鈴木勝利 コラム「語りつぐもの」

鈴木勝利 コラム「語りつぐもの」

官僚も労働組合もパーキンソンの法則どおり~事業仕分けから見えてくるもの~-vol.26-
鈴木 勝利 顧問
2010/01/15
  戦後初めてといってよいであろう日本の政治において政権交代が行われ、民主党政権の新しい政治体制が幕を開けた2009年が過ぎ、新政権の正念場ともいうべき2010年を迎えた。昨年の暮れには「仕分け作業」がマスメディアをにぎわせ、収入の2倍を超える借金財政の中で今年も始まる。
「仕分け作業」では、ノーベル賞受賞者が一堂に会して苦情を申し立てたり、めったに同席することのない国公立大学と私立大学の学長が声明を読み上げたり、あるいは、オリンピックのメダル受賞者が補助金の減額に抗議したり、と、官僚任せから政治主導のガラス張り予算を目指すゆえに開かれた論議が活発に交わされた。

 イギリスの歴史学者で政治学者でもあるパーキンソンが、イギリスの官僚制を幅広く観察した結果、官僚制がもっているいくつかの特徴について指摘し、その正鵠を射た指摘が事実として支持されたことで広く使われる法則を「パーキンソンの法則」という。それは官僚制だけに限ることではなく、会社組織も労働組合という組織も、およそ組織と名がつく限り部分的にも同じような傾向をもつという警告でもある。
簡単に言うとこういうことである。
「仕事の量は、与えられた時間を全部使うまで膨張する」、「支出の額は、収入の額に達するまで膨張する」ということである。それを官僚組織にあてはめると、「実際にこなさなければならない仕事量に関係なく、官僚の数はどんどん増え続けていく」、あるいは「官僚が増えればその分仕事がなければならないのだが、増えていく仕事は必要でない仕事を創ることでまかなわれる」ことになる。

 日本の現状を見てもうなずける話だ。日本は官僚の数は少ないほうだという官僚弁護も聞こえるが、税金でまかなわれる中央官僚から地方官僚、独立行政法人、公益法人や果ては財団法人まで含めればその数、実に数百万人にまで達するという人さえいる。官僚とはもともとが集められた税金を使うのが仕事だ。そこには「何が無駄か」の意識はない。しかも分かるように、予算で税金が一度でも使われれば、その恩恵を受ける団体や人々が生まれる。自分たちが恩恵を受けている予算が削られれば、反対の大合唱が起きるのは当たり前だ。収入が37兆円しかないのに、90兆円を超える支出を当たり前と思うのも、自分の財布ならいざ知らず、税金という大半が他人のお金なら、あるいは、他に使われてしまうなら、自分たちに出されていた補助金を死守しよう、減らすなどは論外ということになる。「膨大な借金を後世に残さないために」は忘れ去られてしまう。国がどれだけ借金をしようと、オリンピックのメダル獲得のためには補助金が必要だ。自分が貰っている補助金を減らすのは認められない、と。いくら無駄遣いが日常的になっているとはいえ、官僚が全く意味(利益)のない予算を作るわけはない。必ず何らかの意味(利益)があるのである。その意味(利益)を否定するのは許せないということになるのだが、その結果が今日の膨大な借金(国債の発行)の原因であったはずだ。

 無駄の定義も考えようによって違う。八ッ場ダムの必要性をめぐっても、関係都県の知事によれば、近年の予想できないゲリラ豪雨対策のためにもという。ダムが必要なのは、毎年起きる平均的な災害を前提にするのか、10年に一度の大災害対策なのか、あるいは人智では防ぎようのない100年に一度の空前の災害対策なのか、その前提の置き方によって違ってくる。一時、偽装設計で問題になった耐震建築だって、高速道路の耐震補強も一緒だ。関東大震災程度への地震対策なのか、あるいはその何倍の地震でも大丈夫なようにするのかで工事の規模(予算)も変わってくる。「目的」には前提条件があり、その前提条件が正しいのか否かの議論を抜きに、ダムの必要性は論じられないはずだ。

 もらえていたお金が、「そのままか」「減らされるのか」の比較をしてはいけないのである。「お金を貰うことで、さらに国の借金を増やしてもいいのか」、「借金を増やさないために不便や不満があっても我慢すべきなのか」の選択なのである。
民主党政権が今までの政・官・業癒着による密室予算を洗い出し始めたのも、自分たちの利益のためだけに予算を作り、膨大な赤字を作ってしまった一部政治家と官僚の仕組みを見直す目的があるとしたら、予算を削ることで今までの恩恵が失われ、不利益になることにも耐えなければならない。今まで利益を受けてきた人々や団体が、反対の大合唱をするのも当たり前かもしれないが、日本の財政は、そんなのんきな状況にないのだ。

 いずれにしても現状では官僚に無駄の排除を期待できない。ここでチョッと自分の足元を振り返ってみよう。労働組合も組織である。この運動も必要だ、あの運動も必要だというのが常だ。今の仕事には人手不足だ。役員や担当者を一人でも二人でも増やして欲しい、…etc。こうして人が増え、仕事が増え、組織は肥大化していく。まさしくパーキンソンの法則どおりである。会社組織も同様の傾向を持つが、会社には利益を出さなければならない歯止めがある。倒産する前に肥大化にストップがかかるからである。

 流行とばかりに官僚パッシングをするつもりはないが、これもドイツの社会学者・経済学者であるマックス・ヴェーバー(1864年~1920年)によれば、官僚制の特徴として次のようなものをあげている。

◇形式的で恒常的な規則に基づいて運営される。
◇上意下達の指揮命令系統を持つ。
◇一定の資格・資質を持ったものを採用し、組織への貢献度に応じて地位、報償が与えられる。
◇職務が専門的に分化され、各部門が協力して組織を運営していく分業の形態をとる。

さらに、近代官僚制の特質としてあげるのは
◇権限の原則。◇階層の原則。◇専門性の原則。◇文書主義、である。

 マックス・ヴェーバーはどちらかといえば官僚制のマイナス面にはあまりふれていない。このマイナス面についてはアメリカの社会学者マートン(1910年~2003年)が「官僚制の逆機能」で次のように明らかにしている。

◇規則万能(規則にないから出来ないという杓子定規の対応)
◇責任回避・自己保身
◇秘密主義
◇前例主義による保守的傾向
◇画一的傾向
◇権威主義的傾向(役所窓口などでの冷淡で横柄な対応)
◇繁文縟礼(はんぶんしょくれい)(膨大な処理済文書の保管を専門とする部署が存在すること)
◇セクショナリズム(縦割り政治や専門外の業務を避けようとするなどの閉鎖的傾向)

 これらを具体的にいえば、「先例がないからという理由で新しいことを回避しよう」としたり、「規則に示されていないから、上司に聞かなければ分からない」、「書類をつくり、保存すること自体が仕事と化してしまい、その書類が本当に必要であるかどうかは考慮されない」、「自分たちの業務や専門以外のことはやろうとせず、自分たちの領域に別の部署のものが関わってくるとそれを排除しようとする」などである。

 ある友人に薦められ「敗戦真相記」(永野護著)を読んで驚いた。この本は、著者の永野氏(戦中・戦後に二期にわたって衆議院議員、後に参議院議員のときには、第二次岸内閣の運輸大臣をつとめた名高き広島の永野兄弟の長兄)―永野兄弟とは実弟に永野重雄(元・日本商工会議所会頭)、永野俊雄(元・五洋建設会長)、伍堂輝雄(元・日本航空会長)、永野鎮雄(元・参議院議員)、永野治(元・石川島播磨重工業副社長)がいる。いわば名門の一家だが、この著者が、日本の敗戦(昭和20年8月)の翌月9月に、原爆が投下された広島で講演した速記録を本にしたものである。あの敗戦の混乱の最中(さなか)、いまだほとんどの国民が敗戦のショックに打ちひしがれている中で、敗戦を冷静に分析し、戦後の日本の将来に警鐘を鳴らす著者の洞察力に驚愕を禁じえない(政治ジャーナリストの田勢康弘氏はこう評論する「半世紀を経たいま、『勝利の暁鐘』どころか、日本は同じ過ちを繰り返している。敗因として永野が挙げたすべての項目が、いま、日本にそのまま当てはまるのだ。日本が没落の一途をたどった原因として」)。

 著者永野氏は言う。「日本の官吏の優れた才能は、責任回避術である。従来のいかなる悪政に対しても官吏が一人だに責任を取ったためしがなかった。~中略~ だがもともと、素質からいうならば、日本の官吏は、国民の優秀分子に属するものが多いので、それが官僚機構という特権的な城の中に長い間勤めているうちに、いつの間にか勉強家が勉強をしなくなり、責任回避だけが上手くなり、人民の都合ということは第二次的に考えるような人種になってしまったのですから、今後の政府当局は、官吏の特権的機構に大斧鉞(だいふえつ)=〔大鉈(おおなた)〕を加えなければならない」。

 戦前・戦後100年余にわたって培われた官僚機構恐ろしやである。大臣の中にさえ、「仕分け人からとやかく言われることではない」と、官僚が作った積み上げ予算を支持するなど、事の是非が分からない人がいる現実。

 挑戦する民主党の覚悟に淡い期待を持つのみか・・・。


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