鈴木勝利 コラム「語りつぐもの」

鈴木勝利 コラム「語りつぐもの」

そして人々は最後にすべてを失った~日本社会の今後を憂う~-vol.54
鈴木 勝利 顧問
2012/05/15
  今も同じようなことが起きているので、かなり前の出来事を引用しても意味があると思うのでふれると、東京の小田急線の乗客の一人が、毎朝の社内での宣伝放送を、「すし詰めの状態で身動きのとれない乗客に、一方的に宣伝を押しつけるもの。人間には、本来、聞きたくないものを無理に聞かされない自由がある。人格権の侵害だ」と、車内放送の差し止めを求めた訴訟を東京地裁に起こしたが、結局、「放送時間は十秒~十五秒と短く、差し止めるほどの違法性はない」と、訴えは退けられた。

 同じような話はまだまだある。

 街を歩くと経験するが、食べ物店の換気扇はほとんどが道路に向けられているのでまともに顔に臭気がかかるが、わずかの時間だからと気にせず通過ぎる。

 しかし、これが迷惑だと裁判所に訴える人も出てくる。

 裁判所の手を煩わせば当然税金が使われる。ある意味税金の無駄遣いの類の話と思うのだが、当人はそんなことは考えもしない。

 こうした話を聞くにつけ、通常の社会生活の中で許容されるべきことが、個人の権利という美名の下に、法律で決着をつけようとする風潮が良く見られるようになり、こんな世の中でいいのかと些(いささか)疑問を抱いてしまう。

 自分たちに所用ができたので、子どもを近所に預けたら、その子どもが遊んでいる最中の事故で怪我をしてしまった。両親は早速、預かってくれた親を監督不十分の過失があったと損害賠償の裁判を起こす。

 詳細は分からないが、隣家の子どもを預かった善意が、たまたま不幸にも事故が起きてしまったために法律の裁きを受けるというのでは、いったい日本社会にあった社会的慣習としての近所づきあいとか、助け合いとかは、なまじ持たぬ方がよいということになってしまう。

 しかし、厳密に言えば、自分たちの都合で大事な子を他人に預けるほうが、親のつとめを忘れたといえるのであって、その身勝手さを棚に上げて裁判に訴える感覚というのは、相手側に故意か重大な過失があったなら別だが、世の中、やはりどこかが狂い始めたとしか言いようがない。

 嫁・姑の関係や、近所づきあいが面倒くさい、あるいはプライバシーが侵害されるからと、核家族社会を作ってしまった帰結として、「孤独死」や「孤立死」が紙面をにぎわす。

 加えて、日常生活では、何かあれば我慢したり許容することよりも法律で解決しようとする異常な社会。それを歓迎するかのように面白おかしく取り上げるメディア。自分は努力せずに、さまざまな理由を見つけて行政に依存するか、あるいは行政の責任にしてしまう風潮。こんな日本社会。

 かつて、暗殺されたアメリカの大統領ケネディは、その就任演説で、国民がアメリカ国家に何かを求めるのではなく、国民が国家に何をしてやれるのかを問う、という意味のことを述べた。

 国家権力の頂点に立つ為政者が発したのはいただけないにしても、もし国民自身が述べた言葉としたら素晴らしい話になるだろう。しかし、為政者はどこの国でも、国民があまりにもわがままな要求だけを主張していると、どうしてもこの種の思いに至ってしまうようだ。

 イギリスの歴史学者エドワード・ギボンは、その著書の中で、ギリシャの都市国家アテネの没落を評して「アテネの人々が、安楽な生活をのぞみ、市民としての責任からも逃れる自由を求めるようになったとき、アテネは、安全な社会も、安楽な生活も、そして自由をも、すべてを失った」という趣旨を述べている。

 今日のギリシャ危機、国民が高い年金を享受し、不相応に多い公務員を抱えてなお、税金の負担を拒否してきた結果の危機を見るにつけ、ギボンの言葉は千金の重みを持って迫ってくる。

 翻って日本、年金を受領している高齢者が消費税の引上げに反対し、次代を担う若い人々の犠牲を求めている様を、ギボンはどう見ているのだろうか。

 自分を含めて誰しも負担が増えることを望んではいない。反対する理屈は探せばつぎからつぎへと出てくる。

 将来の不確かな状況の中で、「今の時期ではなく景気が良くなってから上げればいい」と…。景気がよくなればなったで、新たな反対の理由が出てくる。どこが日本とかつてのアテネと違うのだろうか。

 本来、年金とは、現役世代が先輩の方々の分を負担することで成り立つ。

 その際、多く負担分を出してきた人には、年金を相応に増額するよう設計してある。

 したがって、年金とは貯金でもないし、個人の積立金でもないのである。

 メディアがさかんに支払った掛け金と受け取れる受給額との比較をして、何歳以上は得をする、何歳以下は損をすると流すのも、国民をミスリードする過ちなのだ。

 ただ問題になっているのは、年金をもらえる先輩の人数よりも、負担する現役世代の人口が極端に少なくなっていることである。

 今の年金制度は、現役世代がどんどん増えることで成り立ってきた制度だからである。

 よく例えられるように、今までは支える世代が多いから、運動会の器械体操の如く、多人数で頂点(1人)の人を支えるピラミッド型であったが、今は2~3人で頂点を支える騎馬戦型、これからは1人が1人を支えるオンブ型になる。

 そうすると、今までの年金受給者は、多くの国民の負担によって受給できたが、これから年金生活に入る人は、国民の負担で貰えるシステムは一緒でも、負担する側の負担分は多くなる。

 オンブ型になれば、現役世代の人は、自分の生計を維持しながら先輩の年金1人分を一人で負担しなければならないということだ。生活が破綻するのは目に見えている。

 個人の負担をやめて全額税金で賄えばいいといっても(今も一部に税金は使われているが)、国の財政は膨大な赤字を出しているのは承知のとおりである。

 今の私たちのような年金受給者は、いずれこの世を去る。

 財政の赤字の補てんも、その後の年金の負担も、すべて若い人々に委ねることになる。

 例え、今の政権に不満があったにしても、現役世代に後始末を転嫁していいのか、それを何とかしなければならない。今からその対策をとっておかなければと思うのは自然ではないだろうか。

 今までの年金管理のずさんさに不満を述べようと、制度の矛盾を指摘しようと、この事実からは逃れられない(国の借金を外国から借りているギリシャと違って、日本は借金の9割を国内の国民の貯蓄でまかなっているから急ぐ必要がないという主張も、負担を先送りし、その結果、ますます状況を悪化させることにしかならない)。

 年金、医療など社会保障に使う費用を消費税の引き上げて賄い、後世の人々の負担を少しでも減らそうと、自分たちが使ってきた借金のツケを、自分たちで解消させなければならないというのは当たり前なのだ。

 自分が先輩たちの分を負担してきたのだから、今度は自分の分を若い世代が負担するのは当然であり、そのためにできる借金は関係ないと考えているなら、日本社会に脈々と受け継がれてきた「共に助け合う」精神とは相いれず、冒頭の個人のわがまま同様、日本社会の崩壊に手を貸すことになりはしないか。

 年金受給者自身も、苦しい生活の中で買い物をして消費税を払うことによって、年金財源の一部を自分でも負担することになる。それこそ、自分の存在が価値あるものになり、日本社会の持続に大きな役割を果たすのである。

 日本の現状にはいくつもの不満や問題はある。

 他国との競争の真っ只中で、汗を流しながら懸命に働いても報われない人々。その一方で、マネーゲームや投機によって莫大な利益を上げる企業や個人。まじめに働くことがばかばかしいと、コツコツ働くより一攫千金を夢見る人々。

 テレビはとみれば、グルメブーム、旅行ブーム。芸人による騒々しいバラエティ番組と、韓国版のドラマをなくせば、今のテレビ局は2局もあれば足りるくらいだ。

 中世ヨーロッパの崩壊は、飽食と性道徳の退廃によって齎(もたら)されたという歴史の教訓を誰もが忘れ、ひたすら享楽的社会、それは芸術とか余暇とか遊び心とかいう人間の精神文化とはまったく無縁なものに変質しつつある。

 そんな中で唯一の救いとして労働組合の存在があって欲しい。

 労働組合が、弊害と矛盾のあるシステムや考え方を後世に残す側に立つのか、あるいは、今からでも遅くないと、自らを犠牲にしつつ、世の中の矛盾を一つでも解決する側に立つのか。

 今、労働組合にはそれが問われている気がしてならない。

(2012年4月17日)


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