鈴木勝利 コラム「語りつぐもの」

鈴木勝利 コラム「語りつぐもの」

'09年交渉の労使関係を考える-vol.18-
鈴木 勝利 顧問
2009/05/10
 '09年の春闘を振り返ってみると、どうも労使双方に労使関係についての考え方にすれ違いが見られる気がして仕方がない。労使にとって、難しい環境や時代になればなるほど労使関係が重要になってくるのだから、100年一度といわれる経済環境の悪化の中での労使交渉には、この労使関係そのものに対する認識の一致が不可欠であったはずである。しかし、現実には相互に十分に理解されぬままにとにもかくにも交渉は一応の決着を見たが、これは双方にとって将来に禍根を残すことになる気がする。
労使関係については、一度、j.union 株式会社の社内向けに拙文を掲載したが、今回はそれに加筆修正しながら労使関係について皆で考えてみたいと思う。

 そもそも労使関係とは、労働者が存在するから成立する関係である。この場合、労働者が存在する理由が大きくかかわってくる。労働者というのは何もない中で生まれるものではない。会社が資本、建物、機械、あるいは材料など(生産手段という)をそろえ、生産活動をして(製造業が生産するモノだけでなく、ソフトやサービスも生産すると考える)初めて発生する。だから生産活動が行なわれなければ労働者は存在しないのだ。このことだけをとらえると、「会社あっての労働者」「会社あっての労働組合」という理屈になり、会社の存続のためには、労働者は何時の場合も我慢や犠牲を厭うべきではないということになる。この理屈からは労使対等という概念は生まれてこない。何が欠けているかといえば、機械や設備などの他の生産手段と違って、労働者は人間であるという点である。労働者が機械や設備と同じなら、使い捨ても過酷な労働条件でも問題はない。しかし、人間は当然のように毎日生きる必要があり、同時に「人間の尊厳」というものがある。労働の対価としての賃金を得て、それを生活の糧として生きていく。生活の糧を得られなければ生きていくことは出来ない。労働者が人間である限り、企業が材料などと同じようにしか考えずに、労働者個人を人間の尊厳さえも保てないような雇用や労働条件のあり方でよいということは許されないのだ。

 企業の生産活動があって始めて雇用=労働者が生まれる。そして労働者には人間の尊厳が維持できる労働条件を確保しなければならないわけだが、会社と労働者の彼我の力関係は歴然としている。すなわち、会社にとっての労働者は生産要素の一部だから、必ずしもAさんを未来永劫必要としない。AさんがだめならBさんでもよいのだ。あるいはCさんに代わってもらっても良い。しかし、労働者の方はそうはいかない。A社を解雇されたら即生活に窮してしまう。こうした状況を避けるためには、会社から「あなたはわが社にどうしても必要な人」と評価されればいいのだ。労働組合が職業能力の向上に取り組むのは必要不可欠な活動なのだ。しかし、こうしたケースはまれで普通の場合、力関係でいえば圧倒的に会社に分がある。そこで個人の力ではどうしようもない労働者が、集団を構成して(労働組合をつくって)会社と対等の立場になれるよう法律で決めているのである。そうすると労働組合の活動の原点が、組合員の「人間としての尊厳の確保」と「職業能力の向上」にあるのがよく分かる。

 したがって、人間としての尊厳をもって生活するために最低限どのくらいの所得が必要かが問われるのだ。企業がどこまでの賃金を払えるのかが優先するのではなく、払わなければならないのであるから、最低賃金を払うことによって、場合によっては企業が倒産することも残念ながら止むを得ないのである(ドイツでは政・労・使の合意によって労働時間も対象になっている。基準法で決めても中小企業に大幅な猶予措置を設ける日本とは大違いである)。人間として最低限の尊厳を保てる水準こそが最低賃金であり、組合が最も力を注ぐべき処遇条件なのだ。

 一方、前述したように、企業が生産活動をしなければ雇用は発生しないことから「企業なくして雇用なし」の論理がある。相反する立場からの二つの論理を両立させるのは至難のように見えるが、狭い隘路を辿るように、双方の理論をギリギリのところで両立させるのが労使関係の真髄なのである。

 今日のように金融不況が心配されるとき、単に企業に雇用確保を求めたところで、生産活動ができなければ雇用確保はおぼつかない。しかし一方で、経営者は企業活動が難しいからといって、簡単に労働条件を切り下げる。あるいは、たいした努力もせずにすぐ解雇して労働者の尊厳を否定することは許されないのだ。一方、労働組合は生産活動が行えない中で、仕事があるときと同じような活動にこだわっては運動にならない。この矛盾した論理の妥協点を見出すには、労使双方の信頼関係によって成り立つ、健全で安定した労使関係が必要になる。安定した労使関係がなくしてギリギリの隘路を見出すことはできないからだ。ところが、この健全で安定した労使関係を作り上げるのは簡単なことではない。労使双方のトップの信頼関係はもとより、職場における上長と部下との信頼関係、組合役員と組合員の信頼関係、この三つの信頼関係がないと、本当の意味で安定した労使関係は成立しない。「三位一体の労使関係」というのはこうした相互の関係をさしている。

 こうしてみれば、「会社あっての労働者」「労使は車の両輪」「労使協調」などといわれる両者の関係は、いずれも一面のみの真理で、本当はもっと複雑な関係であることがよく分かる。ただ「労使は鏡」といわれるのは真実で、労使の紛争が起こったケースを分析すると、労使関係そのものを理解しない使用者が起こすケース、労働組合が「雇用は生産活動から派生する側面」を無視することで起こるケース、あるいは「労使の行き違い」から起こるケースなどさまざまである。労使が一旦紛争を起こすと、互いに自らを正しいと主張し相手を非難するから、紛争の長期化は労使リーダーの個人間の相互不信を招いていく。妥協し解決しても、相手を非難した紛争時の相互不信は従業員・組合員の心の中にも醸成されている。解決後の生産活動にも支障が出ることは明らかである。安定した労使関係が企業存続にとっても重要になる理由である。

 安定した労使関係を構築するためには、相互に相手の立場を知ろうとする努力が欠かせない。それゆえに、組合員から見て「組合は会社のことを考え過ぎ」という不満につながりやすいのである。「ニワトリが先か、卵が先か」論を克服した上で、組合のリーダーとして研鑽を重ね、三位一体の労使関係を構築する一方の旗頭として、組合員からも、職場からも信頼されるリーダーになることで、使用者よりも「一歩先んじる」リーダー像が確立される。そうしてこそ、会社の職制よりも組合のリーダーの方が、より人間として崇高であり、人としての存在意義を持つのではないか。

 そして経営者がどうであれ、今一度今年の春闘を振り返り、自分たちの労使関係がどうであったのか冷静に分析し、明日に向けた健全で安定した労使関係の構築にたゆまぬ努力をすることができれば09年交渉は意義のある交渉であったといえるのである。



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