鈴木勝利 コラム「語りつぐもの」

鈴木勝利 コラム「語りつぐもの」

たった一組合の間違いが全労働組合の評価に悪影響を与える~組合と政治活動の本質は~-vol.29-
鈴木 勝利 顧問
2010/04/15
  連合傘下の日教組組織、北海道教組の政治資金規正法違反が摘発され、北海道内での有力組織である北教組、自治労北海道の役員4名が逮捕された。この事件の影響は計り知れない。なぜなら、日本のすべての労働組合が北教組と同じように社会から不信感を持って見られる可能性があるからである。労働組合運動に些(いささ)かでも関係している者にとって、残念で仕方のない出来事になってしまったが、連合の逸早い対応が唯一の救いでもある。

 連合の古賀会長は、3月4日の中央執行委員会の席上、「法令順守、公正公明な選挙活動を行ってきた経過から言えば、大変残念であり遺憾である。今後の捜査を見守るとともに、連合北海道、当該組織は、自らもう一度再発防止に向けた対応を図るよう要請する」と同時に、全構成組織、全地方連合会は、「これまで同様法令順守を目的とした研修会や学習会を含めて、職場の隅々まで徹底するように」と、異例の挨拶で連合の態度を明確にした。

 メディア情報によれば、自民党はさっそく労働組合と資金の関係について、全国的な調査をする方針のようであるが、応援する民主党が政権党になった以上、労働組合は社会からより厳しい眼で見られることは当然であり、いささかの過ちも許されないことを肝に銘じておくべきだろう。

 もし労働組合の法律違反が裁判で明らかになれば、真面目に取り組んでいる他の組合にとってはえらい迷惑なことであり、社会の評価とあいまって労働界に及ぼす影響は計り知れない。そうした問題意識を持ちつつ、一方で私たちは労働組合と政治活動について、今一度冷静にかつ客観的に考えてみなければならない。冷静に客観的にというのは、「不当逮捕」などと威丈高に叫ぶのではなく、「事実に反する」のであれば裁判で堂々と主張すればよいと思うからであり、しかし一方で、こうした問題が起きたからといって、労働組合はなぜ政治活動をするのかについて萎縮し、本末転倒の議論になってはいけないと思うからである。

 実は日本の労働組合における政党と労働組合の関係については、歴史的にもさまざまな議論がなされてきた。戦後の労働組合勃興期には、アメリカ占領軍による民主化政策による共産党の合法化から、労働組合の多くはその影響を受けて共産党の影響下に置かれていたが、このときは、[1]政党と労働組合が一体化したパターン(組合活動に政党活動を持ち込む)といえる。その後、組合員による「組合のことは組合自らが自主的に決める」という民主化運動によってその影響下から脱したが、つぎに登場した総評は社会党を支持し、総評を脱退した全労会議(後に同盟に、そして友愛会議)は民社党を支持し、連合が結成するまで続いていくことになる。この間に労働組合と政党の関係が絶えず議論されてきた。

 今更言うまでもないが、政党とは、政治上の主義・理想を実現するため、政治権力を得ることを目的とする政治結社であり、いわば同じ考えを持っている人が自主的に集まっている組織である。だから違った意見があると統制違反にしたり除名することが起こり得る。これに対し労働組合は、さまざまな思想や信条を持っている人が、同じ企業に働いている共通性のみをもって組織されている。この点が政党と労働組合が決定的に違う点なのである。

 その結果、[2]政党が労働組合に干渉するパターン。[3]労働組合が政党に干渉するパターンが生まれると、この[2]と[3]のパターンが双方の組織の相違を無視した誤った活動に直結していかざるを得ない。[2]のパターンは、組合を政党の出先機関と考えるから、[1]のパターンと同類で労働組合の自主性は損なわれてしまう。[3]のパターンは逆に、組合の主張を政党に強要するから、これも社会から指弾されることになる。

 しかし、こうしたケースに関係なく、両者の関係をめぐってはさまざまな意見が出されている。「労働組合は政党と違うのだから政治活動そのものが許されない」、あるいは、「こと政治活動に限っては組合員に強制できない」という意見や、「組合が、決議機関で政治家や政党の支持を決めるのは憲法に違反する」という意見などが繰り返されることになる。

 そこで、まず憲法や労働組合法ではどうなっているのか検証してみたい。
 労働組合法による労働組合の目的は、2条で「労働条件の維持改善その他の経済的地位の向上を図ることを主たる目的とする」と定めている。そしてこの定義の但書きで「共済事業その他福利事業のみを目的とするもの」(3号)や、「主として政治運動または社会運動を目的とするもの」(4号)は、同法上の「労働組合ではない」として、目的上の要件が裏面から敷衍(ふえん)されている。日本の労働法の権威である菅野和夫氏によれば、この労働組合の定義における「経済的地位の向上を図ること」とは、「関連規定(労組法1条1項・2条但し書き4号)を併せ読めば、団体交渉を中心とした労
使自治を通じて経済的地位の向上を図ることであると理解され、但書(3号・4号)は反対解釈として、労組法上の労働組合も付随的にであれば共済事業、政治運動、社会運動を目的としうることを示している」と述べており、主たる活動(経済的地位の向上)と付随的活動(共済事業、政治運動、社会運動)の違いを明確にしている。したがって、共済事業、政治運動、社会運動を「付随的」に目的にするということは、あくまで組合運動の主体は経済的地位の向上であり、あくまで付随的な運動と理解しなければならないのだから、組合が運動の主体を政治運動におくことは違法ということになる。

 これを憲法との関係で見ると、政治運動・社会運動・組合運動においても、憲法による個人の思想・信条の自由が優先するから、取り組みの過程で同調しない組合員がいたとしても強制することは許されないし、ましてや統制の対象にすることはできない。あくまで教え諭す範疇(教育宣伝活動)を超えることはできないということになる。

 この問題を複雑にしている要因の一つに、憲法の個人の思想・信条の自由を意図的に悪用し、政治活動の内容、政党支持、候補者の公認・推薦さえも否定するような論調が散見されるが、機関決定違反の際の統制権を制限しているだけで、運動として取り組むことには何ら問題はないのである。

 労働組合が組合員の生活向上をはかるためには、企業内の労働条件だけではおぼつかない。今問題になっている年金も、医療も、あるいは連合が取り上げている派遣労働者問題や最低賃金も、さらには週休二日制も労働災害の補償もそうだし、およそ労働者(社会人)としての生活の多くが国の政治によって左右される。だとすれば、働く人々の立場に配慮する政党なのか、富める人のみを中心に考える政党なのかによって生活が影響される以上、国民のためになる政治に取り組む政党に政策を任せるのは当たり前であり、その具体的な活動が政党支持であり、政策提言であり、選挙を通じて候補者を当選させることなのである。労働組合が、組合員の生活の向上を目指す以上、政治活動に取り組むのは必然なのだから、もし、取り組まないということになれば、実質的には組合員の生活向上の目的を放棄するに等しいのである。

 ただし、だからといって、主たる活動が政治活動になってはいけないし、組合員に協力を求めることは出来ても強制(従わなかったら統制違反)することは出来ない。組合費の使用についても、思想・信条の違いを理由に、個人がチェック・オフされた組合費の使用に異議を唱えた場合には違法(組合費の返還)との判断もあるので、個人の同意を得た上での納入の手続きが欠かせない。そこで、すべてではないが組合によっては政治団体を設立し、賛同者だけに拠出してもらって活動している例が多くなってきている。

 北教組事件は、具体的な選挙活動における法律違反が問題なのであり、本来、組合が取り組むべき生活向上の一手段(政治活動)とは無関係の問題なのである。リーダーはこの点を明確に理解し、7月の参院選に向けての取り組みを進めなければならない。

 労働組合と政党との関係でいえばもう一つ、時折こういう話を耳にする。組合が力を注いで当選を成し遂げたのだから、当選した議員は、組合の方針に忠実であれという意見だ。この意見によれば、選出された議員は応援する組織の代表ということになってしまい、国民の代表とは違うことになる。ここに大きな間違いが生まれることになる。市町村議員は市町村の代表であり、県会議員は県の代表、国会議員は国全体の代表なのだ。決して一組織(業界団体、労働組合、一地域)の代表ではない。選出された議員は、それぞれが、市町村全体のために、県全体のために、国全体のために励むのが務めだ。組合が応援した議員が当選した場合でも例外ではない。組合は、少なくとも当落の責任は組合にあり、当選したら国のために、というくらいの考えをもたなければならない。加えて、応援した議員や政党が組合の方針に理解があるか否かを問うよりも、組合の方針や行動が、社会の理解を得、賛同を得ていれば、その組合の方針を支持することが社会の評価に直結する理屈になるから、何にも言わなくとも政党が組合の方針に関心を示さざるを得ない。政党が自分たちの意見に耳を傾けてくれるか否かよりも、組合運動そのものが社会的な評価を得ているのか否かが大事なのである。だから時には、せっかく応援しても組合の方針を支持してくれないことも起きる。組合運動が社会の評価を得ていなければ、組合の方針を支持すればかえって社会的に支持を失うから、政党や議員が組合との距離を置くのは当然なのである。

 多様化した時代の政党は、さまざまな人々や団体の総意の上に存在する。ならば、労働組合もまた、そうした人々や団体の一つに過ぎない。いかに多くの活動量を誇り当選に寄与しても、組合は支持母体の大黒柱ではないのだ。NPOやNGOをはじめ、多くの団体と同じ柱の一つに過ぎない。そして柱の一本、一本が対等で縦横に連携して、初めて社会の主要な構成員としての労働組合の存在が価値を持つのである。

 一方、政党の側も、かつてのように「同じ思想で集まっているのだから一枚岩の団結がすべて」というのは幻想で、多様化の時代に多数党になるには幅広い意見を包み込めなければならない。党内においても金太郎飴のように誰もが同じ意見というのはあり得ない。様々な意見が混在して当然だし、それを収斂していくのがリーダーシップであり、民主党が政権交代を成し遂げた魅力でもあったのだが…。

 メディアが繰り返し放映しているように、組合のリーダーが議員にむかって「当選したら返してもらう」と発言するにいたっては、何をかいわんやであり、労働組合の社会的評価はますます地に堕ちる結果になるだけであろう。



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