第二次世界大戦からベルリンの壁崩壊まで続いた東西冷戦は、日本の労働運動にも大きな影響を与えた。アメリカ対ソ連という当時の冷戦は、資本主義対共産主義、民主主義対全体主義の対決というイデオロギー対立であった。
イデオロギーはさまざまな出来事に対立を呼び起こす。日本の国連復帰をめぐっても民主主義国家を中心にした復帰促進(単独講和派)のグループと、復帰に難色を示す全体主義国家の反発(全面講和派)が、国内の保守と革新の政党間対立になり、労働運動にも同じ対立を呼び起こし、労働界の分裂を促進する。
労働組合が政治的イデオロギーに塗れてしまえば、先に「つれづれ日記」(j.union社「j.unionジャーナル」連載)の原稿(三井三池争議)でふれた一会社の存在そのものが資本主義の象徴であり否定の対象となってしまう。
労働組合は「社会主義革命の学校」というわけである。そうなると労使関係などはあってなきに等しい。何しろ企業そのものが否定すべき資本主義の象徴なのだから、その企業との共存を旨とする労使関係などは無意味になってしまうのだ。
このような歴史的な経験が今も影響力を持っているから、労使関係についてもこれから述べる主張に反対する意見が出てきてしまう。
そもそも労使関係とはいかなるものなのかだが、誤解を招かないためにも冷静に事実を積み重ねて述べてみよう。
労使関係の「労」とは、労働組合のことを指すが、労働組合を構成するのは労働者=従業員である。
「使」とは、使用者個人の意味ではなく「会社という法人」をいい、「会社という法人」の意思を代弁するのが労働(労務)担当者という整理が一般的であろう。
まず従業員の存在である。事業を行うために会社は存在するのだが、事業を行わなければ会社は存在しないし、従業員を雇う必要もない。
事業を行うために生産要素を整備する。生産要素とは、工場であったり、設備であったり、材料であったりするが、これらはいずれも事業を行うために必要不可欠なものである。従業員も事業を行うための重要な生産要素の一つである。
生産要素とは、会社が事業を行うために必要な要素を言い、事業を行わなければ必要とはしない。ここで「会社あっての従業員」という側面を持つことが分かる。
ところが「会社あっての従業員」といっても、他の生産要素とは明らかに違う性質・性格を持っていることがわかる。同じ生産要素といっても、設備や材料と違って従業員が人間である点である。
人間である以上、生きることが必要であり、人間が存在するには「人間の尊厳」が保たれなければならない。在庫が利くような無機質なものではないことである。
そこで生きるために必要な条件として最低限の賃金を保障する考えが生まれる。それが「最低賃金」なのである。そして人間の尊厳を維持するためにさまざまな制約を設ける。安全衛生もその一つだし、人材教育もその一環に入る。
こうして使用者は従業員を雇用するために多くの義務を負う。義務が果たせなければ会社自体の存在を否定される。
たとえば、最低賃金を払えない会社は事業を行うことを認められない。倒産しても止むを得ないのである。そして従業員が働くことによって会社は事業を行うことができる。
ここに、「従業員あっての会社」という側面が生まれる。
前者の「会社あっての従業員」という側面と、後者の「従業員あっての会社」という二つの側面が、労使という関係の原理になる。後者が労働組合の立場であり、前者が労働担当の立場になる。両者は拠って立つ基盤に基づいた主張を行う。
立場が違う以上、両者の主張は平行線をたどることになるが、日々刻々と進む現実に対応しなければ、会社は事業が進まないし、従業員は働くことができない。どこかで合意が必要になる。その話し合い、あるいは関係を労使関係というのである。
合意を図るには、自らの立場に依拠してばかりにはいかないから、そこではじめて相手側の立場に配慮する必要に迫られる。賃上げ交渉で言えば、妥結点を模索するのである。 「狭い隘路の中で合意点を見出す」のが労使関係(清家 篤氏・慶應義塾長)といわれる所以である。
狭い隘路の中で合意点を見出そうとする労使当事者の交渉は、交渉を離れた場所で見ている組合員との意識の乖離を生みやすい。
組合幹部と組合員の意識の齟齬である。
それが、時には「会社側」とか、「馴れ合い」とか、「組合員の声を無視している」などの悪評になりやすい。ビラや新聞、集会で役員が躍起になって説明するのも、避けがたいこの意思の乖離を埋めるために行うのである。
この労使関係の大原則に無知であったり無視したりすると不幸な労使関係となり、企業活動も停滞し、従業員の生活も保障されなくなる。冒頭で述べた「会社は敵」という考えで企業活動ができるわけがないし、従業員も必要とはしなくなる。
日本の労使関係を見ると、概してこの点が見落とされている。会社が提案し、組合が抵抗する。あるいは組合が要求し、会社が抵抗して回答する。その図式が労使関係と誤解しているのである。メディアにもその誤解が多いように見受けられる。その結果は「会社に押し切られる」とか「組合はだらしない」、あるいは「闘う労働組合」という評価につながっていく。
労使関係の前提を間違えているから当然起こる誤解なのだが、今もってその誤解が大勢を占めているのが情けないと思うのだが。
労使の紛争はこの両者の関係を考えずに、都合の良い側面に拘ることで起こる。ある出来事を都合の良いように利用するのである。
典型的な例をあげれば、一方に都合の悪い事象が起こったとしよう。それがたまたまの出来事であったとしても、全体の問題に置き換えてしまうのである。
労使という法人は双方とも構成員がいる。片や組合員であり、片や非組合員である。構成員全員がいつも良識的な言動をする訳ではない。不良者もいればミスを起こすものもいる。
ここで経験談を例に挙げよう。
現在の時代には似つかない話だが、女性の生理休暇の取得問題が労使の懸案であった時代の話だ。ある女性組合員が生理休暇を取得して海水浴に行って遊んでいた。他人が目撃して上長の知るところとなった。会社はここぞとばかり「生理休暇の濫用」として手当の無給化を提案してくる。たった一人のレアケースを女性全体の生理休暇手当の無給化の理由にするのである。今思えばからかわれたという思いがないことはないが、真剣に考えていたとすれば具体的で分かりやすい出来事であった。
反対に、職場の管理職が、不用意な時間管理をして労使間のルールに違反するケースが起きた場合には、今度は組合が会社全体で行っていたはずだと主張して問題を大きくしてしまう。
もちろん法人と法人間の約束事であり話し合いであるから、それぞれが構成員全体を掌握し絶えず注意をするのは当然であるが、時にはケアレスミスも起きてしまう。
労使関係では得てして事が大きくなり、当初のケアレスミスが労使関係全体に波及することもある。
労使紛争すべてがそうであると言うつもりはないが、労使関係そのものの原理原則の理解があれば、日本の労使関係はさらに健全化の道を進むことは間違いない。
イデオロギーはさまざまな出来事に対立を呼び起こす。日本の国連復帰をめぐっても民主主義国家を中心にした復帰促進(単独講和派)のグループと、復帰に難色を示す全体主義国家の反発(全面講和派)が、国内の保守と革新の政党間対立になり、労働運動にも同じ対立を呼び起こし、労働界の分裂を促進する。
労働組合が政治的イデオロギーに塗れてしまえば、先に「つれづれ日記」(j.union社「j.unionジャーナル」連載)の原稿(三井三池争議)でふれた一会社の存在そのものが資本主義の象徴であり否定の対象となってしまう。
労働組合は「社会主義革命の学校」というわけである。そうなると労使関係などはあってなきに等しい。何しろ企業そのものが否定すべき資本主義の象徴なのだから、その企業との共存を旨とする労使関係などは無意味になってしまうのだ。
このような歴史的な経験が今も影響力を持っているから、労使関係についてもこれから述べる主張に反対する意見が出てきてしまう。
そもそも労使関係とはいかなるものなのかだが、誤解を招かないためにも冷静に事実を積み重ねて述べてみよう。
労使関係の「労」とは、労働組合のことを指すが、労働組合を構成するのは労働者=従業員である。
「使」とは、使用者個人の意味ではなく「会社という法人」をいい、「会社という法人」の意思を代弁するのが労働(労務)担当者という整理が一般的であろう。
まず従業員の存在である。事業を行うために会社は存在するのだが、事業を行わなければ会社は存在しないし、従業員を雇う必要もない。
事業を行うために生産要素を整備する。生産要素とは、工場であったり、設備であったり、材料であったりするが、これらはいずれも事業を行うために必要不可欠なものである。従業員も事業を行うための重要な生産要素の一つである。
生産要素とは、会社が事業を行うために必要な要素を言い、事業を行わなければ必要とはしない。ここで「会社あっての従業員」という側面を持つことが分かる。
ところが「会社あっての従業員」といっても、他の生産要素とは明らかに違う性質・性格を持っていることがわかる。同じ生産要素といっても、設備や材料と違って従業員が人間である点である。
人間である以上、生きることが必要であり、人間が存在するには「人間の尊厳」が保たれなければならない。在庫が利くような無機質なものではないことである。
そこで生きるために必要な条件として最低限の賃金を保障する考えが生まれる。それが「最低賃金」なのである。そして人間の尊厳を維持するためにさまざまな制約を設ける。安全衛生もその一つだし、人材教育もその一環に入る。
こうして使用者は従業員を雇用するために多くの義務を負う。義務が果たせなければ会社自体の存在を否定される。
たとえば、最低賃金を払えない会社は事業を行うことを認められない。倒産しても止むを得ないのである。そして従業員が働くことによって会社は事業を行うことができる。
ここに、「従業員あっての会社」という側面が生まれる。
前者の「会社あっての従業員」という側面と、後者の「従業員あっての会社」という二つの側面が、労使という関係の原理になる。後者が労働組合の立場であり、前者が労働担当の立場になる。両者は拠って立つ基盤に基づいた主張を行う。
立場が違う以上、両者の主張は平行線をたどることになるが、日々刻々と進む現実に対応しなければ、会社は事業が進まないし、従業員は働くことができない。どこかで合意が必要になる。その話し合い、あるいは関係を労使関係というのである。
合意を図るには、自らの立場に依拠してばかりにはいかないから、そこではじめて相手側の立場に配慮する必要に迫られる。賃上げ交渉で言えば、妥結点を模索するのである。 「狭い隘路の中で合意点を見出す」のが労使関係(清家 篤氏・慶應義塾長)といわれる所以である。
狭い隘路の中で合意点を見出そうとする労使当事者の交渉は、交渉を離れた場所で見ている組合員との意識の乖離を生みやすい。
組合幹部と組合員の意識の齟齬である。
それが、時には「会社側」とか、「馴れ合い」とか、「組合員の声を無視している」などの悪評になりやすい。ビラや新聞、集会で役員が躍起になって説明するのも、避けがたいこの意思の乖離を埋めるために行うのである。
この労使関係の大原則に無知であったり無視したりすると不幸な労使関係となり、企業活動も停滞し、従業員の生活も保障されなくなる。冒頭で述べた「会社は敵」という考えで企業活動ができるわけがないし、従業員も必要とはしなくなる。
日本の労使関係を見ると、概してこの点が見落とされている。会社が提案し、組合が抵抗する。あるいは組合が要求し、会社が抵抗して回答する。その図式が労使関係と誤解しているのである。メディアにもその誤解が多いように見受けられる。その結果は「会社に押し切られる」とか「組合はだらしない」、あるいは「闘う労働組合」という評価につながっていく。
労使関係の前提を間違えているから当然起こる誤解なのだが、今もってその誤解が大勢を占めているのが情けないと思うのだが。
労使の紛争はこの両者の関係を考えずに、都合の良い側面に拘ることで起こる。ある出来事を都合の良いように利用するのである。
典型的な例をあげれば、一方に都合の悪い事象が起こったとしよう。それがたまたまの出来事であったとしても、全体の問題に置き換えてしまうのである。
労使という法人は双方とも構成員がいる。片や組合員であり、片や非組合員である。構成員全員がいつも良識的な言動をする訳ではない。不良者もいればミスを起こすものもいる。
ここで経験談を例に挙げよう。
現在の時代には似つかない話だが、女性の生理休暇の取得問題が労使の懸案であった時代の話だ。ある女性組合員が生理休暇を取得して海水浴に行って遊んでいた。他人が目撃して上長の知るところとなった。会社はここぞとばかり「生理休暇の濫用」として手当の無給化を提案してくる。たった一人のレアケースを女性全体の生理休暇手当の無給化の理由にするのである。今思えばからかわれたという思いがないことはないが、真剣に考えていたとすれば具体的で分かりやすい出来事であった。
反対に、職場の管理職が、不用意な時間管理をして労使間のルールに違反するケースが起きた場合には、今度は組合が会社全体で行っていたはずだと主張して問題を大きくしてしまう。
もちろん法人と法人間の約束事であり話し合いであるから、それぞれが構成員全体を掌握し絶えず注意をするのは当然であるが、時にはケアレスミスも起きてしまう。
労使関係では得てして事が大きくなり、当初のケアレスミスが労使関係全体に波及することもある。
労使紛争すべてがそうであると言うつもりはないが、労使関係そのものの原理原則の理解があれば、日本の労使関係はさらに健全化の道を進むことは間違いない。



