j.union社の企画行事に「感動塾」がある。以前はj.union clubと称し応募した組合役員の有志が集まり、残業の削減や年休の消化のように日常の組合活動で取り組んでいるテーマを選び、各自が組合へ持ち帰って活動に活かせるよう、テーマごとに講師を招いて助言を聞いたり、あるいは参加者全員が体験を語り合い、課題の克服に話し合いを重ねる集まりであった。
志を同じにする参加者が膝を交えて活発な話し合いをしていく中で、いつ頃からか、話し合いだけでは物足りなくなって、自分たちの体験を通じて新たな組合活動を見出していきたいという願望が強くなっていったようだ。
昨年(2009年)の5月、今ではマスメディアを通じて広く知られるようになったクロネコヤマトの創業者、小倉氏が始めた心身障害者の職場づくりのパン工房「スワン工舎」、それも視察ではなく自らも皆と一緒に体験することからスタートした。次には、電機連合の神奈川地協が運営する障害者の職業訓練施設への参加、また、外国人労働者問題をテーマに選び、関係NPOや当事者との意見交換を行うなど、机だけを相手にしない勉強に取り組んでいる。
次に取り上げたのが本稿のテーマになる「地球環境」問題であった。圧巻?だったのは「富士山の清掃」である。その前に、東京にあるリサイクル施設や清掃工場を視察しながら懇談を重ねた後の富士山のゴミ拾いである。
参加者は異口同音に事業体の不法投棄や個人のゴミ捨ての多さに驚き、慨嘆したものである。ところが話し合いを続けていくうちに、一人ひとりの人間のあり方とゴミ問題がつながり、それと組合運動がどうつながるのかに焦点が移っていく。
会社で働いている労働組合の役員としては、環境問題と経済との関係に無関心ではいられない。環境問題に取り組むことが働く場所の喪失になるのでは二の足を踏むことになるのは当然で、環境と経済の整合性がとれなければ組合員の理解は得られない。戦後驚異的な成長を遂げてきた日本経済を振り返ると、その成長を支えてきた大量生産・大量消費・大量廃棄の仕組みが許されなくなったということなのか。地球温暖化をめぐる国際会議でも、これから経済発展を目指す発展途上国からは、今まで先進国は経済発展のために環境を犠牲にしてきたにもかかわらず、これから途上国が発展を目指そうとするときに、「今まではいいが、これからはだめだ」というのはアンフェアだと非難するのも当然ともいえる。「だから先進国は途上国に資金援助を惜しむな」といいつつ、自らの環境汚染源の削減に口をぬぐう態度に是非はあるが、環境問題と経済が密接不可分な関係にある証左でもある。
今までの成長を支えたシステムの見直しが必要ということになれば、具体的な影響として経済は低成長・安定成長にならざるを得ない。その結果、製造業を中心に雇用吸収力が低下し、それに見合って国の産業構造の転換がうまくいかなければ、失業者の増大を招き、経済の沈滞化により国民生活に犠牲を強いらざるを得なくなるだろう。
経済システム転換のカギはいくつかあるのだろうが、思いつくままにあげてみると、一つには、大量生産の面では資源の有効活用がカギになるであろうし、大量消費についても、昨今の人々の欲求が物質的豊かさから「生き甲斐」や「働き甲斐」へと変わっていっているのをみても、今までと同様に同一製品の大量生産が続くとは考えられない。そうすると経済的にはニュービジネスが必要になるので国も企業もそこに特化しなければならない。
富士山の清掃を通じて参加者が指摘した廃棄物問題は、根本的には個人も企業も「公と私」の意識が混乱、というより、「公」の意識よりも「私」の意識が優っている結果であり、「自分勝手」「わがまま」が横溢している社会の反映といえる。適切な引用とはいえないかもしれないが、おりしも、民主党の鳩山総理が「友愛」を掲げ、自民党の谷垣総裁が「絆」を掲げるのも、なぜこんな社会になってしまったのかという反省と建て直しの意欲が言わしめていると思えてならない。労働組合がこの種の活動に取り組む際には、こうした根源的な哲学ともいうべき意識のあり方についても包含していきたいものである。
いずれにしても不法投棄は、個人のレベルではモラルハザードであり、企業においても利益至上主義とモラルハザードによるものといえる。
労働組合の取り組みについては、産業によっては構造転換を余儀なくされるから、そうした組合では重要な経営対策活動にならざるを得ない。会社のみならず組合員を含めた意識改革は難しいが、意識の変化を待ってから活動に取り組む方式では実現は永遠に難しい。むしろ、組合のリーダーと組合員が「体験する」ことによって意識を変化させていかなければならないのではないか。その意味でも日常的な啓蒙活動と具体的な体験を組み合わせて活動するのがベストといえるだろう。
もう一つ忘れてならないのは、環境問題には企業も個人もコストがかかるということである。自家発電による売電といわれる方式も、買い上げた電力会社は、買い上げることによって生まれたコストを、通常の電力料金に上乗せするから一般の家庭でも負担していることになる。そうした事を良しとする考え方に立たなければ、環境問題の解決には結びつかない。これも環境問題という「公」のために、値上げされた電力料金を「私」を犠牲にして負担することなのである。
目的・目標が正しければ、出来ない障害を探すのではなく、立ちはだかるそれらの障害をいかに克服するかに全力を挙げるべきなのだろう。日本はそうして技術発展を成し遂げてきたのだ。「公」と「私」、環境問題は私たちの心の問題でもあるのだ。
志を同じにする参加者が膝を交えて活発な話し合いをしていく中で、いつ頃からか、話し合いだけでは物足りなくなって、自分たちの体験を通じて新たな組合活動を見出していきたいという願望が強くなっていったようだ。
昨年(2009年)の5月、今ではマスメディアを通じて広く知られるようになったクロネコヤマトの創業者、小倉氏が始めた心身障害者の職場づくりのパン工房「スワン工舎」、それも視察ではなく自らも皆と一緒に体験することからスタートした。次には、電機連合の神奈川地協が運営する障害者の職業訓練施設への参加、また、外国人労働者問題をテーマに選び、関係NPOや当事者との意見交換を行うなど、机だけを相手にしない勉強に取り組んでいる。
次に取り上げたのが本稿のテーマになる「地球環境」問題であった。圧巻?だったのは「富士山の清掃」である。その前に、東京にあるリサイクル施設や清掃工場を視察しながら懇談を重ねた後の富士山のゴミ拾いである。
参加者は異口同音に事業体の不法投棄や個人のゴミ捨ての多さに驚き、慨嘆したものである。ところが話し合いを続けていくうちに、一人ひとりの人間のあり方とゴミ問題がつながり、それと組合運動がどうつながるのかに焦点が移っていく。
会社で働いている労働組合の役員としては、環境問題と経済との関係に無関心ではいられない。環境問題に取り組むことが働く場所の喪失になるのでは二の足を踏むことになるのは当然で、環境と経済の整合性がとれなければ組合員の理解は得られない。戦後驚異的な成長を遂げてきた日本経済を振り返ると、その成長を支えてきた大量生産・大量消費・大量廃棄の仕組みが許されなくなったということなのか。地球温暖化をめぐる国際会議でも、これから経済発展を目指す発展途上国からは、今まで先進国は経済発展のために環境を犠牲にしてきたにもかかわらず、これから途上国が発展を目指そうとするときに、「今まではいいが、これからはだめだ」というのはアンフェアだと非難するのも当然ともいえる。「だから先進国は途上国に資金援助を惜しむな」といいつつ、自らの環境汚染源の削減に口をぬぐう態度に是非はあるが、環境問題と経済が密接不可分な関係にある証左でもある。
今までの成長を支えたシステムの見直しが必要ということになれば、具体的な影響として経済は低成長・安定成長にならざるを得ない。その結果、製造業を中心に雇用吸収力が低下し、それに見合って国の産業構造の転換がうまくいかなければ、失業者の増大を招き、経済の沈滞化により国民生活に犠牲を強いらざるを得なくなるだろう。
経済システム転換のカギはいくつかあるのだろうが、思いつくままにあげてみると、一つには、大量生産の面では資源の有効活用がカギになるであろうし、大量消費についても、昨今の人々の欲求が物質的豊かさから「生き甲斐」や「働き甲斐」へと変わっていっているのをみても、今までと同様に同一製品の大量生産が続くとは考えられない。そうすると経済的にはニュービジネスが必要になるので国も企業もそこに特化しなければならない。
富士山の清掃を通じて参加者が指摘した廃棄物問題は、根本的には個人も企業も「公と私」の意識が混乱、というより、「公」の意識よりも「私」の意識が優っている結果であり、「自分勝手」「わがまま」が横溢している社会の反映といえる。適切な引用とはいえないかもしれないが、おりしも、民主党の鳩山総理が「友愛」を掲げ、自民党の谷垣総裁が「絆」を掲げるのも、なぜこんな社会になってしまったのかという反省と建て直しの意欲が言わしめていると思えてならない。労働組合がこの種の活動に取り組む際には、こうした根源的な哲学ともいうべき意識のあり方についても包含していきたいものである。
いずれにしても不法投棄は、個人のレベルではモラルハザードであり、企業においても利益至上主義とモラルハザードによるものといえる。
労働組合の取り組みについては、産業によっては構造転換を余儀なくされるから、そうした組合では重要な経営対策活動にならざるを得ない。会社のみならず組合員を含めた意識改革は難しいが、意識の変化を待ってから活動に取り組む方式では実現は永遠に難しい。むしろ、組合のリーダーと組合員が「体験する」ことによって意識を変化させていかなければならないのではないか。その意味でも日常的な啓蒙活動と具体的な体験を組み合わせて活動するのがベストといえるだろう。
もう一つ忘れてならないのは、環境問題には企業も個人もコストがかかるということである。自家発電による売電といわれる方式も、買い上げた電力会社は、買い上げることによって生まれたコストを、通常の電力料金に上乗せするから一般の家庭でも負担していることになる。そうした事を良しとする考え方に立たなければ、環境問題の解決には結びつかない。これも環境問題という「公」のために、値上げされた電力料金を「私」を犠牲にして負担することなのである。
目的・目標が正しければ、出来ない障害を探すのではなく、立ちはだかるそれらの障害をいかに克服するかに全力を挙げるべきなのだろう。日本はそうして技術発展を成し遂げてきたのだ。「公」と「私」、環境問題は私たちの心の問題でもあるのだ。



