近代民主主義国家といわれる国々では、憲法で権力の分立を厳しく定めている。国の権力は、法律をつくる立法権、法律を執行する行政権、法律に合致しているか否かを審査する司法権に分けられる。これが三権分立と呼ばれるものである。三権はそれぞれの権力が、別の権力機関が越権しないよう相互に監視することで権力の集中・濫用を防止することを目的に分立しているのである。
この三権に対して、報道機関は三権に匹敵する権力をもっているとして第四の権力といわれることが多い。これはイギリスのエドマンド・バークという政治家が言い出した表現で、日本では田中角栄氏が首相時代に第四権力という表現を定着させたとされている。
報道とはマスメディアをさすが、本来は政府機関に属さないで、権力の行為を監視し情報として流して国民に大きな影響を与える役割を負う。
世界的に見ればマスメディアが台頭してきたのは19世紀で、当初は権力者が都合の良いように利用した。日本が戦争に足を踏み出した第二次世界大戦の際にも、メディアが国民全体を戦争に駆り立てたのは記憶に新しい。
今になれば、そうした報道は偏向報道として非難されるが、当時は国民はマスメディアの影響を受けてこぞって戦争を賛美し、無謀にも国際社会の中で孤立の道を選択、戦争に突入していった。
それはちょうど、今の北朝鮮となんらかわるものではなく、言論統制社会の恐ろしさを知らしめている。日本は電波報道に対しては、放送法で「政治的に公平であること」、「事実を曲げないこと」、「できる限り多面的に検討すること」などを詳細に定めているが、情報操作は必ずしも時の権力者だけが行うものばかりではない。
最近はメディア自身が新聞社、テレビ局、記者の意思として国民をある方向へミスリードする傾向も散見される。
もともとメディア、とりわけ限られた資源を使用する電波報道は、速報性や同時性を持っているので、国民への影響は極めて大きいとされ、放送法で規制されているのだが、今までは前述した第二次世界大戦時のように、権力者の意を汲んで報道する偏向報道が非難されるのが一般的であった。しかし、最近は権力者や政党さえもメディアが自在に操るが如き報道が眼つく。
1993年に行われた総選挙の期間中に、テレビ朝日は小沢一郎氏率いる新生党を始めとした当時の野党による非自民党政権樹立を促す報道を行い、日本民間放送連盟の会合で同局の椿報道局長がそれを正当化する主張をしたために問題になり、同局長が国会で証人喚問される事件を起こした。報道局長の椿氏の名を冠して「椿事件」と呼ばれた。
こうした場合、これらの偏向報道で利を得た人々(当時の野党)は黙認し、不利になった側(当時の政権与党の自民党)は非難することになる。つい先ごろも、自民党政権の打倒、民主党政権樹立を煽った報道のお陰で民主党が圧勝し、今度はその民主党がメディアの非難の大合唱の渦に叩き込まれているように、政党はメディアに自在にコントロールされている。
よくよく考えてみれば、最近も出演しているアナウンサーやコメンテーターが、「政府の説明は国民に対して十分ではない」、「説明が不足している」と非難するが、国民が眼にしたり耳にできる情報とは、メディアが取り上げなければ知る由も無いのに、メディアに煽られると、私たちは自分が知らないのは政府の責任と受け止めてしまう。
メディアは自分たちが取り上げないでおいて、政府は説明不足、説明不足と非難しているのだが、自ら報道の怠慢を宣伝していることと同じなのだ。「説明不足」と信じ込まされた国民は、メディアの言うがままになってしまう。
そうした動きを助長しているのが世論調査である。読売新聞を例にとれば、1971年には、世論調査は年に1回だけだったのが、2010年には年間31回を数えている。固定電話のみで、携帯電話が対象にならないRDD方式と呼ばれる今のやり方は、普段のメディアによる政権への非難のオンパレードによって、国民の意識はどうしてもそちらに引っ張られている中で行われる。その結果は、政権党に対しては批判的にならざるを得ない。
その結果を受けて、やはり「(政権を批判している)メディアの分析が正しかった」、「国民は政権党への支持率を格段に下げている」のだから、今までのメディアの「政権非難」の報道は民意であったと正当性を訴えるのに利用する。
日本のメディアは本来の使命(あらゆる出来事を国民に知らせる使命、「新聞は社会の木鐸」といわれるように、世論を正しい方向へ導く使命など)を忘れ、政治の混乱を助長するのが役割と錯覚しているかのようだ。政策の本質的な問題を取り上げることはなく、政治家同士の権力争いに加担し、パフォーマンスを煽り、どうでもいい細かな問題をあげつらってヒステリックなバッシング報道を展開し、大臣や総理大臣の首を何人もすげ替えて悦に入っている感さえある。
2011年3月11日の大震災における原子力発電事故についても、「政治的にも公正であること」「できるだけ多面的に検討すること」の原則を放棄し、ひたすら放射線への不安や恐怖を煽り立て、反原発の思想的運動を繰り返すメディアが目に付く。
国の経済の根幹であるエネルギー政策は、安全・経済・環境問題を総合的に考慮して考えられるべきものであるのに、企業の国際競争力に直結する電力の低価格化、安定供給の議論さえも「物言えば唇寒し」の世界に閉じ込めてしまった。
原子力に代わる火力発電のために、国際的に原油や天然ガス価格が高騰し、日本を貿易赤字国に転落させてしまった。国際競争力のある貿易立国として、海外から稼いだ金を国内に還元・巡回させ、経済を成り立たせてきた日本は、その高コストのために国内企業の海外進出を加速させ、今後大量の失業者を発生させる危険性を高めている(高コストに加えて円高が追い打ちをかけている)。
エネルギーの安全性・安定供給・環境保護と経済との整合性を図るしか日本に残された道はないにも拘らず、そうした冷静な議論や検討は口にすらできない。
失業の心配がない職業の人々が反原発を叫び、雇用によって生活をなしている人々は安全性の確立を願っていても、原発推進派と思われてしまうのではと口を閉ざしている。
メディアに異を唱える人々の意見は無視される社会になってしまったのか。
このような権力を持ってきたメディアがもっとも効果を発揮できるのが選挙である。前述の椿事件のように野党政権の樹立を図ろうとしたのも、前回の総選挙で自民党非難の大合唱を通じて民主党政権の樹立を図ったのも、そして、今は、民主党政権の支持率を下げさせたのも、すべてメディアといってよい。とくに最近は深謀遠慮というべきか、情報操作も手がこんできている。
テレビに登場していた候補者が最高位近くで当選するようになったのは、1968年の参議院選における石原慎太郎(作家の知名度)、青島幸男(テレビの「意地悪ばあさん」役)が代表格で、タレント候補の草分けといわれた。
また、NHKアナウンサーで15年間にわたって紅白歌合戦の司会を務め、国民的人気のあった宮田輝氏が、1974年の参議院選で自民党から立候補、選挙史上最高得票で当選したのは有名である。俗にいう知名度が高い候補者はあまり選挙運動をしなくても当選できる。もっとも顕著だったのが青島幸男氏で、1974年以降の選挙では一切選挙運動をしなかった。だからお金もかからない。メディアは「お金をかける選挙はおかしい」とキャンペーンをはるから余計に支持が増える。普通の候補者は名前を知ってもらおうと、お金をかけて一生懸命にポスターを貼ったり街頭演説しているのを横目に、テレビに出演して知名度があればなにもしなくて済むのである。
タレント候補はおしなべてこうした特徴を持つが、今話題になっている大阪「維新の会」の橋本徹氏も、タレントの島田伸介が反社会的団体の暴力団との黒い交際が発覚し、引退に追い込まれた際のインタビューで、さすがに暴力団との交際を擁護することはしないまでも、「自分が(テレビに頻繁に出演して)このように知名度を上げられるようになったのも島田氏のお陰である」とのコメントを述べているように、メディアの力によって「維新の会」が生まれ、知名度を上げていることを暗に認めている。
選挙ではメディアに出演できない候補者、あるいは組織がない候補者は名前すら知られない。最近のメディアは国費の無駄遣いのニュースで、政党交付金を槍玉に挙げ始めている。
選挙におカネがかかり過ぎるという意味では大衆受けする主張だが、恐ろしいのは、メディアへの露出度の高い人は知名度が高いから、お金をかけて選挙運動をしなくても当選できる確率は一層高くなる。
ある人物をテレビに出すか出さないかは、テレビ局が決めるのだ。かつて韓国の芸能界で、女性タレントに顧客の性的接待を強要し自殺に追い込んだ事件が話題になった(韓国版ドラマ「花より男子」の出演女優のチャン・ジャヨンさんが自殺、直筆の遺書には「夜の関係を強要された」「殴られた」などたくさんの経験が書かれていた事件。「有名になりたい」、「テレビに出演したい」というタレントの弱みに芸能事務所が付け込んだ事件というのが真相のようであるが)。「有名になりたい」というタレントと、「知名度を上げて当選を目指したい」という候補者の願望とは同じだ。
だとすれば、その願望に応える、あるいは付け込んで?メディアの意思が最優先されて候補者が決定されていく時代が来ないともいえない。
そこまで考えて「政党交付金」の廃止を主張しているのであれば、まさにメディアの長期的情報操作ともいえる(もっとも、政党交付金がある現在でもテレビ出演者を決める権限を有しているが)。立候補したい人は、なんとかテレビに出演できないかを最優先に考え、テレビ担当者に媚を売るようになりはしないか。現に、少しでも名前を売りたい、政策を訴えたいとテレビのバラエティ番組に出演し、司会者からはもちろんのこと、勉強不足の芸人にいいように弄(もてあそ)ばれる議員の姿は、結局は、自らを議員の崇高な理念も志も見えない立場に貶めている。だから、どっちもどっちだと卑下されるのである。
言い換えれば、今メディアは、テレビで取り上げる出演者の選定を通じて、立法権を持つ議員さえもコントロールできる力をもっている。明らかに第四の権力が第一の権力をコントロールできる一面を持と始めたといっても過言ではない。メディアは今や怖いもの無しかもしれない。それを黙認していると、メディアの思い通りの世論一色に染まってしまう。
そんなメディアに自浄能力を期待することはできない。なぜなら、自称ジャーナリストには一面では私たちが評価する信念をもっているからである。読売新聞の編集手帳氏は、丸山孝男氏の「アメリカの大統領はなぜジョークを言うのか」(大修館書店)を引用してこういう。
【メディアについて不満を述べる政治家は、海について不満を述べる船長のようなものだ。】(2012年2月25日)。
「政治家はメディアの恩恵を受けているのだから、メディアに非難されても(メディアの恩恵を受けているのだから)メディアを非難してはならない」と警告しているように、メディアは自らの主張を絶対的に正しいと信じて、自らが誤っているとは思わない。それを前述した「社会の木鐸」と信じているようにも思える。
同時に、私たちは自分の知らない出来事をニュースで知り、ものごとの真相を追究してくれるメディアの存在なくして日常生活を送れない現実がある。国民にとって必要不可欠なメディアだからこそ、多くの関係する会社と記者の良心に期待しているのである。
とくに、電波を利用するテレビなどと違って、新聞、雑誌などには規制はなく、中立的報道が義務付けられているわけでもない。よく「我が紙は不偏不党の立場」などというが、こうした態度も法で規制されたものではなく、あくまでも「中立なら読む」という読者の心理に応えるためのスローガンである。
したがって、新聞・週刊誌・雑誌は各社・各記者の考え方をストレートに表現しても許されているから、特定の目的をもって偏向報道しながら、「我が紙は中立・不偏不党」と読者を欺瞞しても法に触れることはない。
労働組合は、組合員がメディアの本質を理解し、何が真実で何が意図的な報道なのかを見分ける力を持つための活動に取り組まなければならない。元来ニュースというのは、ありふれた大きなリスクより珍しい小さなリスクに価値を見出す。「犬が人を噛んでもニュースにはならないが、人が犬を噛んだらニュースになる」という、ジャーナリストの格言の通りなのである。
【僕の観察によると、年間の死亡者数がゼロから数十人の死因はメディアでセンセーショナルに報道され、数十人から数百人になると、社会問題になり、数千人から数万人以上が死亡すると、それは珍しくもなく誰もが話題にしなくなる(おそらく著者の意見は、日常的に繰り返されている自動車事故死や排気ガスの影響、喫煙によるといわれる肺癌の死者数などが増大していることを問題にしない現状を指摘しているようであるが)。メディアにとって価値あるリスクと、実際の僕たちの生活における本当に差し迫ったリスクは、まったく違うものとして日々生活しなければならない。メディアの商売にとっての重要なリスクと、個人の安全にとってのリスクはまったく別物であることを肝に銘じていよう】(新潮新書・藤沢数希「反原発の不都合な真実」)。
さまざまな情報が錯綜する現代社会の中で、何が正しく何が間違っているのか、目的をもって意図的に流されている情報はどれなのか、を見分けなければ、自分も誤った考え方をもってしまう。そうしたメディアの本質を明らかにし、それらを見分けるための労働組合の活動といっても、組合自身が社会から評価されていなければならない。
社会から評価されている組合が主張するからこそ、国民が聞く耳を持ってくれるのであり、反対に、社会的に評価されていない組合の主張は、国民に一顧だにされない。
私たちは、リーダーとして自らの襟を正しつつ、今の組合活動が社会からどのように評価されているのか、メンバーズ・クラブとして既得権擁護のみに堕していないか、社会全体のために活動しているのか絶えず検証していかなければならない。
この三権に対して、報道機関は三権に匹敵する権力をもっているとして第四の権力といわれることが多い。これはイギリスのエドマンド・バークという政治家が言い出した表現で、日本では田中角栄氏が首相時代に第四権力という表現を定着させたとされている。
報道とはマスメディアをさすが、本来は政府機関に属さないで、権力の行為を監視し情報として流して国民に大きな影響を与える役割を負う。
世界的に見ればマスメディアが台頭してきたのは19世紀で、当初は権力者が都合の良いように利用した。日本が戦争に足を踏み出した第二次世界大戦の際にも、メディアが国民全体を戦争に駆り立てたのは記憶に新しい。
今になれば、そうした報道は偏向報道として非難されるが、当時は国民はマスメディアの影響を受けてこぞって戦争を賛美し、無謀にも国際社会の中で孤立の道を選択、戦争に突入していった。
それはちょうど、今の北朝鮮となんらかわるものではなく、言論統制社会の恐ろしさを知らしめている。日本は電波報道に対しては、放送法で「政治的に公平であること」、「事実を曲げないこと」、「できる限り多面的に検討すること」などを詳細に定めているが、情報操作は必ずしも時の権力者だけが行うものばかりではない。
最近はメディア自身が新聞社、テレビ局、記者の意思として国民をある方向へミスリードする傾向も散見される。
もともとメディア、とりわけ限られた資源を使用する電波報道は、速報性や同時性を持っているので、国民への影響は極めて大きいとされ、放送法で規制されているのだが、今までは前述した第二次世界大戦時のように、権力者の意を汲んで報道する偏向報道が非難されるのが一般的であった。しかし、最近は権力者や政党さえもメディアが自在に操るが如き報道が眼つく。
1993年に行われた総選挙の期間中に、テレビ朝日は小沢一郎氏率いる新生党を始めとした当時の野党による非自民党政権樹立を促す報道を行い、日本民間放送連盟の会合で同局の椿報道局長がそれを正当化する主張をしたために問題になり、同局長が国会で証人喚問される事件を起こした。報道局長の椿氏の名を冠して「椿事件」と呼ばれた。
こうした場合、これらの偏向報道で利を得た人々(当時の野党)は黙認し、不利になった側(当時の政権与党の自民党)は非難することになる。つい先ごろも、自民党政権の打倒、民主党政権樹立を煽った報道のお陰で民主党が圧勝し、今度はその民主党がメディアの非難の大合唱の渦に叩き込まれているように、政党はメディアに自在にコントロールされている。
よくよく考えてみれば、最近も出演しているアナウンサーやコメンテーターが、「政府の説明は国民に対して十分ではない」、「説明が不足している」と非難するが、国民が眼にしたり耳にできる情報とは、メディアが取り上げなければ知る由も無いのに、メディアに煽られると、私たちは自分が知らないのは政府の責任と受け止めてしまう。
メディアは自分たちが取り上げないでおいて、政府は説明不足、説明不足と非難しているのだが、自ら報道の怠慢を宣伝していることと同じなのだ。「説明不足」と信じ込まされた国民は、メディアの言うがままになってしまう。
そうした動きを助長しているのが世論調査である。読売新聞を例にとれば、1971年には、世論調査は年に1回だけだったのが、2010年には年間31回を数えている。固定電話のみで、携帯電話が対象にならないRDD方式と呼ばれる今のやり方は、普段のメディアによる政権への非難のオンパレードによって、国民の意識はどうしてもそちらに引っ張られている中で行われる。その結果は、政権党に対しては批判的にならざるを得ない。
その結果を受けて、やはり「(政権を批判している)メディアの分析が正しかった」、「国民は政権党への支持率を格段に下げている」のだから、今までのメディアの「政権非難」の報道は民意であったと正当性を訴えるのに利用する。
日本のメディアは本来の使命(あらゆる出来事を国民に知らせる使命、「新聞は社会の木鐸」といわれるように、世論を正しい方向へ導く使命など)を忘れ、政治の混乱を助長するのが役割と錯覚しているかのようだ。政策の本質的な問題を取り上げることはなく、政治家同士の権力争いに加担し、パフォーマンスを煽り、どうでもいい細かな問題をあげつらってヒステリックなバッシング報道を展開し、大臣や総理大臣の首を何人もすげ替えて悦に入っている感さえある。
2011年3月11日の大震災における原子力発電事故についても、「政治的にも公正であること」「できるだけ多面的に検討すること」の原則を放棄し、ひたすら放射線への不安や恐怖を煽り立て、反原発の思想的運動を繰り返すメディアが目に付く。
国の経済の根幹であるエネルギー政策は、安全・経済・環境問題を総合的に考慮して考えられるべきものであるのに、企業の国際競争力に直結する電力の低価格化、安定供給の議論さえも「物言えば唇寒し」の世界に閉じ込めてしまった。
原子力に代わる火力発電のために、国際的に原油や天然ガス価格が高騰し、日本を貿易赤字国に転落させてしまった。国際競争力のある貿易立国として、海外から稼いだ金を国内に還元・巡回させ、経済を成り立たせてきた日本は、その高コストのために国内企業の海外進出を加速させ、今後大量の失業者を発生させる危険性を高めている(高コストに加えて円高が追い打ちをかけている)。
エネルギーの安全性・安定供給・環境保護と経済との整合性を図るしか日本に残された道はないにも拘らず、そうした冷静な議論や検討は口にすらできない。
失業の心配がない職業の人々が反原発を叫び、雇用によって生活をなしている人々は安全性の確立を願っていても、原発推進派と思われてしまうのではと口を閉ざしている。
メディアに異を唱える人々の意見は無視される社会になってしまったのか。
このような権力を持ってきたメディアがもっとも効果を発揮できるのが選挙である。前述の椿事件のように野党政権の樹立を図ろうとしたのも、前回の総選挙で自民党非難の大合唱を通じて民主党政権の樹立を図ったのも、そして、今は、民主党政権の支持率を下げさせたのも、すべてメディアといってよい。とくに最近は深謀遠慮というべきか、情報操作も手がこんできている。
テレビに登場していた候補者が最高位近くで当選するようになったのは、1968年の参議院選における石原慎太郎(作家の知名度)、青島幸男(テレビの「意地悪ばあさん」役)が代表格で、タレント候補の草分けといわれた。
また、NHKアナウンサーで15年間にわたって紅白歌合戦の司会を務め、国民的人気のあった宮田輝氏が、1974年の参議院選で自民党から立候補、選挙史上最高得票で当選したのは有名である。俗にいう知名度が高い候補者はあまり選挙運動をしなくても当選できる。もっとも顕著だったのが青島幸男氏で、1974年以降の選挙では一切選挙運動をしなかった。だからお金もかからない。メディアは「お金をかける選挙はおかしい」とキャンペーンをはるから余計に支持が増える。普通の候補者は名前を知ってもらおうと、お金をかけて一生懸命にポスターを貼ったり街頭演説しているのを横目に、テレビに出演して知名度があればなにもしなくて済むのである。
タレント候補はおしなべてこうした特徴を持つが、今話題になっている大阪「維新の会」の橋本徹氏も、タレントの島田伸介が反社会的団体の暴力団との黒い交際が発覚し、引退に追い込まれた際のインタビューで、さすがに暴力団との交際を擁護することはしないまでも、「自分が(テレビに頻繁に出演して)このように知名度を上げられるようになったのも島田氏のお陰である」とのコメントを述べているように、メディアの力によって「維新の会」が生まれ、知名度を上げていることを暗に認めている。
選挙ではメディアに出演できない候補者、あるいは組織がない候補者は名前すら知られない。最近のメディアは国費の無駄遣いのニュースで、政党交付金を槍玉に挙げ始めている。
選挙におカネがかかり過ぎるという意味では大衆受けする主張だが、恐ろしいのは、メディアへの露出度の高い人は知名度が高いから、お金をかけて選挙運動をしなくても当選できる確率は一層高くなる。
ある人物をテレビに出すか出さないかは、テレビ局が決めるのだ。かつて韓国の芸能界で、女性タレントに顧客の性的接待を強要し自殺に追い込んだ事件が話題になった(韓国版ドラマ「花より男子」の出演女優のチャン・ジャヨンさんが自殺、直筆の遺書には「夜の関係を強要された」「殴られた」などたくさんの経験が書かれていた事件。「有名になりたい」、「テレビに出演したい」というタレントの弱みに芸能事務所が付け込んだ事件というのが真相のようであるが)。「有名になりたい」というタレントと、「知名度を上げて当選を目指したい」という候補者の願望とは同じだ。
だとすれば、その願望に応える、あるいは付け込んで?メディアの意思が最優先されて候補者が決定されていく時代が来ないともいえない。
そこまで考えて「政党交付金」の廃止を主張しているのであれば、まさにメディアの長期的情報操作ともいえる(もっとも、政党交付金がある現在でもテレビ出演者を決める権限を有しているが)。立候補したい人は、なんとかテレビに出演できないかを最優先に考え、テレビ担当者に媚を売るようになりはしないか。現に、少しでも名前を売りたい、政策を訴えたいとテレビのバラエティ番組に出演し、司会者からはもちろんのこと、勉強不足の芸人にいいように弄(もてあそ)ばれる議員の姿は、結局は、自らを議員の崇高な理念も志も見えない立場に貶めている。だから、どっちもどっちだと卑下されるのである。
言い換えれば、今メディアは、テレビで取り上げる出演者の選定を通じて、立法権を持つ議員さえもコントロールできる力をもっている。明らかに第四の権力が第一の権力をコントロールできる一面を持と始めたといっても過言ではない。メディアは今や怖いもの無しかもしれない。それを黙認していると、メディアの思い通りの世論一色に染まってしまう。
そんなメディアに自浄能力を期待することはできない。なぜなら、自称ジャーナリストには一面では私たちが評価する信念をもっているからである。読売新聞の編集手帳氏は、丸山孝男氏の「アメリカの大統領はなぜジョークを言うのか」(大修館書店)を引用してこういう。
【メディアについて不満を述べる政治家は、海について不満を述べる船長のようなものだ。】(2012年2月25日)。
「政治家はメディアの恩恵を受けているのだから、メディアに非難されても(メディアの恩恵を受けているのだから)メディアを非難してはならない」と警告しているように、メディアは自らの主張を絶対的に正しいと信じて、自らが誤っているとは思わない。それを前述した「社会の木鐸」と信じているようにも思える。
同時に、私たちは自分の知らない出来事をニュースで知り、ものごとの真相を追究してくれるメディアの存在なくして日常生活を送れない現実がある。国民にとって必要不可欠なメディアだからこそ、多くの関係する会社と記者の良心に期待しているのである。
とくに、電波を利用するテレビなどと違って、新聞、雑誌などには規制はなく、中立的報道が義務付けられているわけでもない。よく「我が紙は不偏不党の立場」などというが、こうした態度も法で規制されたものではなく、あくまでも「中立なら読む」という読者の心理に応えるためのスローガンである。
したがって、新聞・週刊誌・雑誌は各社・各記者の考え方をストレートに表現しても許されているから、特定の目的をもって偏向報道しながら、「我が紙は中立・不偏不党」と読者を欺瞞しても法に触れることはない。
労働組合は、組合員がメディアの本質を理解し、何が真実で何が意図的な報道なのかを見分ける力を持つための活動に取り組まなければならない。元来ニュースというのは、ありふれた大きなリスクより珍しい小さなリスクに価値を見出す。「犬が人を噛んでもニュースにはならないが、人が犬を噛んだらニュースになる」という、ジャーナリストの格言の通りなのである。
【僕の観察によると、年間の死亡者数がゼロから数十人の死因はメディアでセンセーショナルに報道され、数十人から数百人になると、社会問題になり、数千人から数万人以上が死亡すると、それは珍しくもなく誰もが話題にしなくなる(おそらく著者の意見は、日常的に繰り返されている自動車事故死や排気ガスの影響、喫煙によるといわれる肺癌の死者数などが増大していることを問題にしない現状を指摘しているようであるが)。メディアにとって価値あるリスクと、実際の僕たちの生活における本当に差し迫ったリスクは、まったく違うものとして日々生活しなければならない。メディアの商売にとっての重要なリスクと、個人の安全にとってのリスクはまったく別物であることを肝に銘じていよう】(新潮新書・藤沢数希「反原発の不都合な真実」)。
さまざまな情報が錯綜する現代社会の中で、何が正しく何が間違っているのか、目的をもって意図的に流されている情報はどれなのか、を見分けなければ、自分も誤った考え方をもってしまう。そうしたメディアの本質を明らかにし、それらを見分けるための労働組合の活動といっても、組合自身が社会から評価されていなければならない。
社会から評価されている組合が主張するからこそ、国民が聞く耳を持ってくれるのであり、反対に、社会的に評価されていない組合の主張は、国民に一顧だにされない。
私たちは、リーダーとして自らの襟を正しつつ、今の組合活動が社会からどのように評価されているのか、メンバーズ・クラブとして既得権擁護のみに堕していないか、社会全体のために活動しているのか絶えず検証していかなければならない。



