鈴木勝利 コラム「語りつぐもの」

鈴木勝利 コラム「語りつぐもの」

またぞろ始まった日本人の悪い癖~政府が悪い、自治体が悪い、東電が悪い、正しいのは自分だけ~-vol.47-
鈴木 勝利 顧問
2011/10/15
 今回の東日本大震災、福島の原子力発電所事故をめぐってメディアによる政府や東電への批判のオンパレードが続いている。記者個人の主観からなのか、それとも社の方針なのかは分からないが、よくもこうまで他者の批判を書いたり、言えるのかと驚くほどである。その時の政治や政界の状態・動きを政局と言うそうだが、大震災を政局の具にするなといいつつ、最も政府・行政への批判を口にして政局にしているのはメディアに他ならない。今後に役立てるとして「検証」なる記事を特集し、その都度の政府や行政の対応を「後手、後手」と決め付け、その記事によって「政府の対応は後手、後手であった」と信じ込まされた読者・視聴者は政府への不満を募らせ、その不満から生じた政治不信を世論調査で再び取り上げ、一層の政府への不信感を増幅させる手法は、まさしくメディアの傲慢さの表れというべきか。私自身も政府や自治体、あるいは東電や保安院の対応が万全であったなどとは思っていないが、はっきりしていることは、国難ともいわれる大震災に、口では犯人探しの時期ではないといいつつ、その一方で「誰が悪い」「誰々が悪い」と、犯人探しをしているメディアや私たち国民の情けなさを憂いているのである。

 「大震災を政局の道具にするな」としたり顔で言いながら、自らは政権の批判をすることによって政局の具にしているメディアの厚顔さは、日本の今後の復興にあたって決してプラスにならないことだけは分かる。政治に素人の自分が言うのは僭越極まりないが、政権批判はメディアだけではない。野党でも政権党内でもここを先途と批判する議員もいるようであるが、それを止む無しとするのであれば、政党間の対立や同一政党内の権力争いにしか眼が向かない国民をないがしろにする所業でしかない。まさしく「政党の常識は社会の非常識」を地で行く人々ということになり、党のためにすべてを利用する発想を「党利党略」というならば、議員が口では国民のためといいながらその実、自分の選挙や政治的立場の維持を目的に行動するのは、まさしく「私利私略」と言われても仕方がない。

 私たち日本人は、今回の大震災によって今までの生活のあり様を根底から否定されたのである。世界有数の発展を遂げ経済大国と自認した自負は、実はいつの間にか自負ではなくて自惚れに変わってしまったのか。自然を前にして、如何に人間は脆いのかを突きつけられているのである。戦後の貧しい時代には、モノ一つ得るのにも両親は言い尽くせない努力をしてきた。ところが一億総中流化と持て囃されている内に、いつしか欲しいものが簡単に手に入ることに慣れてしまい、努力することを忘れ始めてしまった。一部には「勤勉」は馬鹿らしい風潮となり、手っ取り早くカネが手に入ることを夢見るようになった。有罪になった「ホリエモン」や「村上ファンド」が持て囃され、同じように「いつかは」と一攫千金を夢見てきた生活は、自然界の猛威によってものの見事に打ち砕かれてしまった。

 自分の身に何か起これば、自分の責任ではなく、政府や行政のせいにしてしまえば楽だ。困ったら政府に要求し税金で手当すれば損はない。職を失えば、どんな理由があっても会社や世間が悪いことにすればいい。なんでも他人の責任に押し付けてしまう風潮がありはしないか。

 それでなくても復興には眼に見えない壁がある。以前本号で今は「複合社会」で、あらゆるシステムが複雑に絡み合って存在していると書いた。一つのことが、それ自体独立して存在するのではなく、他の存在と絡み合ってるがゆえに一つをいじれば他の存在に影響を与えてしまう。蜘蛛の糸のごとく絡み合っている状態で変えることの難しさを指摘したが、その難しさの上に、個人間、集団間の利害が絡み合ってくる。ある集団やある人たちに最善の策だからといって、他の集団、他の人にとっては必ずしも最善にはならない。国民の間に利害が生まれ、全体をまとめることは至難になる。唯一の救いは、今回の災害で見せた避難者の我慢や思いやりの姿だ。その姿が全国民の姿になったときに日本を復興の緒(ちょ)に立たせることができるのだ。今のように、「誰が悪い」、「誰がいたから」などと言い合っているうちは、復興などは絵空事になってしまうに違いない。ちょうど、福島を犠牲にして電力の供給を受け利益を得ているのは東京だから、東京に「原子力の安全を問う資格はない」、「原発を新宿か東京湾に作るべきだ」、「原子力を安全などという輩は原発の傍に住めばいい」などの発言が飛び交う。このような地域間の利害対立が許されてしまえば、復興の際にも「自分さえ良ければいい」ということになってしまう。人は得てして、「自分だけは正しい」と思いたいし、「自分だけでも早く立ち直りたい」と思い勝ちである。そのときに、ふっと立ち止まって、自らをみつめなおすことができなければ卑しい自分を認めるしかない。そういえば、つい最近も、北朝鮮など外国から安全を脅かされないためにも米軍基地は必要だ、と言いつつ、しかし、沖縄ならいいが、自分の住む地域に基地をつくるのは反対だ、というのが国民の声のようだったから同じ轍を踏むことは大いにあり得る。今回はそうあってはならないのだから、どうすればいいのか、その問いに一人ひとりが答えを出さなければならない。

 メディアの存在は、狭い存在でしかない私たちにとって、さまざまな出来事を知らせてくれたり、起きている現実の事象からその背景や原因を探ってくれたり、権力の暴走に歯止めをかけるなど、時として極めて得がたい存在でもある。しかし、同時に、情報を操作し、真実をゆがめ、人々の判断を誤らせる毒にもなる。

 なんでも他者の責任にし、いつもメディアのみが正しい存在であり続けるなどは到底でき得ない。今のようなメディアの存在は、難しい今後の復興には有害になってしまうかもしれない。

 不平や不満からは復興や再建への糧は生まれてこない。これから何をなすべきなのかを問う姿勢が必要なのだ。それをリードする力を持っているのがメディアだからこそ、メディアは第三の権力と言われると思うのだがどうだろうか。

 こうしてメディア批判をしていてフッと気がついた。自分自身もまた、「政府が悪い」「自治体が悪い」「東電が悪い」といい、その上、さらに「メディアが悪い」、そして「自分だけは正しい」と思ってはいないか。せめてこれからは、「自分だけは正しい」などと傲慢にならずに、愚直といわれてもいいから日々の研鑽と自分へ問いかけを繰り返していきたいと言い聞かせているこの頃である。

(2011年9月27日)


ホームページトップへ戻る メルマガ登録