本欄では極力政治問題はふれないように心がけてきたが、最近、どうしても気になる出来事が連続して起きているので、本号では久しぶりに政治の分野に係わるテーマを取り上げることにした。
尖閣諸島での中国漁船捕縛騒動は、漁船船長の釈放をめぐって大論争を繰り返した(2010年10月)。中国に対して「もっと強硬姿勢を」というのが大方の意見のようであるが、こと外交については国家間の利害は戦争と紙一重のところで行われる。日本国民として尖閣諸島は日本領土であるから中国を非難する気持ちは当然である。しかし外交の難しさ、とくに領土問題は根が深い。その主張が理不尽であっても中国も同様に自国民に自国領土と主張し、中国国民はそれを信じている。その中で外交として如何にまとめていくのかが問われるのであり、自国の説だけを繰り返していればいいというのではない。チョッとしたすれ違いが重大な戦争への引き金になる場合が多いからである。地球上で自国が悪いと認めた上で戦争をした国は皆無だ。あの悪名高いアウシュビッツでユダヤ人を大量虐殺したナチス・ドイツでさえ自国に正義があると唱えている。戦争が始まる危機は正義や公正とは無縁のことで起きる。政府の政策を腰抜けと非難している人々が、それでは強硬な姿勢に出たときに起こりうる不慮の出来事に責任が取れるのかを問えば、すべてノーである。それだけいい加減、、というよりも外交はさほどに難しいということなのである。国民の知る権利などと称してありとあらゆる情報を公開するのは、こと外交については好ましいことではない。感情に押し流される国民世論は、政策を決定する者から冷静な判断力を奪ってしまうからである。
かつて私たちは、第二次世界大戦の引き金になった国際連盟の脱退と五・一五事件、そして二・二六事件、もっと遡ってのポーツマス講和条約焼き打ち事件、すべてメディアに扇動され、盲目となった国民の手によって悲劇の結末を迎えたのである。
司馬遼太郎氏の「坂の上の雲」でお馴染みの日露戦争では、戦争後のポーツマス講和会議による講和条件にメディアは反対、不満と怒りを表す紙面を編集、新聞に煽られた国民は各地で反政府活動を起こし、日比谷公会堂は焼き討ちされてしまう。講和条約を結んだ小村寿太郎は国民的非難を浴び、それ以降の日本は、メディアによって作られた国民と軍部の慢心によって世界大戦への道を歩んで行くことになる。
日本の満州建国は国際的に非難され、国際連盟総会から退場した松岡洋右が帰国した際、日本国民は万歳と提灯行列をもって迎えた。そして国際的に孤立した日本は、第二次世界大戦へとまっしぐらに進んでいくのである。この時の万歳と提灯行列も国民がメディアの扇動に和した結果だ。
五・一五事件は侵略戦争の戦線を縮小して軍縮を図ろうとした時の政府首脳を、軍部の青年将校たちが殺害しようと立ち上がったもので、メディアはその行為を英雄と讃え、減刑嘆願運動は国民運動へと広がっていく。その結果、犯人は「憂国の士」と讃えられ、裁判でも軽い刑で終わり、勇を得た軍部は二・二六事件をも起こしてしまうのである。
こうしてみると「歴史は繰り返す」の言葉どおり、いずれの国も外交ではメディアと国民の強硬意見が目立ち政府はそれに引きずられ勝ちである(自民党政権時代に、読者や視聴者に対して自民党の体たらくを煽って民主党政権を誕生させたのもメディアであり、同じように現在の民主党政権を滅多切りにして支持率の下落を煽っているのもメディアである。国民にはそのメディアを批判する道はないに等しいのである)。戦争になるかならないか、メディアの責任は限りなく重いのである。
それでは日本だけが冷静に誠実に対応すれば万事上手くいくのかといえば、国と国との争いはそう単純ではないのだ。相手が日本と同じように冷静で誠実であればよいが、そうでないと力が弱く正直者の方が犠牲を受けることも起こりうる。しかも戦争による犠牲になれば国民と国土は計り知れない損害を受けるのがわかっているから、「犠牲を受けることも起こりうる」などと軽くいえることでもない。
政治家の判断の重要性を指摘する際に、一番例に持ち出されるのがイギリス保守党の首相チェンバレンである。1937年保守党の党首で首相になったチェンバレンは、ヨーロッパ大陸でヒトラー率いるナチス・ドイツが露骨な領土拡張政策を推し進めていた時、これに対して、ヒトラーに譲歩して平和を勝ち取ろうという宥和政策を行った。しかし、ドイツがイギリスとの約束を反故にしてチェコスロヴァキアを併呑してしまうと、さすがのチェンバレンも宥和政策を捨ててドイツとの対決姿勢を明確にするのだが、1939年のドイツのポーランド侵攻では有効な手を打つことができず、また1940年のノルウェー支援も失敗に終わってしまう。チェンバレンはこれらの失敗の責任をとって首相を辞任し、失意のまま死去した。死を迎えて何を考えていたのだろうか。
後に、宥和政策と言えば弱腰外交と同じ意味の軽蔑語になってしまったが、ドイツに対抗できる軍事力を持って断固とした外交政策を遂行していれば違った結果になったのに、と、結果としてこれがチェンバレンの悲劇になったとの評価が一般的だが、この出来事は国際間紛争に正義・公正・誠意がいかに脆いのかを表すと同時に、「だから軍事力が必要」という主張に根拠を与えることになった。現に日本でも最近はそうした論調で「再軍備」を説く意見が強まってきている。
間違いなく言えることは、外交問題ではいずれの国も感情におぼれる国民の心情に振り回されやすい。国民感情ほど外交には不向きなものはないのだ。だからといってすべて外交は専門家が秘密の中でやればいいということでもない。確かに「国民の知る権利」も尊重されなければならないが、冷厳な国際情勢は、一方で、民主主義国以外の情報は漏れることがない事実を考慮しなければならない。拉致国家ともいわれる北朝鮮や、尖閣諸島の領有権を振りかざす中国では、言論の自由も「国民の知る権利」も保障されていない。権力者がすべてを闇のなかで決定できる国と、あらゆることを国民にオープンしなければ非難される国とでは、外交では圧倒的に力の差ができてしまう。こうした制度が違う国家間の問題について、自国を非難できる民主主義国のメディアの主張は、果たして結果について責任をとる報道をしているのか、甚だ疑問を抱かざるを得ない(アメリカ政府の公電を暴露しているウィキリークスは、真意はどこにあるにしろ、結果として民主主義国と敵対する一部の全体主義国やテロ組織に情報を提供していることになり、それらの国やテロ組織を有利にしていることは否めない)。
かつての日本が、メディアの扇動に踊らされて取り返しのつかない道に踏み出したのもつい最近のことである。国民がメディアに煽られることなく冷静に判断できるのか、それが問われているのだ。北朝鮮の韓国への爆撃でも、韓国民の強硬意見は当然でもあると思う。しかし強硬姿勢をとりさえすれば万事上手くゆく保障などない。同じ意味で、北朝鮮による拉致問題で私たちも同様の立場にあるのだ。私たちだけの正義、公正さの価値観だけでは解決できないのが外交なのである。
最近の一連の国際紛争から得た教訓は、いたずらに感情に流されることなく、軍備を持たなくても自国の主張を認めさせる方法はあるのか、国民一人ひとりが冷静に考えることなのではないだろうか。その冷静な国民のもとに政治が適切な判断を下すことができなければ日本の平和は保たれることは無い。(2010年12月1日)
参考資料
ポーツマス条約は、日露戦争の講和条約をいう。1905年 (明治38年)9月5日に、アメリカ合衆国ルーズベルトの斡旋によって、アメリカのメイン州にあるポーツマス海軍造船所において、日本全権小村寿太郎とロシア全権セルゲイ・ウィッテの間で調印されたので、場所名をとって「ポーツマス条約」と呼ぶ。日露戦争において終始優勢を保っていた日本は、国力の面から、これ以上の戦争継続が限界であったことから、当時英仏に肩を並べるまでに成長していた米国に仲介を依頼し交渉を行った。当初ロシアは強硬姿勢を貫き「たかだか小さな戦闘において敗れただけであり、ロシアは負けてはいない。まだまだ戦争継続も辞さない。」という主張を行っていたため、交渉は暗礁に乗り上げていたが、これ以上の戦争の継続は不可能である日本が譲歩し、この調停を成功させたい米国がロシアを説得するという形で事態を収拾し、戦争賠償金には一切応じないという最低条件で交渉は締結した。日本が困難な外交的取引を通じて辛うじて勝利を勝ち取った。この条約において、日本は、満州南部の鉄道及び領地の租借権、大韓帝国に対する排他的指導権などを獲得したものの、戦争中に軍事費として投じてきた国家予算の約4倍にあたる20億円を埋め合わせるはずの戦争賠償金を取ることができなかったため、戦時中に増税による耐乏生活を強いられてきた日本国民は納得せず、メディアに煽られ日比谷焼打ち事件などの暴動を起こした。なおルーズベルトはこの条約仲介の功が評価されて、1906年(明治39年)にノーベル平和賞を受賞している。
五・一五事件は、1932年(昭和7年)5月15日に起きた大日本帝国海軍の青年将校を中心とする反乱事件。武装した海軍の青年将校たちが首相官邸に乱入し、当時の護憲運動の旗頭ともいえる犬養毅首相を暗殺した。当時は1929年(昭和4年)の世界恐慌に端を発した大不況、企業倒産が相次ぎ、社会不安が増していた。1931年(昭和6年)には関東軍の一部が満州事変を引き起こしたが、政府はこれを収拾できず、かえって引きずられる形だった。犬養政権は金輸出再禁止などの不況対策を行うことを公約に1932年(昭和7年)2月の総選挙で大勝をおさめたが、一方で満州事変を黙認し、陸軍との関係も悪くなかった。しかし、1930年(昭和5年)ロンドン海軍軍縮条約を締結した前総理若槻禮次郎に対し不満を持っていた海軍将校は、若槻襲撃の機会を狙っていた。ところが、立憲民政党(民政党)は大敗、若槻内閣は退陣を余儀なくされた。これで事なきを得たかに思われたが、計画の中心人物だった藤井斉が「後を頼む」と遺言を残して中国で戦死し、この遺言を知った仲間が事件を起こすことになる。本来ならば標的でなかった犬養が殺されることになったといえる。
二・二六事件(ににろくじけん)は、1936年(昭和11年)2月26日から2月29日にかけて、日本の陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが1,483名の兵を率い、「昭和維新断行・尊皇討奸」を掲げて起こしたクーデター未遂事件である。事件後しばらくは「不祥事件」「帝都不祥事件」とも呼ばれていた。大日本帝国陸軍内の派閥の一つである皇道派の影響を受けた一部青年将校ら(20歳代の隊付の大尉から少尉が中心)は、かねてから「昭和維新・尊皇討奸」をスローガンに、武力を以て元老重臣を殺害すれば、天皇親政が実現し、彼らが政治腐敗と考える政財界の様々な現象や、農村の困窮が収束すると考えていた。彼らは、この考えの下1936年(昭和11年)2月26日未明に決起し、近衛歩兵第3連隊、歩兵第1連隊、歩兵第3連隊、野戦重砲兵第7連隊らの部隊を指揮して岡田啓介(内閣総理大臣)鈴木貫太郎(侍従長)斎藤實(内大臣)高橋是清(大蔵大臣)渡辺錠太郎(陸軍教育総監)牧野伸顕(前内大臣)の殺害を図り、斎藤内大臣、高橋蔵相、及び渡辺教育総監を殺害。その上で、彼らは軍首脳を経由して昭和天皇に昭和維新を訴えた。しかし軍と政府は、彼らを「叛乱軍」として武力鎮圧を決意し、包囲して投降を呼びかけた。反乱将校たちは下士官・兵を原隊に復帰させ、一部は自決したが、大半の将校は投降して法廷闘争を図った。
国際連盟脱退
1933年、関東軍が熱河作戦に踏み切り、イギリスなどが態度を硬化、その中で国際連盟総会でリットン報告に準拠した解決案が採決された。満州国の存在を危うくするような解決案に対し日本の首席全権だった松岡洋右は抵抗、退席。斎藤首相をはじめ閣僚の大半(山本達雄、高橋是清、鳩山一郎、後藤文夫、永井柳太郎ら)、海軍、松岡自身も脱退には反対だったが、陸軍の青年将校に煽られた新聞各社は、圧倒的に脱退論を展開、世論の流れを作り、結果、斎藤内閣は御前会議で国際連盟からの脱退を決定した。 (上記参考
資料は、いずれも「 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」による)
尖閣諸島での中国漁船捕縛騒動は、漁船船長の釈放をめぐって大論争を繰り返した(2010年10月)。中国に対して「もっと強硬姿勢を」というのが大方の意見のようであるが、こと外交については国家間の利害は戦争と紙一重のところで行われる。日本国民として尖閣諸島は日本領土であるから中国を非難する気持ちは当然である。しかし外交の難しさ、とくに領土問題は根が深い。その主張が理不尽であっても中国も同様に自国民に自国領土と主張し、中国国民はそれを信じている。その中で外交として如何にまとめていくのかが問われるのであり、自国の説だけを繰り返していればいいというのではない。チョッとしたすれ違いが重大な戦争への引き金になる場合が多いからである。地球上で自国が悪いと認めた上で戦争をした国は皆無だ。あの悪名高いアウシュビッツでユダヤ人を大量虐殺したナチス・ドイツでさえ自国に正義があると唱えている。戦争が始まる危機は正義や公正とは無縁のことで起きる。政府の政策を腰抜けと非難している人々が、それでは強硬な姿勢に出たときに起こりうる不慮の出来事に責任が取れるのかを問えば、すべてノーである。それだけいい加減、、というよりも外交はさほどに難しいということなのである。国民の知る権利などと称してありとあらゆる情報を公開するのは、こと外交については好ましいことではない。感情に押し流される国民世論は、政策を決定する者から冷静な判断力を奪ってしまうからである。
かつて私たちは、第二次世界大戦の引き金になった国際連盟の脱退と五・一五事件、そして二・二六事件、もっと遡ってのポーツマス講和条約焼き打ち事件、すべてメディアに扇動され、盲目となった国民の手によって悲劇の結末を迎えたのである。
司馬遼太郎氏の「坂の上の雲」でお馴染みの日露戦争では、戦争後のポーツマス講和会議による講和条件にメディアは反対、不満と怒りを表す紙面を編集、新聞に煽られた国民は各地で反政府活動を起こし、日比谷公会堂は焼き討ちされてしまう。講和条約を結んだ小村寿太郎は国民的非難を浴び、それ以降の日本は、メディアによって作られた国民と軍部の慢心によって世界大戦への道を歩んで行くことになる。
日本の満州建国は国際的に非難され、国際連盟総会から退場した松岡洋右が帰国した際、日本国民は万歳と提灯行列をもって迎えた。そして国際的に孤立した日本は、第二次世界大戦へとまっしぐらに進んでいくのである。この時の万歳と提灯行列も国民がメディアの扇動に和した結果だ。
五・一五事件は侵略戦争の戦線を縮小して軍縮を図ろうとした時の政府首脳を、軍部の青年将校たちが殺害しようと立ち上がったもので、メディアはその行為を英雄と讃え、減刑嘆願運動は国民運動へと広がっていく。その結果、犯人は「憂国の士」と讃えられ、裁判でも軽い刑で終わり、勇を得た軍部は二・二六事件をも起こしてしまうのである。
こうしてみると「歴史は繰り返す」の言葉どおり、いずれの国も外交ではメディアと国民の強硬意見が目立ち政府はそれに引きずられ勝ちである(自民党政権時代に、読者や視聴者に対して自民党の体たらくを煽って民主党政権を誕生させたのもメディアであり、同じように現在の民主党政権を滅多切りにして支持率の下落を煽っているのもメディアである。国民にはそのメディアを批判する道はないに等しいのである)。戦争になるかならないか、メディアの責任は限りなく重いのである。
それでは日本だけが冷静に誠実に対応すれば万事上手くいくのかといえば、国と国との争いはそう単純ではないのだ。相手が日本と同じように冷静で誠実であればよいが、そうでないと力が弱く正直者の方が犠牲を受けることも起こりうる。しかも戦争による犠牲になれば国民と国土は計り知れない損害を受けるのがわかっているから、「犠牲を受けることも起こりうる」などと軽くいえることでもない。
政治家の判断の重要性を指摘する際に、一番例に持ち出されるのがイギリス保守党の首相チェンバレンである。1937年保守党の党首で首相になったチェンバレンは、ヨーロッパ大陸でヒトラー率いるナチス・ドイツが露骨な領土拡張政策を推し進めていた時、これに対して、ヒトラーに譲歩して平和を勝ち取ろうという宥和政策を行った。しかし、ドイツがイギリスとの約束を反故にしてチェコスロヴァキアを併呑してしまうと、さすがのチェンバレンも宥和政策を捨ててドイツとの対決姿勢を明確にするのだが、1939年のドイツのポーランド侵攻では有効な手を打つことができず、また1940年のノルウェー支援も失敗に終わってしまう。チェンバレンはこれらの失敗の責任をとって首相を辞任し、失意のまま死去した。死を迎えて何を考えていたのだろうか。
後に、宥和政策と言えば弱腰外交と同じ意味の軽蔑語になってしまったが、ドイツに対抗できる軍事力を持って断固とした外交政策を遂行していれば違った結果になったのに、と、結果としてこれがチェンバレンの悲劇になったとの評価が一般的だが、この出来事は国際間紛争に正義・公正・誠意がいかに脆いのかを表すと同時に、「だから軍事力が必要」という主張に根拠を与えることになった。現に日本でも最近はそうした論調で「再軍備」を説く意見が強まってきている。
間違いなく言えることは、外交問題ではいずれの国も感情におぼれる国民の心情に振り回されやすい。国民感情ほど外交には不向きなものはないのだ。だからといってすべて外交は専門家が秘密の中でやればいいということでもない。確かに「国民の知る権利」も尊重されなければならないが、冷厳な国際情勢は、一方で、民主主義国以外の情報は漏れることがない事実を考慮しなければならない。拉致国家ともいわれる北朝鮮や、尖閣諸島の領有権を振りかざす中国では、言論の自由も「国民の知る権利」も保障されていない。権力者がすべてを闇のなかで決定できる国と、あらゆることを国民にオープンしなければ非難される国とでは、外交では圧倒的に力の差ができてしまう。こうした制度が違う国家間の問題について、自国を非難できる民主主義国のメディアの主張は、果たして結果について責任をとる報道をしているのか、甚だ疑問を抱かざるを得ない(アメリカ政府の公電を暴露しているウィキリークスは、真意はどこにあるにしろ、結果として民主主義国と敵対する一部の全体主義国やテロ組織に情報を提供していることになり、それらの国やテロ組織を有利にしていることは否めない)。
かつての日本が、メディアの扇動に踊らされて取り返しのつかない道に踏み出したのもつい最近のことである。国民がメディアに煽られることなく冷静に判断できるのか、それが問われているのだ。北朝鮮の韓国への爆撃でも、韓国民の強硬意見は当然でもあると思う。しかし強硬姿勢をとりさえすれば万事上手くゆく保障などない。同じ意味で、北朝鮮による拉致問題で私たちも同様の立場にあるのだ。私たちだけの正義、公正さの価値観だけでは解決できないのが外交なのである。
最近の一連の国際紛争から得た教訓は、いたずらに感情に流されることなく、軍備を持たなくても自国の主張を認めさせる方法はあるのか、国民一人ひとりが冷静に考えることなのではないだろうか。その冷静な国民のもとに政治が適切な判断を下すことができなければ日本の平和は保たれることは無い。(2010年12月1日)
参考資料
ポーツマス条約は、日露戦争の講和条約をいう。1905年 (明治38年)9月5日に、アメリカ合衆国ルーズベルトの斡旋によって、アメリカのメイン州にあるポーツマス海軍造船所において、日本全権小村寿太郎とロシア全権セルゲイ・ウィッテの間で調印されたので、場所名をとって「ポーツマス条約」と呼ぶ。日露戦争において終始優勢を保っていた日本は、国力の面から、これ以上の戦争継続が限界であったことから、当時英仏に肩を並べるまでに成長していた米国に仲介を依頼し交渉を行った。当初ロシアは強硬姿勢を貫き「たかだか小さな戦闘において敗れただけであり、ロシアは負けてはいない。まだまだ戦争継続も辞さない。」という主張を行っていたため、交渉は暗礁に乗り上げていたが、これ以上の戦争の継続は不可能である日本が譲歩し、この調停を成功させたい米国がロシアを説得するという形で事態を収拾し、戦争賠償金には一切応じないという最低条件で交渉は締結した。日本が困難な外交的取引を通じて辛うじて勝利を勝ち取った。この条約において、日本は、満州南部の鉄道及び領地の租借権、大韓帝国に対する排他的指導権などを獲得したものの、戦争中に軍事費として投じてきた国家予算の約4倍にあたる20億円を埋め合わせるはずの戦争賠償金を取ることができなかったため、戦時中に増税による耐乏生活を強いられてきた日本国民は納得せず、メディアに煽られ日比谷焼打ち事件などの暴動を起こした。なおルーズベルトはこの条約仲介の功が評価されて、1906年(明治39年)にノーベル平和賞を受賞している。
五・一五事件は、1932年(昭和7年)5月15日に起きた大日本帝国海軍の青年将校を中心とする反乱事件。武装した海軍の青年将校たちが首相官邸に乱入し、当時の護憲運動の旗頭ともいえる犬養毅首相を暗殺した。当時は1929年(昭和4年)の世界恐慌に端を発した大不況、企業倒産が相次ぎ、社会不安が増していた。1931年(昭和6年)には関東軍の一部が満州事変を引き起こしたが、政府はこれを収拾できず、かえって引きずられる形だった。犬養政権は金輸出再禁止などの不況対策を行うことを公約に1932年(昭和7年)2月の総選挙で大勝をおさめたが、一方で満州事変を黙認し、陸軍との関係も悪くなかった。しかし、1930年(昭和5年)ロンドン海軍軍縮条約を締結した前総理若槻禮次郎に対し不満を持っていた海軍将校は、若槻襲撃の機会を狙っていた。ところが、立憲民政党(民政党)は大敗、若槻内閣は退陣を余儀なくされた。これで事なきを得たかに思われたが、計画の中心人物だった藤井斉が「後を頼む」と遺言を残して中国で戦死し、この遺言を知った仲間が事件を起こすことになる。本来ならば標的でなかった犬養が殺されることになったといえる。
二・二六事件(ににろくじけん)は、1936年(昭和11年)2月26日から2月29日にかけて、日本の陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが1,483名の兵を率い、「昭和維新断行・尊皇討奸」を掲げて起こしたクーデター未遂事件である。事件後しばらくは「不祥事件」「帝都不祥事件」とも呼ばれていた。大日本帝国陸軍内の派閥の一つである皇道派の影響を受けた一部青年将校ら(20歳代の隊付の大尉から少尉が中心)は、かねてから「昭和維新・尊皇討奸」をスローガンに、武力を以て元老重臣を殺害すれば、天皇親政が実現し、彼らが政治腐敗と考える政財界の様々な現象や、農村の困窮が収束すると考えていた。彼らは、この考えの下1936年(昭和11年)2月26日未明に決起し、近衛歩兵第3連隊、歩兵第1連隊、歩兵第3連隊、野戦重砲兵第7連隊らの部隊を指揮して岡田啓介(内閣総理大臣)鈴木貫太郎(侍従長)斎藤實(内大臣)高橋是清(大蔵大臣)渡辺錠太郎(陸軍教育総監)牧野伸顕(前内大臣)の殺害を図り、斎藤内大臣、高橋蔵相、及び渡辺教育総監を殺害。その上で、彼らは軍首脳を経由して昭和天皇に昭和維新を訴えた。しかし軍と政府は、彼らを「叛乱軍」として武力鎮圧を決意し、包囲して投降を呼びかけた。反乱将校たちは下士官・兵を原隊に復帰させ、一部は自決したが、大半の将校は投降して法廷闘争を図った。
国際連盟脱退
1933年、関東軍が熱河作戦に踏み切り、イギリスなどが態度を硬化、その中で国際連盟総会でリットン報告に準拠した解決案が採決された。満州国の存在を危うくするような解決案に対し日本の首席全権だった松岡洋右は抵抗、退席。斎藤首相をはじめ閣僚の大半(山本達雄、高橋是清、鳩山一郎、後藤文夫、永井柳太郎ら)、海軍、松岡自身も脱退には反対だったが、陸軍の青年将校に煽られた新聞各社は、圧倒的に脱退論を展開、世論の流れを作り、結果、斎藤内閣は御前会議で国際連盟からの脱退を決定した。 (上記参考
資料は、いずれも「 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」による)



