鈴木勝利 コラム「語りつぐもの」

鈴木勝利 コラム「語りつぐもの」

快適・便利さの代償~失ってはじめてわかる価値~-vol.43-
鈴木 勝利 顧問
2011/06/15
 震災と福島原発の事故による電力不足は予想外に大きいようだ。この電力不足を補うために、震災直後から計画停電が実施され、気温の上昇のお陰で停電が中止されることが多かったが、しかし、夏場になるとクーラーの使用による電力消費はうなぎのぼりに上がるので、政府も本格的な節電政策の実施を決めた。

 私たちは、この計画停電の実施を通じてさまざまな不便さを知らされた。家庭の中の多くの備品は電気によって動いている。電話(固定)さえも停電になると通じない。なんとも不便だ。不便というよりも、こうも電気の恩恵のもとに生活していたのか痛感させられる。家の中はもとより、街中に出ても街灯のみならず信号機さえ暗闇に没している。商店もコンビニも自動販売機も明かりを消しいつもの街並みとは違った雰囲気さえ感じる。国内にある自動販売機をすべて撤去したらどのくらいの電力が節約できるのだろうか。昔のようにコンビニの深夜営業を止めたら効果のほどは?

 いつも温かいお茶や冷たいジュースを手にできる自動販売機はなんて便利なんだ。そういえばかなり前になるが、スーパーの正月三が日の営業をめぐって当該の労働組合が、従業員の労働のあり方として問題視していたことを思い出した。連合でも大いなる議論が交わされていた。深夜まで明るく煌々としている街、正月三が日はおろか毎日24時間営業してくれるコンビニ。この便利さは膨大な電力と従業員の深夜勤務によって成り立っていたのだ。便利な生活に一度でも慣れてしまえばもう昔には戻れない。それが当たり前のこととして過ごしてしまうのが人間のようだ。便利な生活のために膨大な電力使用という代償を払っているのだ。だから停電になると途轍もなく不便に感じてしまう。昔はそれが当たり前であったのに、である。

 そうだ。私たちは科学や文明の恩恵といって快適な生活、便利な生活を享受している。その快適さや便利さには相応の代償を払っているのだ。場所の移動には便利で楽な自動車を利用する。歩かなくて済むから実に快適だ。そして膨大な石油の消費と公害という代償を払っている。夏はクーラーで涼しく過ごし、冬は暖房器で暖かく暮らしている。その代償は「冷え性」などの健康を犠牲にしている。自動車も同様に、利用者の足腰の衰えという代償を払っている。禅宗の開祖である達磨(ダルマ)さんも九年の長きにわたって歩きもせず座したままでいたゆえに足が衰え、あのような姿形になったのだ。そう思えば自動車利用による足腰の衰えなどは当たり前かもしれない。しかし、今さら移動はすべて徒歩で、というわけにはいかない。経済に与える影響は計り知れないからだ。どうも払っている代償には三つの種類があるようだ。前述したようにエネルギーや経済活動に関係する経済的な代償、足腰の衰えや寒さや暑さに耐えられなくなる肉体的な代償と合わせて、「寒さや暑さを我慢」する精神も萎縮してしまうという精神的代償である。

 冷静に考えてみれば、代償の中身はありとあらゆるものに見られる。子どもたちはとみれば、学校の医務室に駆け込む生徒たちの症状には昔と違う特徴があるという。校庭で遊んでいて転倒したとき、反射的に受身をする手が出ない子が多いという。手が出なければ頭を打つか骨折しかない。昔と違うこの反射神経の鈍さは、食事はもとより快適さや便利さによる日常生活の訓練がなされないからという。直ちに信じ難いがこんな例もある。目にごみが入る症状も多くなったようだ。異物の混入を防ぐ瞬きの回数が減少しているからという。顎の筋肉も弱くなったのも「噛む」食べ物を嫌がるからという。そういえば子どもたちの好む食べものは、「飲む、舐める、すゝる」が多いように思える。貧しい時代の食生活と変わったことによる肉体的な代償といえるようだ。貧しい時代は好むと好まざるとに係わらず出汁(ダシ)は煮干であったし、親からは味噌汁を飲んだ後には煮干も食べるよう注意されてきた。小魚の干物は骨ごと食べさせられた。そのお陰でカルシュウムを補給してきたし、骨も丈夫でいられた。カルシュウムの補給を栄養剤で補うなどは皆無であったし、子どもなのに骨粗しょう症になるなど信じられない。

 社会のありとあらゆる現象は必ず代償を払うことによって成り立っている。「あれも作れ」「これが欲しい」と政府に要求すれば税金を高く払わなければならない。今私たちが払っている代償のうち、肉体的なものは日常の努力である程度は補える。自動車の利用が多い人は、ふだんから歩く機会を多くするなり、階段はエレベーター・エスカレーターを使わない努力をすればいいが、精神的な退廃は回復が難しい。私たちは経験的にぬるま湯の生活姿勢が精神の堕落を招くことを知っている。「豊か」になったことによって「我慢」や「思いやり」の精神も鈍くなった。それではすべて昔の貧しい時代の生活様式に戻せばいいかといえばそうというわけにいかない。すべて「今さら」なのであるが、停電を通じて突きつけられた問題は、生活様式を根本的に見直す時期に来ている天の警鐘のような気もする。アメリカのある州で、天井知らずに増加する医療費を抑えるために、児童の肥満の一因になっている給食のハンバーガーを止めようとしたら、給食の対象者である貧困層の子どもの親から、「安くて満腹感を味わえるハンバーガーの禁止」に異論が続出、中止の憂き目にあったように、どんなに健康上の理由があったにしても、現実の生活上の要求には引き下がらずを得ない。アメリカの貧困層の親は、こうして子どもたちに「安くて満腹感が味わえるハンバーガー」を食べさせることによって、「少年時代からの肥満」という肉体的代償を払わせる道を選択したのである。

 現代は、いかなる代償も払わずして快適さも便利さも得ることはできない。そして払った代償に気づきもせず、その代償によってのみ保障されている便利さや快適さを失うことによって、はじめて、その大きさ、影響力に戸惑うのである。自分の周りを「モノ」で囲み、「モノ」によって便利さと快適さを成し遂げ、それを「豊かさ」の証明と考えてきた価値観自体を見直す時期にきているのかもしれない。しかし、その価値観の転換には経済のあり方を根本的に見直さなければならない代償がついて回る。然も、その代償にはさらに「働く場所」が失われ失業の増大という高い代償も払わされる。とはいえ、都知事のように自動販売機やパチンコを禁止すれば済む話でもないし、そもそも個人の嗜好や趣味に類するものを条例など権力の力で取り締まる弊害は計り知れない。権力者による個人生活への侵害は社会の根本を揺るがすからだ。農家の収入確保のために、米が余っているからといって法律でパン食を禁止したらどうなってしまうのか。パンがあまり好きでないからと賛成してパン食禁止の法律を容認してしまえば、時の権力者の意向で私生活はコントロールされ人間性さえも否定されていってしまうことになる。

 私たちは、今の生活が多くの代償を払うことで成り立っていることを自覚した上で、自らの自由な意思で、人間の「真の幸せ」とはどのようなものなのかを考え、答えを見つけていかなければならない。
(2011年4月10日)




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