得をはかるようになっていった。
ここで面白い現象を発見することになる。職場に取得表を掲示することに対し、取得ができない雰囲気のときは取得表に書き込むことに抵抗があったのに、取得が当たり前になると早めに予定を取ろうと率先して自分の予定を書き込むようになることだ。ちょうど分水嶺のように劇的に変化するのである。だから取得運動の成否はこの分水嶺までいかに到達するかにかかっているのである。
こうして工場の幹部と職場の管理者の理解を得て年休の切り捨てゼロを達成したが、年休取得率を繰り入れた出勤率は下がったものの、全員の努力で生産性が下がることもなく今日を迎えている。とくに今も同支部の年休切捨てゼロは続いているのを聞くたびに、現役役員の苦労がしのばれるのである。
何事も最初よりも続けることが難しいという。
唐の太宗はいう。「創業は易く 守成は難し」



