2010年の春闘も終わった。この結果が雇用や経済、企業運営、消費にどのような影響をもつのかはこれからを見るしかないが、私たちを取り巻いている政治や経済の環境は、多くの課題をかかえたままである。
それらの課題を一つ一つ考えてみると、「こちらを立てればあちらが立たず」というように、ある問題の解決策が、他の問題の障害になってしまうことだらけに見える。お互いに相矛盾する課題を解決しなければならない袋小路に入ってしまったのか。これが国全体を覆っている閉塞感なのだが、だからといって手をこまねいていれば私たちはますます出口のない迷路に迷い込むことになる。
以前本欄で、世の出来事はことごとく複合した原因によって生まれているから、ある一つの原因さえ解決すれば、現象すべてが解決に向かうわけではない。ゆえに、それぞれの立場の人が、それぞれの原因を解決してはじめて問題の解決に結びつく複合汚染社会の難しさにふれた。
それでは今の社会、とくに経済社会が抱えている相反する問題をどのように解決するのか、そのための労働組合運動はどうあるべきなのか、そこにこそ、これからの時代に求められている春闘を始めとする組合運動のあり方が潜んでいるゆえに、長くなるのでシリーズとして共に考えてみたいと思うのである。
日本は内需だけでは経済や国民生活を成り立たせることはできない。日本経済は今や江戸時代と違って日本国内だけでは成り立たないのだ。たとえば資源一つとっても国内で賄える資源は数少ない。石油をはじめとするあらゆるエネルギーを輸入に頼らなければならない。輸入するためには貿易の決済に必要なドルを稼がなければならない。ドルを稼ぐ産業、それが今までは自動車であり、電機であり、モノを売る製造業が中心であった。ここに国際競争力に敏感な製造業のおかれた立場がある。製造業が競争力をなくせば国内経済も成り立たないのだ。
一般的には「国際競争力」という概念はあいまいなものであり、標準的な国際経済学の中には存在しない。しかし、日本の国際競争力の低下についてしばしば引用されるのが、国際経営開発研究所(IMD)「国際競争力年鑑」の指標である。
IMD「国際競争力年鑑」は、企業経営者がグローバルな視点で、どの国や地域に投資すべきかを検討するための資料であり、IMDでは「国際競争力」を、「企業が競争力を持続的に発揮できるような環境を、国がどれだけ提供できるかという能力」と定義している。IMD「国際競争力年鑑」の項目は、[1]「経済パフォーマンス」[2]「政府の効率性」[3]「産業の効率性」[4]「インフラ」で構成されており、49ヵ国・314の個別データ・統計データ198項目・調査データ116項目から成り立っている。少し古い資料で恐縮だが2002年の結果で、49か国中、日本の国際競争力が低いといわれる項目は次のようなものである。日本が最下位に近い項目は[1]GDP比率からみた経済パフォーマンスで、「サービス輸出のGDP比率は48位」である。[2]国民の生活コストが高水準(オフィス賃料を除く)で、「生活コスト指数は48位」。[3]教育の競争経済への貢献はほとんど評価されておらず、「教育システムが競争主導の経済ニーズにマッチしている」は47位である。[4]ベンチャー精神や新事業の立ち上げの気運に乏しいとされ、「企業家精神が自国で普通に見られる」が49位、「新しい企業の立ち上げは珍しいことではない」が48位。[5]コーポレート・ガバナンスの問題点では、「株主の権利と責任は十分に定義されている」が49位、「株主価値は十分に定義されている」が49位、「金融機関の透明性は十分に確保されている」が47位。[6]インフラの問題点としてあげられているのが、「自国の文化は海外のメディアに閉鎖的である」が49位、「産業部門に対する電力コスト(/1kwh)」は48位である。
このように国際競争力はいろいろな要素で比較できる。国内の法律に基づく規制もあれば、途上国との比較で使われるコスト比較もある。数年前、日本を熱病のごとく襲った規制緩和や株主重視、カネ至上主義の流れを思い起こしてほしい。確かに国際競争力の視点のみを考えれば、熱病の原因もそれなりに理由があったのだが、その副作用に対策を立てなかったために、小泉改革や竹中経済による弊害に悩まされているのである(しかし、弊害の原因は規制緩和が中途半端だったからと、いまだに亡霊にすがるような主張が続けられているが)。
一方、春闘で定期昇給をめぐる経営者の発言を振り返ってみると、今年はともかく、近い将来、定期昇給そのものについても手をつけたいという思惑を明らかにしている。もともと定期昇給という制度は、日本の伝統的な産業を中心に打ち立てられた制度で、年功型賃金のもとで比較的高い水準の定年退職者の賃金分を、新規採用者の分に使い、残りを在籍者の一歳・一年の分の昇給に使うという考えのもとにはじめられ、会社は新たな原資を必要としないという前提で成り立っていた。同時に、組合員も加齢によってある年代までは生活費も上がるから、それにも対応できるということで歓迎されてきた制度なのである。
しかし、この制度は、定年退職者が少なかったり(あるいは対象者が居なかったり)、年功型から成果主義の体系に変われば新たな原資を必要とするようになり、会社側からみれば新たな負担増を伴う。そうした関係があるから、今までのように自動的に定期昇給を保障する立場を変えようとしているのである。ベース・アップ(定期昇給を前提にして作られているベース水準そのものを引き上げること)はもとより、定期昇給にまで手をつけるということは、日本の賃金水準自体を引き下げる目的をもっていると見なければならない。つまり、国際競争力で言われる日本の高コストの一つである賃金水準の引き下げを視野に入れた方針と受け止める必要があるということである。
ここまでで二つのことが言える。
一つは、ドルを稼ぐ輸出産業の中心が製造業であったが、中国やインド、ブラジルなどが発展する新しい世界経済の中で、従来と同じ発想では立ち行かなくなってきたことである。韓国、台湾など、かつての発展途上国といわれた国々は、日本より低コストで競争力を高めつつある。さらに技術開発力も、日本の優位を脅かしつつある。そんな中で日本の製造業は、発展する途上国の市場に対し、現地生産・現地販売、あるいは現地生産・国外輸出の道を選択し、挙げた利益も日本の法人税の高さを理由に現地会社の内部留保に充てることで、利益を日本に持ち込まない傾向を強めている。つまり、日本で生産しないから雇用も生まれないし、利益も海外に留まり続ける最悪の事態を迎えつつある。日本経済は必要不可欠な輸出部門の新産業を国内でどのように伸ばすのか正念場を迎えつつあるのだ。国際競争力のある新たな産業の育成が急がれる理由である。
二つには、国際競争力からみた日本の賃金水準の在り方に、新しい理論を必要としていることである。すでに述べたように国際経営開発研究所(IMD)の国際競争力の定義は、国の制度や環境の比較である。国の競争力とは本来的には経済力、規制・保護、税制、教育レベル、インフラ etcなのであり、決して一企業の競争力を定義しているものではない。そして企業の競争力とは、経営戦略、技術力、製造能力、生産性、人材、コスト etcなので、問題になっている「日本の高コスト体質」は、個別企業の競争力にも大きな影響を与えることになる。
もしドルを稼げない日本になったら、日本経済は立ち行かなくなる。六千万人を超える雇用労働者の働く場所がなくなるのである。それは即、失業者の増大を招く。雇用の場を作るために内需中心といっても、すべてを吸収できない。たとえば、国の膨大な借金を少しでも減らそうと公共事業費を削れば、土木建築業に携ってきた人々は失業せざるを得ない。かつて、建築土木業に従事していた雇用労働者は七百万人に達していた。それが現在は三百万人を切るまでに至っている。実に四百万人の雇用が失われたのである。海外で生産し、それを国内に輸入している製造業も然りである。
(「八方ふさがりの出口5-[1]」了。続編は次号5-[2]につづく)
それらの課題を一つ一つ考えてみると、「こちらを立てればあちらが立たず」というように、ある問題の解決策が、他の問題の障害になってしまうことだらけに見える。お互いに相矛盾する課題を解決しなければならない袋小路に入ってしまったのか。これが国全体を覆っている閉塞感なのだが、だからといって手をこまねいていれば私たちはますます出口のない迷路に迷い込むことになる。
以前本欄で、世の出来事はことごとく複合した原因によって生まれているから、ある一つの原因さえ解決すれば、現象すべてが解決に向かうわけではない。ゆえに、それぞれの立場の人が、それぞれの原因を解決してはじめて問題の解決に結びつく複合汚染社会の難しさにふれた。
それでは今の社会、とくに経済社会が抱えている相反する問題をどのように解決するのか、そのための労働組合運動はどうあるべきなのか、そこにこそ、これからの時代に求められている春闘を始めとする組合運動のあり方が潜んでいるゆえに、長くなるのでシリーズとして共に考えてみたいと思うのである。
日本は内需だけでは経済や国民生活を成り立たせることはできない。日本経済は今や江戸時代と違って日本国内だけでは成り立たないのだ。たとえば資源一つとっても国内で賄える資源は数少ない。石油をはじめとするあらゆるエネルギーを輸入に頼らなければならない。輸入するためには貿易の決済に必要なドルを稼がなければならない。ドルを稼ぐ産業、それが今までは自動車であり、電機であり、モノを売る製造業が中心であった。ここに国際競争力に敏感な製造業のおかれた立場がある。製造業が競争力をなくせば国内経済も成り立たないのだ。
一般的には「国際競争力」という概念はあいまいなものであり、標準的な国際経済学の中には存在しない。しかし、日本の国際競争力の低下についてしばしば引用されるのが、国際経営開発研究所(IMD)「国際競争力年鑑」の指標である。
IMD「国際競争力年鑑」は、企業経営者がグローバルな視点で、どの国や地域に投資すべきかを検討するための資料であり、IMDでは「国際競争力」を、「企業が競争力を持続的に発揮できるような環境を、国がどれだけ提供できるかという能力」と定義している。IMD「国際競争力年鑑」の項目は、[1]「経済パフォーマンス」[2]「政府の効率性」[3]「産業の効率性」[4]「インフラ」で構成されており、49ヵ国・314の個別データ・統計データ198項目・調査データ116項目から成り立っている。少し古い資料で恐縮だが2002年の結果で、49か国中、日本の国際競争力が低いといわれる項目は次のようなものである。日本が最下位に近い項目は[1]GDP比率からみた経済パフォーマンスで、「サービス輸出のGDP比率は48位」である。[2]国民の生活コストが高水準(オフィス賃料を除く)で、「生活コスト指数は48位」。[3]教育の競争経済への貢献はほとんど評価されておらず、「教育システムが競争主導の経済ニーズにマッチしている」は47位である。[4]ベンチャー精神や新事業の立ち上げの気運に乏しいとされ、「企業家精神が自国で普通に見られる」が49位、「新しい企業の立ち上げは珍しいことではない」が48位。[5]コーポレート・ガバナンスの問題点では、「株主の権利と責任は十分に定義されている」が49位、「株主価値は十分に定義されている」が49位、「金融機関の透明性は十分に確保されている」が47位。[6]インフラの問題点としてあげられているのが、「自国の文化は海外のメディアに閉鎖的である」が49位、「産業部門に対する電力コスト(/1kwh)」は48位である。
このように国際競争力はいろいろな要素で比較できる。国内の法律に基づく規制もあれば、途上国との比較で使われるコスト比較もある。数年前、日本を熱病のごとく襲った規制緩和や株主重視、カネ至上主義の流れを思い起こしてほしい。確かに国際競争力の視点のみを考えれば、熱病の原因もそれなりに理由があったのだが、その副作用に対策を立てなかったために、小泉改革や竹中経済による弊害に悩まされているのである(しかし、弊害の原因は規制緩和が中途半端だったからと、いまだに亡霊にすがるような主張が続けられているが)。
一方、春闘で定期昇給をめぐる経営者の発言を振り返ってみると、今年はともかく、近い将来、定期昇給そのものについても手をつけたいという思惑を明らかにしている。もともと定期昇給という制度は、日本の伝統的な産業を中心に打ち立てられた制度で、年功型賃金のもとで比較的高い水準の定年退職者の賃金分を、新規採用者の分に使い、残りを在籍者の一歳・一年の分の昇給に使うという考えのもとにはじめられ、会社は新たな原資を必要としないという前提で成り立っていた。同時に、組合員も加齢によってある年代までは生活費も上がるから、それにも対応できるということで歓迎されてきた制度なのである。
しかし、この制度は、定年退職者が少なかったり(あるいは対象者が居なかったり)、年功型から成果主義の体系に変われば新たな原資を必要とするようになり、会社側からみれば新たな負担増を伴う。そうした関係があるから、今までのように自動的に定期昇給を保障する立場を変えようとしているのである。ベース・アップ(定期昇給を前提にして作られているベース水準そのものを引き上げること)はもとより、定期昇給にまで手をつけるということは、日本の賃金水準自体を引き下げる目的をもっていると見なければならない。つまり、国際競争力で言われる日本の高コストの一つである賃金水準の引き下げを視野に入れた方針と受け止める必要があるということである。
ここまでで二つのことが言える。
一つは、ドルを稼ぐ輸出産業の中心が製造業であったが、中国やインド、ブラジルなどが発展する新しい世界経済の中で、従来と同じ発想では立ち行かなくなってきたことである。韓国、台湾など、かつての発展途上国といわれた国々は、日本より低コストで競争力を高めつつある。さらに技術開発力も、日本の優位を脅かしつつある。そんな中で日本の製造業は、発展する途上国の市場に対し、現地生産・現地販売、あるいは現地生産・国外輸出の道を選択し、挙げた利益も日本の法人税の高さを理由に現地会社の内部留保に充てることで、利益を日本に持ち込まない傾向を強めている。つまり、日本で生産しないから雇用も生まれないし、利益も海外に留まり続ける最悪の事態を迎えつつある。日本経済は必要不可欠な輸出部門の新産業を国内でどのように伸ばすのか正念場を迎えつつあるのだ。国際競争力のある新たな産業の育成が急がれる理由である。
二つには、国際競争力からみた日本の賃金水準の在り方に、新しい理論を必要としていることである。すでに述べたように国際経営開発研究所(IMD)の国際競争力の定義は、国の制度や環境の比較である。国の競争力とは本来的には経済力、規制・保護、税制、教育レベル、インフラ etcなのであり、決して一企業の競争力を定義しているものではない。そして企業の競争力とは、経営戦略、技術力、製造能力、生産性、人材、コスト etcなので、問題になっている「日本の高コスト体質」は、個別企業の競争力にも大きな影響を与えることになる。
もしドルを稼げない日本になったら、日本経済は立ち行かなくなる。六千万人を超える雇用労働者の働く場所がなくなるのである。それは即、失業者の増大を招く。雇用の場を作るために内需中心といっても、すべてを吸収できない。たとえば、国の膨大な借金を少しでも減らそうと公共事業費を削れば、土木建築業に携ってきた人々は失業せざるを得ない。かつて、建築土木業に従事していた雇用労働者は七百万人に達していた。それが現在は三百万人を切るまでに至っている。実に四百万人の雇用が失われたのである。海外で生産し、それを国内に輸入している製造業も然りである。
(「八方ふさがりの出口5-[1]」了。続編は次号5-[2]につづく)



