2010年7月、菅内閣は経済の新成長戦略を閣議決定した。それによると、労働人口の減少に伴う経済規模の縮小を食い止め、かつ、内需主導型経済の基盤を確立するため、雇用の「量と質」の向上を欠かせないものとして位置づけた。
それ自体は連合の方針とも軌を一にしており、安心して働ける社会の構築のために歓迎すべきことであり、後は具体的な政策の実行が期待される。
と、評論家ならこうとでも言えば許されるのだが、実は閣議決定の内容は、既存の労働組合にとっては本質的な弱点を突かれていることに気がつかなければならない。
具体的な計画の中身を検証する前に、その前提となる労働力人口の見込みをみてみると、日本の労働力人口は、2009年の6,617万人から2030年には5,584万人になり、この間、1,000万人以上も減少する見通しになっている。
労働人口が減少すれば失業率には好ましい結果をもたらしそうだが、経済は難しいもので、労働力人口の減少は即経済成長率にマイナスの影響をもたらす。ある程度の成長率を維持するためには、労働力人口の減少を補える一人当たりのGDPの増加が不可欠になる。
しかし、一人当たりのGDPが増えれば、企業が必要とする従業員は減少していかざるを得ない。成長率が伸びなければ失業者は減らないし、一人当たりのGDPが伸びれば、労働力をそれほど必要としない理屈になる。労働力人口の減少が失業率の減少に結びつかない矛盾、ここにも「八方ふさがり」の現実が待っている。
それはさておき、政府の成長戦略に話を戻してみよう。
成長戦略によれば雇用についてはその量と質の両面からアプローチをすることになっている。量について言えば、2020年までに20歳~34歳の就業率を77%(現在73.6%)に、25歳~44歳までの女性の就業率を73%(現在66%)に、障害者の実雇用率を1.8%(現在1.63%)に、それぞれ引き上げることにしている。
この数字自体も再三ふれてきたように、従来どおりの成長が期待できない中ではかなり難しいといわれている。就業率の引上げのために、労働組合が従来と同じ考え方の運動をつづけていても可能といえるほど単純な環境にはない。
つぎに本稿の目的である「雇用の質」にふれたい。
「雇用の質」の向上を図るために、[1]職業能力を客観的に評価するための「キャリア段位性」の導入、[2]ワーク・ライフ・バランスの実現、[3]同一「価値」労働・同一賃金に向けた均衡待遇の推進、[4]最低賃金の引上げ、[5]安全衛生対策の充実など、いずれも労働組合運動で取り組むべき課題が挙げられている。しかも、2020年までの数値目標が示されており、政・労・使が一体となって全国の最低賃金を下限で800円、全国平均で1,000円、年次有給休暇の取得率70%、週労働時間60時間以上の雇用労働者割合を現状の5割削減、労働災害の発生件数を現状からの30%削減などを掲げている。
早速一部から、「懲りもせずに10年後の数値目標」「実現不可能」との批判が噴出している。こうした批判を眼にするたびに二重の憤りを覚えてしまう。
一つは「懲りもせず」や「実現不可能」の批判は、実現に取り組む労働組合運動への嘲りと同義だからであり、もう一つは、「当たらずとも遠からず」ともいえる「組合運動とは?」に対する根源的な問いだからである。
すでにふれたように、雇用や労働時間、年休の取得率の向上、安全衛生、ワーク・ライフ・バランスなど、成長戦略で掲げているすべての項目は、実は労働組合が本来取り組んでいなければならない問題なのである。
労働組合は、失業者を一人でも少なくするために何をすべきなのか、労働組合は時間外労働を如何に削減し仕事と家庭の両立を図るのか、労働組合は切捨てが当たり前の年次有給休暇の所得率を如何に向上させるのか、すべてが労働組合運動そのものだ。
組合の非力ゆえに実現しない課題を、政治の力を借りなければならない現実、そこに忸怩(じくじ)たる思いを抱かないとしたら、労働組合の明日はないとも言える。おそらく、リーダーの皆さんそれぞれが感慨を持ってこのニュースを眼にしたと思いたい。
労働法に代表されるように、労働に関する諸問題を政治の場で解決しなければならない課題が多いのも事実だが、政治の場、すなわち法律で規制するには、現実との整合性が求められる。
労働者にとって条件が良くなるからといって、現実離れした突拍子もない条件は、企業の存続や社会そのものの否定にもつながってしまう。
「現実の社会とのつながり」はどのようにして証明するのか。実はそこに労働組合の存在価値がある。
労働組合が組織されている企業労使が、汗水流して丁々発止の労使交渉を通じて実現することによって、労働組合が無い、俗にいう未組織企業に働く労働者にも同じ保護を与えるのが法律なのである。労働組合が難しい労使交渉を経て獲得した条件を、今度は法律によって組合の無い企業に働く労働者にも適用させるのが本来なのだ。その努力もせずに、連合の政策・制度要求にすべてを委ねて高みの見物を決め込むのは、労働組合の本分を忘れているといわざるを得ない。
さらに悪いことには、今度のように政治が先行してしまうと、労使関係の大前提であり、民主主義の象徴でもある「労使自治の原則」が形骸化してしまうことである。
ある問題が労使の力関係によって難航していたとしても、労使関係に政治を介入させてしまうと、労使自治とは無縁に、政治によって労働組合活動が制約されたり、挙句は戦前を見るまでもなく労働組合そのものも否定されてしまうのである。
数年前に、時の政権政党(自民党)が、反対党(民主党)を支援する労働組合への批判を強め、組合活動の弱体化を狙って組合費のチェック・オフを禁止すべきとの動きを強めた。組合が抗議したのは当たり前としても、当時の日経連も「労使自治」に反するとして反対の意思表示したのは記憶に新しい。経営者も労使自治に危機感を抱いたゆえであろう。労使の力関係によっては、労使自治も絵空事になりやすいのも事実だが、しかし、だからといって組合が「楽さ」を求めて政治の介入を許してしまえば、組合そのものの否定へとつながる道を歩むことになる。
政治に年休の消化や最低賃金の引上げの先鞭をつけさせては、組合の存在意義が否定されたことになるのだ。
こうしたことに組合のリーダーが怒らない方はないが、組合員というメンバーだけの利害にこだわってきた組合ゆえに、最低賃金も疎かにしてきたし、非正規社員の処遇にも役割を果たしてこなかった。それゆえに、その付けが回ってきているともいえる。
連合がそこに力を注ぎ出したのがせめてもの救いなのだが、その連合の方針が生かされるも死ぬも、加盟しているすべての産業別・企業別の労働組合のリーダー次第なのである。
それ自体は連合の方針とも軌を一にしており、安心して働ける社会の構築のために歓迎すべきことであり、後は具体的な政策の実行が期待される。
と、評論家ならこうとでも言えば許されるのだが、実は閣議決定の内容は、既存の労働組合にとっては本質的な弱点を突かれていることに気がつかなければならない。
具体的な計画の中身を検証する前に、その前提となる労働力人口の見込みをみてみると、日本の労働力人口は、2009年の6,617万人から2030年には5,584万人になり、この間、1,000万人以上も減少する見通しになっている。
労働人口が減少すれば失業率には好ましい結果をもたらしそうだが、経済は難しいもので、労働力人口の減少は即経済成長率にマイナスの影響をもたらす。ある程度の成長率を維持するためには、労働力人口の減少を補える一人当たりのGDPの増加が不可欠になる。
しかし、一人当たりのGDPが増えれば、企業が必要とする従業員は減少していかざるを得ない。成長率が伸びなければ失業者は減らないし、一人当たりのGDPが伸びれば、労働力をそれほど必要としない理屈になる。労働力人口の減少が失業率の減少に結びつかない矛盾、ここにも「八方ふさがり」の現実が待っている。
それはさておき、政府の成長戦略に話を戻してみよう。
成長戦略によれば雇用についてはその量と質の両面からアプローチをすることになっている。量について言えば、2020年までに20歳~34歳の就業率を77%(現在73.6%)に、25歳~44歳までの女性の就業率を73%(現在66%)に、障害者の実雇用率を1.8%(現在1.63%)に、それぞれ引き上げることにしている。
この数字自体も再三ふれてきたように、従来どおりの成長が期待できない中ではかなり難しいといわれている。就業率の引上げのために、労働組合が従来と同じ考え方の運動をつづけていても可能といえるほど単純な環境にはない。
つぎに本稿の目的である「雇用の質」にふれたい。
「雇用の質」の向上を図るために、[1]職業能力を客観的に評価するための「キャリア段位性」の導入、[2]ワーク・ライフ・バランスの実現、[3]同一「価値」労働・同一賃金に向けた均衡待遇の推進、[4]最低賃金の引上げ、[5]安全衛生対策の充実など、いずれも労働組合運動で取り組むべき課題が挙げられている。しかも、2020年までの数値目標が示されており、政・労・使が一体となって全国の最低賃金を下限で800円、全国平均で1,000円、年次有給休暇の取得率70%、週労働時間60時間以上の雇用労働者割合を現状の5割削減、労働災害の発生件数を現状からの30%削減などを掲げている。
早速一部から、「懲りもせずに10年後の数値目標」「実現不可能」との批判が噴出している。こうした批判を眼にするたびに二重の憤りを覚えてしまう。
一つは「懲りもせず」や「実現不可能」の批判は、実現に取り組む労働組合運動への嘲りと同義だからであり、もう一つは、「当たらずとも遠からず」ともいえる「組合運動とは?」に対する根源的な問いだからである。
すでにふれたように、雇用や労働時間、年休の取得率の向上、安全衛生、ワーク・ライフ・バランスなど、成長戦略で掲げているすべての項目は、実は労働組合が本来取り組んでいなければならない問題なのである。
労働組合は、失業者を一人でも少なくするために何をすべきなのか、労働組合は時間外労働を如何に削減し仕事と家庭の両立を図るのか、労働組合は切捨てが当たり前の年次有給休暇の所得率を如何に向上させるのか、すべてが労働組合運動そのものだ。
組合の非力ゆえに実現しない課題を、政治の力を借りなければならない現実、そこに忸怩(じくじ)たる思いを抱かないとしたら、労働組合の明日はないとも言える。おそらく、リーダーの皆さんそれぞれが感慨を持ってこのニュースを眼にしたと思いたい。
労働法に代表されるように、労働に関する諸問題を政治の場で解決しなければならない課題が多いのも事実だが、政治の場、すなわち法律で規制するには、現実との整合性が求められる。
労働者にとって条件が良くなるからといって、現実離れした突拍子もない条件は、企業の存続や社会そのものの否定にもつながってしまう。
「現実の社会とのつながり」はどのようにして証明するのか。実はそこに労働組合の存在価値がある。
労働組合が組織されている企業労使が、汗水流して丁々発止の労使交渉を通じて実現することによって、労働組合が無い、俗にいう未組織企業に働く労働者にも同じ保護を与えるのが法律なのである。労働組合が難しい労使交渉を経て獲得した条件を、今度は法律によって組合の無い企業に働く労働者にも適用させるのが本来なのだ。その努力もせずに、連合の政策・制度要求にすべてを委ねて高みの見物を決め込むのは、労働組合の本分を忘れているといわざるを得ない。
さらに悪いことには、今度のように政治が先行してしまうと、労使関係の大前提であり、民主主義の象徴でもある「労使自治の原則」が形骸化してしまうことである。
ある問題が労使の力関係によって難航していたとしても、労使関係に政治を介入させてしまうと、労使自治とは無縁に、政治によって労働組合活動が制約されたり、挙句は戦前を見るまでもなく労働組合そのものも否定されてしまうのである。
数年前に、時の政権政党(自民党)が、反対党(民主党)を支援する労働組合への批判を強め、組合活動の弱体化を狙って組合費のチェック・オフを禁止すべきとの動きを強めた。組合が抗議したのは当たり前としても、当時の日経連も「労使自治」に反するとして反対の意思表示したのは記憶に新しい。経営者も労使自治に危機感を抱いたゆえであろう。労使の力関係によっては、労使自治も絵空事になりやすいのも事実だが、しかし、だからといって組合が「楽さ」を求めて政治の介入を許してしまえば、組合そのものの否定へとつながる道を歩むことになる。
政治に年休の消化や最低賃金の引上げの先鞭をつけさせては、組合の存在意義が否定されたことになるのだ。
こうしたことに組合のリーダーが怒らない方はないが、組合員というメンバーだけの利害にこだわってきた組合ゆえに、最低賃金も疎かにしてきたし、非正規社員の処遇にも役割を果たしてこなかった。それゆえに、その付けが回ってきているともいえる。
連合がそこに力を注ぎ出したのがせめてもの救いなのだが、その連合の方針が生かされるも死ぬも、加盟しているすべての産業別・企業別の労働組合のリーダー次第なのである。



