'09年交渉もほとんどが収束する中、1929年~33年の世界大恐慌に匹敵するといわれた今回の経済危機は未だ予断を許さず、日本の労使関係を大きく変えようとしている。昨年来の派遣労働者の契約解除騒動以降、雇用問題は正規社員にも波及しつつあり、生計のすべてを雇用に依存する労働者に犠牲を強いる動きを強めつつある。
生産活動がなければ雇用労働者を必要としない企業経営にとって、一方で生活のすべてを企業に依存しなければならない従業員の存在とどのように折り合いを付け、企業存続と従業員の雇用確保を両立させるのかは最大の課題であるはずだし、労働組合にとっても従業員の雇用確保にスタンスを置きつつも、企業の生産活動が停滞し企業存続さえ危ぶまれるなかで、同じように雇用確保との両立のために何をなすべきかを考えなければならない。
業績悪化とはいえ率先して派遣労働者の雇用止めを行い、さらに黄犬契約(こうけんけいやく=労働組合への加入禁止や脱退を条件にした採用契約をいう)を行う企業が存在することによって、国レベルにおける労使の信頼関係が期待できない中、とにもかくにも政府を巻き込んで雇用確保のための政・労・使合意が整ったことは喜ばしいことである。とはいうものの、雇用確保の切り札になるはずのワークシェアリングには労使とも踏み込むのをためらっている。
連合はワークシェアによって賃金が下がることに抵抗を示すし、経団連は生産性や労務管理に不安を隠さず話は進んでいない。労働時間の短縮が賃金と連動する経験が乏しい日本では、賃金にも「時間給」の概念がないし、基本給以外にさまざまな付加給付があるために、たとえば家族手当を時間割にしていいのかどうか割り切れない。だから、どうしても仕事を分かち合って一人でも多くの労働者の雇用を優先するからといって、労働時間が短くなった分の賃金が下がることを容認できないのだ。
一方、経営者は労働時間を短くして労働者が増える分の人件費増と、仕事を分かち合うことで生産性が落ちるとして消極的になる。加えて労働者の働き方が変わることによって労務管理が複雑になることにも不安を隠そうとしない。つまり、労使双方とも一人でも多くの労働者に雇用機会を与えるよりは、今までの働き方、賃金水準という既得権ともいうべきものを護ることしか考えていない。口では百年に一度の大不況といいながら、しかも右肩上がりの失業率を記録し、住む場所さえない失業者が増加している中で、片や「不況のせい」、片や「経営者の責任」と不毛の主張を繰り返すばかりである。そうしているうちにも、失業者は後を絶たず、今日の食事や住まいにも汲々とする人々が増えていく。今年1月の生活保護の受給者は、116万8354世帯と過去最高を記録し、失業だけを理由にするわけではないが経済的困窮を理由にする自殺者数も増加を続けるなど、「こんな日本に誰がした」と呟きたくなる社会になってしまった。
社会の主要な構成員である経営者と労働組合が、今までの既得権に安住して何も手を打たないでいれば、社会から相手にされない立場に追いやられてしまうことを危惧する。
かつてローマ時代、「上院に逆らってある川を横断したら戻ることができないと知った上で」、あえて「ある川、ルビコン河」を渡ったユリウス・カエサルの決定を、「すべてを危うくするかも知れない重大決定をしたり」、「変更できない決定を下す」ことを意味する比喩として、「ルビコン河を渡る」と表現してきた。この比喩が全く適当といえるかどうかは分からないが、労使が雇用を確保するために、従来の既得権を解き放つ重い決断を下せるかがワークシェアの成否を左右すると考えれば、政・労・使三者があえて「ルビコン河を渡る」決断を下せるかが問われている。
ある意味、ワークシェアは政・労・使による社会契約といえるのだが、この問題を考える際にいつも思い出すことがある。1973年(昭和48年)10月にイスラエルとアラブ諸国間で第四次中東戦争が勃発すると、中東産油国は原油生産の大幅削減に踏み切り、日本は戦後最悪の経済危機に直面した。石油製品の価格急騰にとどまらず、石油と関係のない雑貨品まで値上がりを見越して店頭から姿を消していった。関西では店頭から消えつつあったトイレットペーパー争奪をめぐる騒動が起こるなど、福田蔵相自らが「狂乱インフレ」と称したほどの大インフレが起こった。ここで労働組合のリーダーなら二つのことに関心を持つ。一つは、物価動向(インフレ・デフレ)は組合員の生活にとってどのような影響をもたらすのかであり、二つには、労働組合運動と社会はどのように整合性をはかるべきなのかということである。賃金引き上げで実績+アルファの要求が繰り返されていた時代、物価と賃金の悪循環の阻止に果敢に挑戦した組合リーダーがいた。とくに先陣を切って前年の実績が30%を超えていた中で、要求を15%に自制してインフレ阻止に貢献し、かつ経済との整合性を図る春闘に切り替えた鉄鋼労連の宮田委員長が代表だが、賃上げの自制によってさしもの狂乱インフレが終息し、世界中から日本の戦後二回目の奇跡と称せられた。サラリーマンの家計を守った指導者として、以後の春闘を「宮田春闘」と呼ぶことになる。
この宮田春闘こそが日本における政・労・使による社会契約の先駆けであり、賃金要求を自制するという当時の労働組合としては「ルビコン河を渡った」運動であったといえる。この間の秘話を「産経新聞・政治部秘史」(楠田實編著)から引用してみよう。
【1976年(昭和51年)12月、第67代首相に就任した福田赳夫は、その在任中、「日中平和条約」の締結をはじめとして数々の業績を残したが、田中改造内閣の蔵相時代、あのオイルショックでひき起こされた大インフレの荒波を受け、沈没しかけた日本経済をたて直し、しかもその陰に「愛宕会」という、労働組合の大支援部隊があったことを知る人は少ない。
1976年暮れ、ロンドンで開かれたサミットの席上、カーター米大統領に「あなたは労働組合の強力な援軍をもって本当にうらやましい」といわれ、相好をくずしていた福田首相(随行は塩川正十郎)と「愛宕会」。】
同書で当時の記者であった佐沢利和氏は上記のように書き出す。「愛宕会」は当時、民間労組のリーダーたちは、労働に関する政策や諸制度の要求などをしても、政府・与党自民党からことごとくはねつけられて困っていたが、この話を聞いた佐沢氏が、後の首相になる福田氏と民間労組の良識的リーダーとの定期的な会合を提案し、自民党がもっぱら経営者サイドとだけ接触している状況を脱しようと福田氏も直ちに応じ、二、三か月おきに会合が重ねられるようになる。当時の労働界では自民党の領袖と会合をもつことに不潔感を持っており、港区愛宕山の割烹で非公式に行なわれたので、この会合を「愛宕会」というようになる。
労働組合側から参加していたメンバーは、中村卓彦(新日鉄書記長・後の鉄鋼労連委員長)、野村昭治(東京同盟書記長・後の電力総連会長)、山田精吾(全繊同盟書記長・後の初代連合事務局長)、高橋正男(NKK重工委員長)、後藤辰生(NKK製鉄委員長)、鈴木治(電力労連委員長)、後藤金満(中部電力労組副書記長)、金杉秀信(造船重機労連委員長)、宇佐美忠信(同盟会長)、竪山利文(中立労連委員長・電機労連委員長)、藁科満治(電機労連書記長・電機連合委員長)、得本輝人(自動車総連会長)、政界側からは福田、塩川、安部晋太郎(安部前総理の父親)、中川一郎('09年の麻生内閣で辞職した中川前財務大臣の父親)、三塚博、藤尾正行、長谷川峻、越智通雄、塚原俊平などが参加した。
【狂乱インフレ時の田中首相は政敵の福田氏に蔵相への就任を要請、福田蔵相は「日本経済は全治に三年かかる」として、総需要抑制策(公共事業の削減、特に道路事業に大ナタがふるわれた)をすすめると同時に、「愛宕会」では「物価会議」の様相といえるほど、インフレ阻止に熱い議論がたたかわされていた。1974年(昭和49年)の春闘は、物価上昇率21.8%に対し、32.9パーセントの賃上げを獲得したもののインフレは収まる気配を見せていないので、翌年も当然大幅賃上げを要求するのは誰が見ても明らかであった。そうなれば、賃上げコストを吸収しようとする会社は価格を引き上げるのも当然で、賃上げとインフレのイタチごっこによって狂乱インフレは止めどなく続いていく懸念が強くなっていた。】
【当時はまだまだ総評グループの間では、労使協調や、生産性の向上という言葉はタブーだった。しかし春闘の先頭に立つ良識的な民間労組のリーダーたち(鉄鋼、電機、造船重機、自動車、電力、繊維など)は、この「愛宕会」における真剣なやり取りの中で、賃金と物価の悪循環をたつこと、今後の日本経済が低成長時代に突入せざるを得ない情勢の中では、労働界も社会全般の動向と整合性を欠いては成り立たない、ということが強く認識されていった。そして50年春闘(1975)の結果は、賃上げ率13.1%1万5千円、物価は3年間で6.7%までに落ち込んだ(このとき、総評グループは30%近い要求をしていたが)。春闘直後の「愛宕会」では、福田が天下同憂の士に深甚の謝意を表した。熱血居士の中川一郎が「これで日本は大丈夫だ。ありがとう」と涙しながら抱きついてきた。私も頬をぬらした。翌年誕生した福田内閣のスローガン「連帯と強調」は、「愛宕会」の成功の例をにじませたものだったし、福田新首相は、労相に宇佐美同盟会長の起用も一時考えたほどだった。労組の要求する諸制度、施策もこの「愛宕会」と通してかなり実現した。なかでも大平内閣当時に労働三団体の統一要求、一兆円減税は「愛宕会」の席上福田がサインを出し、翌日の福田派朝食会で、塩川が「労組の要求には耳をかすべきものがある」と発議、政府を動かし、名目はいくつかに分けられたが、実質的に減税が実現したものだった。】
百年に一度の大不況、1929年~1933年の大恐慌以上といわれる不況の中、果たして労使はどのような決断をするのだろうか。
生産活動がなければ雇用労働者を必要としない企業経営にとって、一方で生活のすべてを企業に依存しなければならない従業員の存在とどのように折り合いを付け、企業存続と従業員の雇用確保を両立させるのかは最大の課題であるはずだし、労働組合にとっても従業員の雇用確保にスタンスを置きつつも、企業の生産活動が停滞し企業存続さえ危ぶまれるなかで、同じように雇用確保との両立のために何をなすべきかを考えなければならない。
業績悪化とはいえ率先して派遣労働者の雇用止めを行い、さらに黄犬契約(こうけんけいやく=労働組合への加入禁止や脱退を条件にした採用契約をいう)を行う企業が存在することによって、国レベルにおける労使の信頼関係が期待できない中、とにもかくにも政府を巻き込んで雇用確保のための政・労・使合意が整ったことは喜ばしいことである。とはいうものの、雇用確保の切り札になるはずのワークシェアリングには労使とも踏み込むのをためらっている。
連合はワークシェアによって賃金が下がることに抵抗を示すし、経団連は生産性や労務管理に不安を隠さず話は進んでいない。労働時間の短縮が賃金と連動する経験が乏しい日本では、賃金にも「時間給」の概念がないし、基本給以外にさまざまな付加給付があるために、たとえば家族手当を時間割にしていいのかどうか割り切れない。だから、どうしても仕事を分かち合って一人でも多くの労働者の雇用を優先するからといって、労働時間が短くなった分の賃金が下がることを容認できないのだ。
一方、経営者は労働時間を短くして労働者が増える分の人件費増と、仕事を分かち合うことで生産性が落ちるとして消極的になる。加えて労働者の働き方が変わることによって労務管理が複雑になることにも不安を隠そうとしない。つまり、労使双方とも一人でも多くの労働者に雇用機会を与えるよりは、今までの働き方、賃金水準という既得権ともいうべきものを護ることしか考えていない。口では百年に一度の大不況といいながら、しかも右肩上がりの失業率を記録し、住む場所さえない失業者が増加している中で、片や「不況のせい」、片や「経営者の責任」と不毛の主張を繰り返すばかりである。そうしているうちにも、失業者は後を絶たず、今日の食事や住まいにも汲々とする人々が増えていく。今年1月の生活保護の受給者は、116万8354世帯と過去最高を記録し、失業だけを理由にするわけではないが経済的困窮を理由にする自殺者数も増加を続けるなど、「こんな日本に誰がした」と呟きたくなる社会になってしまった。
社会の主要な構成員である経営者と労働組合が、今までの既得権に安住して何も手を打たないでいれば、社会から相手にされない立場に追いやられてしまうことを危惧する。
かつてローマ時代、「上院に逆らってある川を横断したら戻ることができないと知った上で」、あえて「ある川、ルビコン河」を渡ったユリウス・カエサルの決定を、「すべてを危うくするかも知れない重大決定をしたり」、「変更できない決定を下す」ことを意味する比喩として、「ルビコン河を渡る」と表現してきた。この比喩が全く適当といえるかどうかは分からないが、労使が雇用を確保するために、従来の既得権を解き放つ重い決断を下せるかがワークシェアの成否を左右すると考えれば、政・労・使三者があえて「ルビコン河を渡る」決断を下せるかが問われている。
ある意味、ワークシェアは政・労・使による社会契約といえるのだが、この問題を考える際にいつも思い出すことがある。1973年(昭和48年)10月にイスラエルとアラブ諸国間で第四次中東戦争が勃発すると、中東産油国は原油生産の大幅削減に踏み切り、日本は戦後最悪の経済危機に直面した。石油製品の価格急騰にとどまらず、石油と関係のない雑貨品まで値上がりを見越して店頭から姿を消していった。関西では店頭から消えつつあったトイレットペーパー争奪をめぐる騒動が起こるなど、福田蔵相自らが「狂乱インフレ」と称したほどの大インフレが起こった。ここで労働組合のリーダーなら二つのことに関心を持つ。一つは、物価動向(インフレ・デフレ)は組合員の生活にとってどのような影響をもたらすのかであり、二つには、労働組合運動と社会はどのように整合性をはかるべきなのかということである。賃金引き上げで実績+アルファの要求が繰り返されていた時代、物価と賃金の悪循環の阻止に果敢に挑戦した組合リーダーがいた。とくに先陣を切って前年の実績が30%を超えていた中で、要求を15%に自制してインフレ阻止に貢献し、かつ経済との整合性を図る春闘に切り替えた鉄鋼労連の宮田委員長が代表だが、賃上げの自制によってさしもの狂乱インフレが終息し、世界中から日本の戦後二回目の奇跡と称せられた。サラリーマンの家計を守った指導者として、以後の春闘を「宮田春闘」と呼ぶことになる。
この宮田春闘こそが日本における政・労・使による社会契約の先駆けであり、賃金要求を自制するという当時の労働組合としては「ルビコン河を渡った」運動であったといえる。この間の秘話を「産経新聞・政治部秘史」(楠田實編著)から引用してみよう。
【1976年(昭和51年)12月、第67代首相に就任した福田赳夫は、その在任中、「日中平和条約」の締結をはじめとして数々の業績を残したが、田中改造内閣の蔵相時代、あのオイルショックでひき起こされた大インフレの荒波を受け、沈没しかけた日本経済をたて直し、しかもその陰に「愛宕会」という、労働組合の大支援部隊があったことを知る人は少ない。
1976年暮れ、ロンドンで開かれたサミットの席上、カーター米大統領に「あなたは労働組合の強力な援軍をもって本当にうらやましい」といわれ、相好をくずしていた福田首相(随行は塩川正十郎)と「愛宕会」。】
同書で当時の記者であった佐沢利和氏は上記のように書き出す。「愛宕会」は当時、民間労組のリーダーたちは、労働に関する政策や諸制度の要求などをしても、政府・与党自民党からことごとくはねつけられて困っていたが、この話を聞いた佐沢氏が、後の首相になる福田氏と民間労組の良識的リーダーとの定期的な会合を提案し、自民党がもっぱら経営者サイドとだけ接触している状況を脱しようと福田氏も直ちに応じ、二、三か月おきに会合が重ねられるようになる。当時の労働界では自民党の領袖と会合をもつことに不潔感を持っており、港区愛宕山の割烹で非公式に行なわれたので、この会合を「愛宕会」というようになる。
労働組合側から参加していたメンバーは、中村卓彦(新日鉄書記長・後の鉄鋼労連委員長)、野村昭治(東京同盟書記長・後の電力総連会長)、山田精吾(全繊同盟書記長・後の初代連合事務局長)、高橋正男(NKK重工委員長)、後藤辰生(NKK製鉄委員長)、鈴木治(電力労連委員長)、後藤金満(中部電力労組副書記長)、金杉秀信(造船重機労連委員長)、宇佐美忠信(同盟会長)、竪山利文(中立労連委員長・電機労連委員長)、藁科満治(電機労連書記長・電機連合委員長)、得本輝人(自動車総連会長)、政界側からは福田、塩川、安部晋太郎(安部前総理の父親)、中川一郎('09年の麻生内閣で辞職した中川前財務大臣の父親)、三塚博、藤尾正行、長谷川峻、越智通雄、塚原俊平などが参加した。
【狂乱インフレ時の田中首相は政敵の福田氏に蔵相への就任を要請、福田蔵相は「日本経済は全治に三年かかる」として、総需要抑制策(公共事業の削減、特に道路事業に大ナタがふるわれた)をすすめると同時に、「愛宕会」では「物価会議」の様相といえるほど、インフレ阻止に熱い議論がたたかわされていた。1974年(昭和49年)の春闘は、物価上昇率21.8%に対し、32.9パーセントの賃上げを獲得したもののインフレは収まる気配を見せていないので、翌年も当然大幅賃上げを要求するのは誰が見ても明らかであった。そうなれば、賃上げコストを吸収しようとする会社は価格を引き上げるのも当然で、賃上げとインフレのイタチごっこによって狂乱インフレは止めどなく続いていく懸念が強くなっていた。】
【当時はまだまだ総評グループの間では、労使協調や、生産性の向上という言葉はタブーだった。しかし春闘の先頭に立つ良識的な民間労組のリーダーたち(鉄鋼、電機、造船重機、自動車、電力、繊維など)は、この「愛宕会」における真剣なやり取りの中で、賃金と物価の悪循環をたつこと、今後の日本経済が低成長時代に突入せざるを得ない情勢の中では、労働界も社会全般の動向と整合性を欠いては成り立たない、ということが強く認識されていった。そして50年春闘(1975)の結果は、賃上げ率13.1%1万5千円、物価は3年間で6.7%までに落ち込んだ(このとき、総評グループは30%近い要求をしていたが)。春闘直後の「愛宕会」では、福田が天下同憂の士に深甚の謝意を表した。熱血居士の中川一郎が「これで日本は大丈夫だ。ありがとう」と涙しながら抱きついてきた。私も頬をぬらした。翌年誕生した福田内閣のスローガン「連帯と強調」は、「愛宕会」の成功の例をにじませたものだったし、福田新首相は、労相に宇佐美同盟会長の起用も一時考えたほどだった。労組の要求する諸制度、施策もこの「愛宕会」と通してかなり実現した。なかでも大平内閣当時に労働三団体の統一要求、一兆円減税は「愛宕会」の席上福田がサインを出し、翌日の福田派朝食会で、塩川が「労組の要求には耳をかすべきものがある」と発議、政府を動かし、名目はいくつかに分けられたが、実質的に減税が実現したものだった。】
百年に一度の大不況、1929年~1933年の大恐慌以上といわれる不況の中、果たして労使はどのような決断をするのだろうか。



