世の中がどのように進歩や変化をしようとも、「人間とは」という根源的な問いへの答えは変わらないもののようだ。21世紀にはいって「個の自立」とか、「個の多様性」とか、あるいは「自己責任」とか、さまざまに言われても、昔から不変の定義がある。
哲学者アリストテレスが「人間は社会的動物である」と喝破したのは遠くギリシャ時代だ。原始時代でも一人では生きていけないから集団(社会)をつくることで、狩をし農耕に精を出し生きてきた。人間とはそれだけひ弱で社会の中で寄り添っていかなければ生きていけないということなのだ。それだけに生まれてから後、学校でも、職場でも、家庭でも、生活すべてに人間関係がついてまわる。特に近年、職場における人間関係に疲れ果て、ニートになったり、メンタルヘルスの世話になる人が多くなったのは、日常生活で人間関係を苦手にする人が増えてきたためなのだろうか。
人間の心情は、心の襞と言われるように微妙で繊細なものだ。それだけに人生をどのように考えればいいのかが極めて大事になっている。世の中に起こる一つ一つの事象を自分がどうとらえるのかによって、その人の生き方は大きく変わってくる。
「カエルは自分が水の中に飛び込んだ勢いで浮かび上がるが、落ちるのがいやだと後ろ向きに落ちると浮き上がれない」という。この話を、「自分に関係ない話」と無視する人もいるだろうし、比喩ととらえて「何事にも前向きに取り組もう」と考える人もいる。どちらが正解という問題ではないから、読者皆さんの個々の考え方があってもいいのだが、人が生きていく限り前向きにとらえた方がいいのは自明だ。
誰もが人生で必ず経験する「人との出会い」や「別れ」も同様に、漫然とおくるのも人生、何かを感じるのも人生なのだ。
作家の瀬戸内寂聴さんがまだ瀬戸内晴美と名乗っていた頃、著書「一人でも生きられる」のなかでこう記している。
「出逢いには必ず別れが約束されていることを忘れがちなのも、人間のいじらしさかもしれない。別れの覚悟を定めて、出逢いの愉しさに酔うことの出来る人がいたら、それはもう人間ではない。
未来の別れに目をつぶって、人は出逢いの神秘を喜び、出逢いの甘さに酔えばいいのだと私は思う。どんな別れが前途に待っていようと、出逢うことをさけて通るのは淋しすぎる。その人の生涯で別れの数が多かったということは、出逢いの数も多かったということができる」。
それぞれに喜怒哀楽があるであろう別れを、出逢いの数が多かった人生としてとらえる生き方にうらやましさを感じつつ、そしてそうありたいと願わずにはいられない自分がいる。
人間が一人では生きられずに他人と寄り添うことで安心と安定を得て人生を送る。他人と寄り添う心持ちはこれもまた人によって違う。
「孤独に徹した後にも生じるやさしさこそ、人間だけに持つことの許された覚めたやさしさである。
それは情熱だけに流される肉感性から生まれるあのむせかえるようなおしつけがましい利己的なやさしさではなく、相手の孤独を汲みとるゆとりのあるやさしさである。
陽にあたためられた砂地のように、それは他者の淋しさを際限なく吸いつくす。
人間は淋しいから、燃えた後には美しいけれど、すぐ冷たくなる脆い灰が残るから、人間はよりそい、あたためあおうとする。
その時、はじめて、相手をゆする真心の愛が生まれる。
相手の欲することもかなえてやることが自分の素直な歓びにつながることを知る。」
「私は人の恋の永遠を信じることは出来ない。しかし人の恋は愛に育てることができて、その愛はもしかしたら永遠を約束してくれるものかもしれないと思うようになってきた。
恋を得たことのない人は不幸である。
それにもまして、恋を失ったことのない人はもっと不幸である。
多く傷つくことは、多く愛した証である。
繰り返していおう。人は死ぬために生まれ、別れるために出逢い、憎みあうために愛しあう。それでもこの世は生きるに価値あり、出逢いは神秘で美しく、愛はかけがえのない唯一の真実であることに間違いないようだ。
多く愛し、多く傷ついた魂にこそ浄福を。」
そうか、自分は生まれてから「死に向かって生きている」のだから、その時が60年なのか、70年なのか、あるいは90年なのかはわからないが、天の配剤として、その時までは真剣に誠実に生きよう。
哲学者アリストテレスが「人間は社会的動物である」と喝破したのは遠くギリシャ時代だ。原始時代でも一人では生きていけないから集団(社会)をつくることで、狩をし農耕に精を出し生きてきた。人間とはそれだけひ弱で社会の中で寄り添っていかなければ生きていけないということなのだ。それだけに生まれてから後、学校でも、職場でも、家庭でも、生活すべてに人間関係がついてまわる。特に近年、職場における人間関係に疲れ果て、ニートになったり、メンタルヘルスの世話になる人が多くなったのは、日常生活で人間関係を苦手にする人が増えてきたためなのだろうか。
人間の心情は、心の襞と言われるように微妙で繊細なものだ。それだけに人生をどのように考えればいいのかが極めて大事になっている。世の中に起こる一つ一つの事象を自分がどうとらえるのかによって、その人の生き方は大きく変わってくる。
「カエルは自分が水の中に飛び込んだ勢いで浮かび上がるが、落ちるのがいやだと後ろ向きに落ちると浮き上がれない」という。この話を、「自分に関係ない話」と無視する人もいるだろうし、比喩ととらえて「何事にも前向きに取り組もう」と考える人もいる。どちらが正解という問題ではないから、読者皆さんの個々の考え方があってもいいのだが、人が生きていく限り前向きにとらえた方がいいのは自明だ。
誰もが人生で必ず経験する「人との出会い」や「別れ」も同様に、漫然とおくるのも人生、何かを感じるのも人生なのだ。
作家の瀬戸内寂聴さんがまだ瀬戸内晴美と名乗っていた頃、著書「一人でも生きられる」のなかでこう記している。
「出逢いには必ず別れが約束されていることを忘れがちなのも、人間のいじらしさかもしれない。別れの覚悟を定めて、出逢いの愉しさに酔うことの出来る人がいたら、それはもう人間ではない。
未来の別れに目をつぶって、人は出逢いの神秘を喜び、出逢いの甘さに酔えばいいのだと私は思う。どんな別れが前途に待っていようと、出逢うことをさけて通るのは淋しすぎる。その人の生涯で別れの数が多かったということは、出逢いの数も多かったということができる」。
それぞれに喜怒哀楽があるであろう別れを、出逢いの数が多かった人生としてとらえる生き方にうらやましさを感じつつ、そしてそうありたいと願わずにはいられない自分がいる。
人間が一人では生きられずに他人と寄り添うことで安心と安定を得て人生を送る。他人と寄り添う心持ちはこれもまた人によって違う。
「孤独に徹した後にも生じるやさしさこそ、人間だけに持つことの許された覚めたやさしさである。
それは情熱だけに流される肉感性から生まれるあのむせかえるようなおしつけがましい利己的なやさしさではなく、相手の孤独を汲みとるゆとりのあるやさしさである。
陽にあたためられた砂地のように、それは他者の淋しさを際限なく吸いつくす。
人間は淋しいから、燃えた後には美しいけれど、すぐ冷たくなる脆い灰が残るから、人間はよりそい、あたためあおうとする。
その時、はじめて、相手をゆする真心の愛が生まれる。
相手の欲することもかなえてやることが自分の素直な歓びにつながることを知る。」
「私は人の恋の永遠を信じることは出来ない。しかし人の恋は愛に育てることができて、その愛はもしかしたら永遠を約束してくれるものかもしれないと思うようになってきた。
恋を得たことのない人は不幸である。
それにもまして、恋を失ったことのない人はもっと不幸である。
多く傷つくことは、多く愛した証である。
繰り返していおう。人は死ぬために生まれ、別れるために出逢い、憎みあうために愛しあう。それでもこの世は生きるに価値あり、出逢いは神秘で美しく、愛はかけがえのない唯一の真実であることに間違いないようだ。
多く愛し、多く傷ついた魂にこそ浄福を。」
そうか、自分は生まれてから「死に向かって生きている」のだから、その時が60年なのか、70年なのか、あるいは90年なのかはわからないが、天の配剤として、その時までは真剣に誠実に生きよう。



