鈴木勝利 コラム「語りつぐもの」

鈴木勝利 コラム「語りつぐもの」

組織の常識は社会の非常識?~危機に瀕する労働組合の常識~-vol.36-
鈴木 勝利 顧問
2010/11/15
  2010年も半ばを過ぎたが、今までも大相撲の暴力団問題、海上保安庁のヘリコプター墜落事故と、社会を騒がす事件や事故が相次いだが、それらの事件や事故を通じて組織や団体の常識が如何に社会一般の常識とかけ離れているかが浮きぼりにされた。

 前者は反社会的勢力との癒着が当たり前の相撲界という集団で起こった事件であり、後者は、起きてしまった事故の発表に際して隠蔽があったというものであるが、両者に共通しているのは、当該の組織が当たり前に思っていたことが、実は社会の常識と大きく違っていたことである。その違いが、表面に出たことによって、事件や事故の原因や本質に加えて新たな問題を露呈したことにある。

 相撲界と暴力団との癒着は過去にも再三にわたって問題になってきた。とくに国技として位置づけられ、さらに公益法人として税金の優遇措置を受けている一種の業界団体であるがゆえに、その言動が注目されるのは当たり前であるにも拘らず、一向に改善されない現実に世論が非難するのも当然なのである。

 乗員5人もの命を犠牲にしたヘリコプター事故に際して、海上保安庁が行った発表にしても、ヘリコプターが「何の目的」で「誰が操縦」して、どうして「事故を起こしたか」について、訂正や撤回を繰り返す記者会見が22回にも及んだ。当事者の「発表すべき情報」と「発表しないほうが良い情報」の判断の違いによるものだ。

 象徴的なのは、第6管区海上保安本部の林本部長が22回目の記者会見で行った謝罪発言である。
 「デモ飛行は一般業務であり、公表しないことに疑問は感じなかった」の言。事故当日の18日の夜に本部長を含めた関係者が相談し、あえて「デモ飛行の合間に起きたことについて公表しないこと」を確認した事実こそが、「公表しないことに疑問を感じなかった」からではなく、「公表すべきか、否か」を検討したという当時の問題意識を明らかにしている。

 本稿は両事件の原因究明や対策について私見を述べる目的ではなく、労働組合を含めて、組織といわれるものが等しく抱える共通の問題点について考えることにある。

 近年、頓(とみ)に言われるようになった企業のCSRでも同じように、問題を起こした当該企業の内部では、それまでは当たり前に行っていたことが、ある日、白日の下に晒されたことによって、社会から指弾されるケースが多いのである。
 古く遡れば、「患者よりも自己利益を優先させる」として非難された医師会も、「消費者に高い米を買わせて農家の利益を優先させる」と非難された農協も同じ範疇の問題ともいえる。
 医師会が、構成員である医師の収入増を目指すのは当たり前なのである。農協が消費者よりも組合員である農家の収入増を図ろうとするのも当たり前である。企業が利益を目指すように、組織は構成するメンバーのために行動する。にも拘わらず 、それがある一線を超えると社会の指弾を受けるのである。

 その「ある一線」とは何なのか明確になっているわけではない。企業が莫大な利益を上げても非難されるいわれは無いのだが、利益を上げる過程で、社会常識から見て企業活動に不正義や欺瞞があれば「一線を超えた」ことになる。あるいは、製品・商品によって、消費者に被害を与えればやはり一線を超えたのである。組織内では常識と思っていた「一線」が、社会常識による「一線」を超えていれば指弾の対象になるのである。

 組織の宿命というべきか、組織は「一線」を超えた瞬間から、対象となった一つの現象に止まらず、組織そのものの存在に対しても疑問を突きつけられることになる。

 「このくらいなら」「従来どおり」という内部の常識は、刻々と変化する社会の常識と齟齬をきたす例は多い。
 「医者の生活向上を目指す医師会」も、高額医療費や医師の高額収入との比較で判断されるし、「農民の生活向上」を目指す農協も、消費者の犠牲や無定見の農業政策に埋没したことによって社会の信頼を失ってしまった。いまや農民でさえ、農協に反旗を翻す時代になった。

 政党も同じだ。場合によっては刑事被告人になるかもしれない議員を総理に推薦するなど、およそ社会の常識とはかけ離れた考え方の人々もいる。それらの人々はそれが政党内では常識と思っているに違いない。それでも今回の代表選で民主党が辛うじて良心的・良識的決定を下したことが唯一の救いなのかもしれない。

 翻って労働組合はどうだろうか。メンバーである組合員の生活向上を図ることだけに埋没してきたために、同じように働いている非正規社員の処遇には目を向けないできた。経済や企業発展が右肩上がりの時代であれば、雇用を打ち切られた非正規社員が新しい仕事につくことも可能だった。正規社員の雇用調整弁になっても社会的問題にはならなかったのである。

 しかし、失業率が高止まりしている状況下では、雇用止めが即長期の失業につながってしまう。そうした環境変化の中で、従来もやってきたからという理由で非正規社員問題に眼を配らないでいる組合に対して、社会は許そうとはしない。「労働組合の存在意義」に疑問を突きつけ始めているのだ。

 メンバーである組合員の処遇を犠牲にして非正規社員の問題に取り組むことに、構成員である組合員は賛成しないかもしれない。組合員の反発を想定するがゆえに、リーダーはあいも変わらずにメンバーのみの処遇にこだわっていく。「組合費を払っている正規社員だけのために活動する」のは当たり前だという理屈だ。突き詰めていけば簡単な理屈だ。

 「自分たちだけよければいい」のだ。「自分たちだけよければいい」運動の行き先は、個々の組合員にとっても「自分だけよければいい」という意識に行き着く。組合員が他の同僚=労働者のことを考えなくなれば、「相互に支え合う」を旨とする労働組合そのものの否定へとつながってしまうのだ。

 その危機感に気がついて欲しい。危機に瀕している組合運動の建て直しは可能なのである。
 可能な方法とは。
 「組合の組織内で当たり前と思っているその常識」を、「組合から離れたもう一人の社会人としての自分」が検証する。組合運動には無関係な立場から自分自身が考えていること、行動しようとしていることを検証できれば、労働組合は何をなすべきかが見えてくるはずである。社会の評価を失った労働組合が衰退していくのは歴史が証明している。

 役員だけが集まって、「そうだ、そうだ」と意見が一致すれば正しい組合運動といえる時代は過ぎ去ったのである。



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