鈴木勝利 コラム「語りつぐもの」

鈴木勝利 コラム「語りつぐもの」

血を流すべき労働組合~政権交代と日本社会の再生~-vol.22-
鈴木 勝利 顧問
2009/09/10
 衆議院選挙で民主党が予想を超える圧勝して早10日、自分たちの生活が変わるはずと民主党に投票した多くの国民の期待は膨らんでいる。選挙結果が出るやいなや、マスメディアはこぞって「民主党に対する期待と不安」の大合唱となった。選挙中も自民党や公明党からは政策がばら撒きと批判され財源を詰問されていたが、考えてみればおかしな話でもある。政・官・業癒着の構造をつくり、公共事業をもとにした業界から多額の政治献金を集め、国を案ずるよりも地元への利益誘導政策を採り続け、莫大な赤字国債の発行で借金を積み重ねてきた自民党と公明党の責任は不問に付されるともいうのだろうか。

 こんな話を聞いたことがある。素人からみると政治の世界には理解不能な事柄が多い。イタリアの政治用語に「バルチザン戦術」というのがあるそうだ。選挙を前にした政権与党は、その選挙で不利が伝えられ政権交代が避けられないと判断したら、なりふりかわわまず予算を使い放題、赤字の状態で政権の座を明け渡すという手法だそうである。新しく政権についた政党は、放漫な国家財政の再建に取り組まなければならない。ややもすれば何も出来ない状態におかれ国民の不人気に晒されることになってしまう。かくして下野した政党は次の選挙で再び政権党に返り咲くことが可能となる。

 おそらくそこに危険を予知したがゆえに、民主党は税金の無駄遣い排除を掲げ続けたような気がするが。

 しかし国民の支持を失った自民党と公明党の批判を繰り返していればいいというわけにはいかない。それが野党であった時と政権を担う政党になった時の違いなのだ。あるいはそれを承知で政権を目指したのだから、どんなに難しくても惨憺たる国家財政の中で政治を進めていくしかないのである。損な役回りと愚痴も聞こえてきそうだが、ひたすら政策の実現に邁進するしかない。やがて国民は、自らの失政には口をぬぐい、批判だけに埋没する自民党や公明党に絶縁状を渡すことだってあるのだ。つらい政策を要求する民主党にはあまりにも酷のような気もするが、そうは言いつつも、世に腑に落ちぬことがあれば指摘するのも私たち国民の責任でもある。

 鳩山新総理は民主党の代表に就任した際、政治理念として「友愛」を掲げた。「何を子どもじみた」、「書生論議」などと揶揄されたが、理念でいえば世の中が競争至上社会になって、自己責任の名の下、強者はより強者になり、弱者はより弱者になるという生活を強制される社会になってしまったがゆえに、今こそ「友愛」という高邁な理念が必要のような気がする。

 「少子化社会」対策として「子ども手当て」が話題になると、「子どものいない家庭は負担増になる」「独身者も負担増だ」と批判する。高齢者医療制度も然り。自民党の前総理にいたっては、「元気な自分がなぜフラフラしている高齢者の医療費を負担しなければならないのか」と公言するに及んで、いったいこの国は、いつからお互いに支えあい、助け合う精神を放棄したのかとあきれ果てたりもした。

 受益者負担、利益を受ける人が負担するというのは聞き心地がいい。しかし人間社会は一人では生きられない。社会とは、多くの人がお互いに支えあってはじめて成り立つ。さまざまな人がいる社会で受益者負担がすべてであれば、障害をもっている人は障害者対策の費用をすべて自分で負担しろ。失業者は失業保険を自分で負担しろ…etc。こんな日本を望む人はきわめて少数のはずだ。

 健康保険の世話にならないですむということは、病気にならなかった幸せな人生なのだ。失業保険をもらわずに済んだのは失業しなかった幸せな人生だったのだ。失業しなかったことや病気にならなかったことと、掛け捨てになった保険金とを損得勘定で比較すべきことなのか。どこかがおかしい。いつからこんな日本になってしまったのか。こんな社会だからこそ、皆で支えあう「友愛」の理念が尊い気がする。

 社会とは、子育ても、高齢者の年金も、病者の医療費も、障害者も健常者と同じような社会生活を営めるようにするのも、失業者の生活や職業訓練も、制度はいろいろあっても国民全体で支え合わなければならない。「自分だけがよければいい」と皆が考えたら、それはもう人間社会ではない。弱肉強食の動物社会と同じだ。

 考えれば良く分かる。労働組合もまた相互扶助の最たる組織なのだ。相互扶助とは慶弔災害だけとは限らない。むしろ、近代社会がその必要性を認めた労働組合そのものが相互扶助組織なのだ。圧倒的に不利な力関係にある労働者に、労働組合という組織を通じて使用者との対等性を確保しようとしたのが近代市民社会の大原則なのだ。そうしなければ歴史を紐解くまでもなく、資本主義の歴史は、労働者を死をも伴う過酷な条件化に置くことで、企業利益のみを限りなく追求する歴史を繰り返してきた。文明社会はそれに気がつき、労働組合を法律で保護・育成する道を歩んできたのだ。

 それなのに、労働組合がもし、「自分さえ良ければ」と思った瞬間、天に唾することになる。組合の方針が「自分の組合さえよければ」となった瞬間から、組合員一人ひとりもまた、「自分さえよければ」と思うようになるからである。個々の組合員(労働者)が「自分さえ良ければ」と思った瞬間、労働組合はその存在意義を失う。労働組合の存立基盤が「組合員がまとまり支えあう」ことにあるからである。

 だから考えてみよう。労働組合自らが「自分たちさえよければ」、「自分さえよければ」という運動をしていないだろうか。「組合費を払っている組合員さえよければ」と。組合員である「正規社員さえよければいいのだ」。「組合員ではない非正規社員のことは関係ない」。「組合員の労働条件がすべてだ。失業者は関係ない」と。

 労働組合がこぞって支持した民主党の喫緊の課題に雇用問題がある。ついに失業率は5.7%を記録した。日本には400万人に近い失業者が生活に喘ぎ、ハローワークに通いつめている。民主党政権による失業率改善に期待を持っている人が多くいるのだ。こうした状況の中で、派遣労働の廃止を唱えているだけで救われる話ではない。政権交代した今こそチャンスなのだ。政・労・使三者によるワークシェアリング、政府は職業訓練や職業開発・職業紹介に全力を挙げ、労働者は労働時間短縮に伴う賃金の削減を認め、経営者は、採用増に伴うコスト増や生産性の変化、労務管理の煩雑さを克服することで、一人でも多くの雇用者を増やすよう努力する。政・労・使の三者がともに痛みを分かち合い、失業に喘ぐ人々にチャンスを作ることができるのだ。

 政権与党となった民主党を支える労働組合だからこそ、自らも血を流すことによって支えあう社会を作る。労働組合が率先して「友愛社会」の構築に一歩を踏み出せば、ここまで破壊され殺伐とした社会になった日本の再生もまた可能になるに違いない。そこにこそ、政権交代を選択した国民の「誤りなき選択」が証明されるのではないだろうか。




ホームページトップへ戻る メルマガ登録