先日、妻が仕事で不在のため、私が早く帰り、子どもたちの面倒を見る機会がありました。仕事を切り上げ、近所のスーパーで夕飯の買い物をし、家に帰り、お風呂を沸かし、ご飯をつくる。一緒にご飯を食べ、お風呂に入り、食器を洗う。なんと毎日妻はこれをやっているのかと、ついでに合間に洗濯もしているのかと思うと、感心と同時になんだか申し訳ない気持ちになりました。
私たちの会社も、幼い子どもの育児をしながら、日中は業務に携わる社員が増えてきました。職場で全力を尽くし、家庭でも全力を尽くす。夕飯を何にするかを考えるだけでなく、冷蔵庫に何が残っているのかを把握しているなんて!普通に仕事をしているけれど、毎日を戦場で過ごしている歴戦の勇者たちです。
話が変わって、昨年グーグルが社内の調査をしたそうです。うまく行っているチームとうまく行かないチームは何が違うのか。なかなか明確なものがわからずに苦労してたどり着いたものは、「安心感」だったそうです。失敗しても否定されるのではなく、その人やチームの成長につなげられる。成長のベースになるのはどうやら「安心感」のようです。
職場での「安心感」を実現するのは、主に上司の役割かもしれませんが、労働組合も貢献できる領域です。歴戦の勇者たちが「安心感」をもって働けるようにするためにも、労働組合が現場の情報を吸い上げて、経営トップの決断を促していく。会社全体に「安心感」をもたらすために、労働組合がきっかけを作っていくことが必要だと思います。
年末年始は実家のある千葉へ帰省しました。名古屋から上り方面へ向かう年末の新幹線は空席も多く、快適に過ごすことができます。おそらく名古屋から年末に登り方面に向かい、仕事始めに備えて年始に名古屋へ向かうという私の動きは、年末年始に帰省する他の多くの人々とは真反対になっているのでしょう。
実家に帰省する際に時間がある時は、かつて足を運んだ古書店や新古書店をのぞくことが楽しみのひとつとなっています。ここ最近の帰省でも何冊かの古本と巡り合いましたが、印象に残っている一冊があります。その一冊は都内某所の古書店の店頭に100円均一で無造作に並んでいたある登山家の紀行文でした。
わたしは休日に山を訪れることが好きなのですが、技術もないために低山を歩くことがほとんどです。そのため、自分よりもはるかに経験を積んだ登山家の文章に強い憧れを抱いてしまうところがあります。
ところが、頁をめくっていて「登山の目的が、古くは修験道であり、近くは心身鍛錬であるならば、万年雪のある(ビールもある)アルプスへ夏行くなどは、本末転倒も甚だしい行為でなくてなんであろう」(川崎精雄「やぶをこぐ」1941年)という一文を目にした時、登山家の原理主義的な姿勢に私は小さな違和感を覚えました。それはむしろ厳冬期の北アルプスへ登ったことのないわたしの嫉妬と言った方が正確かもしれません。
しかし、そのすぐ後に続く「厳冬アルプスへ向かうと同じく、夏は蒸されるような、汗で目がくらみ、頭の芯がぼやけるような、猛烈な藪山へ登ることこそ、正統登山道である、んではないかと実は考えたのである」というユーモラスな文章を読み、わたしは思わず笑みが零れました。なぜなら、かつてそれこそ夏山で、道なのかどうかもわからぬまま、それでも前に進むしかなかったので、藪こぎし続けた苦い経験がわたしにもあったことを思い出したからです。
それから数日後、わたしは弊社での仕事始めを迎えました。今年の抱負を漢字一文字で書くという社内行事があり、わたしは迷わず「藪」と書きました。ルートファインディングが難しい猛烈な藪山とは、私たちが働き暮らす現代そのものに思えたからです。今年も藪をこぐようにして、一歩でも二歩でも前に進みながら労働組合の活動支援を続けたいと思います。