東日本大震災から4ヵ月がたち、復興論議が盛んになってきた。
当初は被災者の境遇に思いを馳せ、義捐金やボランティア以外はひっそりと活動を自粛していた人々も、経済までもが沈滞する事態を避けようと自粛ムードを拭い始めた。
他人が不慮の災害に遭遇して被災したような場合、当事者以外はひたすら粛々と静かにしているのが人間としての倫理である。
ところが経済は違う。
経済が停滞すれば不幸はさらに拡大し、復興の妨げになってしまう。
被災者への人としての思いやりとは別に、経済を回復させなければならない冷厳な現実が横たわっている。
経済の地盤沈下は失業者の増加をはじめとした国民生活そのものの破綻を招いてしまう。
経済活動の倫理は人間の倫理とは違うという現実が立ちはだかる。
しかし、経済を成り立たせているのもまた同じ人間なのである。
同じ人間が、あるときは人として被災者のために身をすくめてジッとして哀悼や見舞いの気持ちを吐露する一方で、同じ人間が、平時と変わらずに会社へ行き、日常と変わらない生活を営む。
一見、矛盾したように見える行動も、実は現代社会では当たり前に存在することなのである。
それは、矛盾そのものが人間の倫理と経済の倫理が違うことから生まれているからである。
もともと両者の倫理観の境界はあいまいである。
経済、つまり民間の企業経営の場合、経営者は利益の最大化を目指して活動する。
企業が倒産寸前に追い込まれている状況で、一人の人員整理で他の多くの従業員が助かるような場合(もちろん誰が見ても客観的にやむを得ない場合だが)、法律的にも一人の解雇は正当化される。
しかし、解雇の憂き目にあう該当者にとっては家族全員の生活が失われてしまうなどの多大な犠牲をはらうのだから、一人であっても人員整理を行うべきでないという人として当然の倫理がある。
このように、人としての倫理と事業経営という経済の倫理が対立した場合、国民経済全体の観点から経済の倫理が優先される場合もある。
どこの国でも産業がなければ多くの国民は生活できないからだ。
「一人の人間を救うべきだ」という「人としての倫理や良心」があっても、企業として行うことに私人としての倫理観を持ち込んではならないから、時には「泣いて馬謖(ばしょく)を斬る」(注)冷酷な決断が必要になる。
しかし、だからといって何をしてもよいというわけにはいかない。
ひたすら利益の最大化を目指すのは当然としても、その行為が人間性を否定するようなことになれば社会の指弾を受ける。
人間性を否定する行為が犯罪的であれば両者の倫理に齟齬はきたさない。
なぜなら「人間として行ってはならない」ことと、「企業が行ってはならないこと」が同じになるからだ。ところが、経営上は法律的にも何の問題もないのに、それが人としての倫理に反するということになると問題になるのである。
この境界があいまいであるがゆえに不本意な問題へと発展してしまうこともある。
企業不祥事をめぐって、経営者の責任が追及されるような場合、メディアの無責任な勝手放題な主張であっても、ひとたびメディアの主張に異を唱えればここを先途(せんど)と嵩(かさ)にかかった非難の嵐が浴びせられる。
経営上の不祥事がいつの間にか経営者個人の人間性や態度の良し悪しへの批判に転じてしまうのである。それには次のような理由がある。
経済にはルールがある。ルール違反は厳しく批判されなければならないし、そこに経営者の人間性がかかわりあってくる。
たとえば一時期、村上ファンドと並んで時代の寵児となった元ライブドアの通称「ホリエモン」の場合、つい最近までルール違反を認めずに最高裁の手を煩わせていたが、最高裁は「ルールが確立していなかったファンドを利用して自社株の売却などで利益を膨らませ、成長著しい企業のように見せかけた全体の構図を『巧妙な犯罪』」(11年4月27日・読売新聞)として有罪が確定した。
この事件が社会に与えた影響は計り知れない。
時代の寵児といわれたように、若い人々を中心に「額に汗してコツコツ働くよりも、他人を騙そうがカネを稼ぐ」風潮を蔓延させた。
人間が「楽をしてカネを稼ぐようになれば世も末」とは先人の教えでもあるのだが、当時の小泉内閣の「規制・保護の撤廃」という善の政策も、その陰で派生させたほころびが社会に蔓延した結果、世は「カネ、カネ」万能、拝金主義の病魔に侵されてしまった。
最も象徴的だったのが、小泉政権下で行われた郵政選挙といわれた衆議院選挙で、同党から立候補させたホリエモンの応援演説に立った当時の自民党武部幹事長の「私の弟です」「私の息子です」と支援を訴えた場面だ。
「政権党の自民党でさえ支持しているのだから」と、カネの病魔に侵された支持者も反省することなく熱狂するテレビ画面が生々しくよみがえる。
また、メディアも新聞、テレビに出ない日はないというくらい取り上げ、これらの風潮を煽りたてた。
ところがいくら時代の寵児ともちあげても、ホリエモンが発言する彼自身の価値観、人生観を表す言葉に人々も「チョットおかしいのでは」と気付き始める。
やがて「人の心はおカネで買える」「法に反しなければ何をしてもよい」という彼自身が発言する価値観、人生観が分かったことによって、さすがに彼の周囲からも離れていく人々が出始めたころ、逮捕を迎えるのであるここに、人間としての倫理の重要性がある。
難しい経済の仕組みが分からなくても、人々は本能的に過ちに気付く。
ルールを無視して市場をもてあそんだといわれるように、経済の倫理と人間の倫理とは違うといっても、経営者の人としての倫理観や価値観が経営方針や事業経営に反映されるのである。
だから不祥事を起こした際に、「謝罪に誠意がみられない」とか、時には「反省が見られない」「ふてぶてしい」というように、人としての評価が不祥事全体に対する国民の評価、当該企業そのものの評価を左右するのである。
話は変わるが、これらは個人と集団によっても違いが生まれる。
地方自治体への財政援助と被災者への救済援助を目的につくられた激甚災害法の対象に認定されるかどうかによっても、被災者への扱いに差が生まれる。
つまり、社会全体からみてその影響が一人とか少人数にとどまっている場合と、今回の東日本大震災のように大多数の被害者が出たり、経済基盤そのものが破壊されたような場合では、世論も国も扱いが全く違ってくる。
ボランティアの数も、募金も、国からの補償もである。
たった一人で自然災害にあったような場合には、本人への救済はなにもない。
ボランティアも来ないし、募金もなされないし、国からの補償もない。
しかし、厳密にいえば一人の人間としては家財も消失しすべてを失った苦痛は、被災者の数の多少には関係ないはずである。
もちろん、被害が一人であれば周囲の手助けも期待されるし、ライフラインは止まらないなどの事情の違いもあるが、人としての倫理からいえば、一人であっても救いの手を差し伸べるべきなのだが、被災者が多数に上ったり社会・経済の基盤が崩壊してしまえば、国民生活の安寧に責任を持っている国の義務が問われることになる。
「被災者の立場に立つべき」という論はまったく正しい。
だとしたら被災者が一人でも多数でも救済に差をつけるのは誤っていることになる。
ここにも経済や国家としての倫理と、人としての倫理とに矛盾があるのである。
人間社会とは、実に矛盾に満ち複雑に成り立っているのである。
(注) 「泣いて馬謖(ばしょく)を斬る」(ウィキペディアより抜粋)
中国三国志の時代、諸葛孔明の部下「馬謖」が功名にはやり命令違反を犯し、為に、諸葛孔明により処刑された。
馬謖は軍人であり、戦場の現場指揮を命ぜられていた。
名将諸葛孔明は、部隊を派遣するに当たり、布陣場所を特定し、命令とした。
が、現地に向かった馬謖は、現場の状況判断により、布陣位置を変更した。
果たして決戦、結果は大敗。
諸葛孔明は、敗因を予測し、布陣位置を指定していたとされる。
このように馬謖は有能な指揮官で、将来を嘱望されていたが、命令違反にたいし、厳正に懲罰し、為に諸葛孔明は、泣きながら処刑したというものである。
見解の分かれるのは、現場指揮官の裁量権の範囲である。
戦況は現場で大きく動く。
これを、後方の上級指揮所では見て取れず、臨機応変な対応も必要である。
ただ、諸葛孔明は、布陣位置の命令は絶対のものであり、これを守らなかったことは、理由の如何にかかわらず、指揮統率上問題ありという判断となったものである。
馬謖は、命令違反とされたとはいえ、私利私欲のためではない。
不正行為とは異なる点に注意したい。
(2011年6月10日)
当初は被災者の境遇に思いを馳せ、義捐金やボランティア以外はひっそりと活動を自粛していた人々も、経済までもが沈滞する事態を避けようと自粛ムードを拭い始めた。
他人が不慮の災害に遭遇して被災したような場合、当事者以外はひたすら粛々と静かにしているのが人間としての倫理である。
ところが経済は違う。
経済が停滞すれば不幸はさらに拡大し、復興の妨げになってしまう。
被災者への人としての思いやりとは別に、経済を回復させなければならない冷厳な現実が横たわっている。
経済の地盤沈下は失業者の増加をはじめとした国民生活そのものの破綻を招いてしまう。
経済活動の倫理は人間の倫理とは違うという現実が立ちはだかる。
しかし、経済を成り立たせているのもまた同じ人間なのである。
同じ人間が、あるときは人として被災者のために身をすくめてジッとして哀悼や見舞いの気持ちを吐露する一方で、同じ人間が、平時と変わらずに会社へ行き、日常と変わらない生活を営む。
一見、矛盾したように見える行動も、実は現代社会では当たり前に存在することなのである。
それは、矛盾そのものが人間の倫理と経済の倫理が違うことから生まれているからである。
もともと両者の倫理観の境界はあいまいである。
経済、つまり民間の企業経営の場合、経営者は利益の最大化を目指して活動する。
企業が倒産寸前に追い込まれている状況で、一人の人員整理で他の多くの従業員が助かるような場合(もちろん誰が見ても客観的にやむを得ない場合だが)、法律的にも一人の解雇は正当化される。
しかし、解雇の憂き目にあう該当者にとっては家族全員の生活が失われてしまうなどの多大な犠牲をはらうのだから、一人であっても人員整理を行うべきでないという人として当然の倫理がある。
このように、人としての倫理と事業経営という経済の倫理が対立した場合、国民経済全体の観点から経済の倫理が優先される場合もある。
どこの国でも産業がなければ多くの国民は生活できないからだ。
「一人の人間を救うべきだ」という「人としての倫理や良心」があっても、企業として行うことに私人としての倫理観を持ち込んではならないから、時には「泣いて馬謖(ばしょく)を斬る」(注)冷酷な決断が必要になる。
しかし、だからといって何をしてもよいというわけにはいかない。
ひたすら利益の最大化を目指すのは当然としても、その行為が人間性を否定するようなことになれば社会の指弾を受ける。
人間性を否定する行為が犯罪的であれば両者の倫理に齟齬はきたさない。
なぜなら「人間として行ってはならない」ことと、「企業が行ってはならないこと」が同じになるからだ。ところが、経営上は法律的にも何の問題もないのに、それが人としての倫理に反するということになると問題になるのである。
この境界があいまいであるがゆえに不本意な問題へと発展してしまうこともある。
企業不祥事をめぐって、経営者の責任が追及されるような場合、メディアの無責任な勝手放題な主張であっても、ひとたびメディアの主張に異を唱えればここを先途(せんど)と嵩(かさ)にかかった非難の嵐が浴びせられる。
経営上の不祥事がいつの間にか経営者個人の人間性や態度の良し悪しへの批判に転じてしまうのである。それには次のような理由がある。
経済にはルールがある。ルール違反は厳しく批判されなければならないし、そこに経営者の人間性がかかわりあってくる。
たとえば一時期、村上ファンドと並んで時代の寵児となった元ライブドアの通称「ホリエモン」の場合、つい最近までルール違反を認めずに最高裁の手を煩わせていたが、最高裁は「ルールが確立していなかったファンドを利用して自社株の売却などで利益を膨らませ、成長著しい企業のように見せかけた全体の構図を『巧妙な犯罪』」(11年4月27日・読売新聞)として有罪が確定した。
この事件が社会に与えた影響は計り知れない。
時代の寵児といわれたように、若い人々を中心に「額に汗してコツコツ働くよりも、他人を騙そうがカネを稼ぐ」風潮を蔓延させた。
人間が「楽をしてカネを稼ぐようになれば世も末」とは先人の教えでもあるのだが、当時の小泉内閣の「規制・保護の撤廃」という善の政策も、その陰で派生させたほころびが社会に蔓延した結果、世は「カネ、カネ」万能、拝金主義の病魔に侵されてしまった。
最も象徴的だったのが、小泉政権下で行われた郵政選挙といわれた衆議院選挙で、同党から立候補させたホリエモンの応援演説に立った当時の自民党武部幹事長の「私の弟です」「私の息子です」と支援を訴えた場面だ。
「政権党の自民党でさえ支持しているのだから」と、カネの病魔に侵された支持者も反省することなく熱狂するテレビ画面が生々しくよみがえる。
また、メディアも新聞、テレビに出ない日はないというくらい取り上げ、これらの風潮を煽りたてた。
ところがいくら時代の寵児ともちあげても、ホリエモンが発言する彼自身の価値観、人生観を表す言葉に人々も「チョットおかしいのでは」と気付き始める。
やがて「人の心はおカネで買える」「法に反しなければ何をしてもよい」という彼自身が発言する価値観、人生観が分かったことによって、さすがに彼の周囲からも離れていく人々が出始めたころ、逮捕を迎えるのであるここに、人間としての倫理の重要性がある。
難しい経済の仕組みが分からなくても、人々は本能的に過ちに気付く。
ルールを無視して市場をもてあそんだといわれるように、経済の倫理と人間の倫理とは違うといっても、経営者の人としての倫理観や価値観が経営方針や事業経営に反映されるのである。
だから不祥事を起こした際に、「謝罪に誠意がみられない」とか、時には「反省が見られない」「ふてぶてしい」というように、人としての評価が不祥事全体に対する国民の評価、当該企業そのものの評価を左右するのである。
話は変わるが、これらは個人と集団によっても違いが生まれる。
地方自治体への財政援助と被災者への救済援助を目的につくられた激甚災害法の対象に認定されるかどうかによっても、被災者への扱いに差が生まれる。
つまり、社会全体からみてその影響が一人とか少人数にとどまっている場合と、今回の東日本大震災のように大多数の被害者が出たり、経済基盤そのものが破壊されたような場合では、世論も国も扱いが全く違ってくる。
ボランティアの数も、募金も、国からの補償もである。
たった一人で自然災害にあったような場合には、本人への救済はなにもない。
ボランティアも来ないし、募金もなされないし、国からの補償もない。
しかし、厳密にいえば一人の人間としては家財も消失しすべてを失った苦痛は、被災者の数の多少には関係ないはずである。
もちろん、被害が一人であれば周囲の手助けも期待されるし、ライフラインは止まらないなどの事情の違いもあるが、人としての倫理からいえば、一人であっても救いの手を差し伸べるべきなのだが、被災者が多数に上ったり社会・経済の基盤が崩壊してしまえば、国民生活の安寧に責任を持っている国の義務が問われることになる。
「被災者の立場に立つべき」という論はまったく正しい。
だとしたら被災者が一人でも多数でも救済に差をつけるのは誤っていることになる。
ここにも経済や国家としての倫理と、人としての倫理とに矛盾があるのである。
人間社会とは、実に矛盾に満ち複雑に成り立っているのである。
(注) 「泣いて馬謖(ばしょく)を斬る」(ウィキペディアより抜粋)
中国三国志の時代、諸葛孔明の部下「馬謖」が功名にはやり命令違反を犯し、為に、諸葛孔明により処刑された。
馬謖は軍人であり、戦場の現場指揮を命ぜられていた。
名将諸葛孔明は、部隊を派遣するに当たり、布陣場所を特定し、命令とした。
が、現地に向かった馬謖は、現場の状況判断により、布陣位置を変更した。
果たして決戦、結果は大敗。
諸葛孔明は、敗因を予測し、布陣位置を指定していたとされる。
このように馬謖は有能な指揮官で、将来を嘱望されていたが、命令違反にたいし、厳正に懲罰し、為に諸葛孔明は、泣きながら処刑したというものである。
見解の分かれるのは、現場指揮官の裁量権の範囲である。
戦況は現場で大きく動く。
これを、後方の上級指揮所では見て取れず、臨機応変な対応も必要である。
ただ、諸葛孔明は、布陣位置の命令は絶対のものであり、これを守らなかったことは、理由の如何にかかわらず、指揮統率上問題ありという判断となったものである。
馬謖は、命令違反とされたとはいえ、私利私欲のためではない。
不正行為とは異なる点に注意したい。
(2011年6月10日)



