人間社会では、世の中が変化していく際には、それが改革にしろ進歩にしろ必ず代償を払う。夏は涼しく冬は暖かい電化製品は、使い方によっては「冷え性」やその他の「肉体的代償」を払うことで恩恵を享受している。自動車は、より早く、より疲れずに場所の移動を簡単にしてくれるし荷物も運んでくれる。実に便利で快適な乗り物であるが、自動車によって、肉体的には足腰を弱くしてしまう代償を払う。大気中には大量の二酸化炭素を排出し、大気汚染を通じて呼吸器官への健康被害をもたらしている。年間に大気汚染による被害者が大量に出ても、自動車がもっている利便性や経済活動に対する貢献から廃止するわけにはいかない。だから各社とも努力して、排気ガスの減少に効果的な技術革新による改良(ハイブリッド車)を行うのである。画期的といわれる電気自動車も、それ自体では排気ガスを出さなくても、蓄電したり使用する電力が火力発電によって発電されたものであれば、そちらで大量の二酸化炭素を排出しているから、大気汚染の防止にはそのまま効果があるとはいえない。飛行機も同様に、自動車よりも大量に大気汚染物質を出しているがなくすことはできない。自動車と同様、各国の経済や国民生活に欠かせない役割を持っているからである。ごく当たり前のことである。
つまり世界のエネルギーは、副作用としての危険性をもちながらも、エネルギーが果たしている国民生活の安定、あるいは経済や生活への利便性・効率性の貢献などとの微妙なバランスの上に成り立っているのである。だから「命」か「経済」か、というように、誰もが当たり前に一番大事に思っている「命」の対極に経済をおいて、「どちらか選べ」という選択をするような問題ではないのである。
原子力発電をめぐって国論は二分されているといわれるが、原子力発電の比率に対して、多くの国民はゼロを望んでいるとされる。ゼロにしても何の代償も払わずにすむなら、誰もがゼロを選択するかも知れない。ところがゼロにすることによる代償が深刻で大きな問題をはらんでいることが徐々にわかり始めた。今までも一部の識者から指摘されていたことなのだが、「黙して語らず」の世界に封印されていた事実が表に出てきたのである。
人間は、不快な現象があれば、早くそれをなくしたいと思うし、そのための代償などは考えないのが一般的である。だから「原子力発電所はないほうがよいか」と聞かれれば、当然イエスと答える。その方が「安心」という人間の感情に沿うからである。一方、よく言われる「安全」の分野は理性や科学の世界で、感情という心情的主観よりも、より客観性を持っているものの「安心」とイコールではない。人間は、理性よりも情動で判断するほうが多い動物である。ましてや目の前に見える具体的な現象と、選択した道の将来のリスクとを比較しても、将来は見えないゆえに、眼に見える現状の判断を優先させることは当然なのである。だから科学的に「安全」といっても、「安心」という感情までを克服することはできない。現に【ポリオワクチンの予防接種で、「100万回に1.4回の確立」で間違いが起こるといわれ、「感染は天文学的な確率」と分かっていても、親として心配なものは心配】(2011年10月21日・読売新聞朝刊「書く 思う」)という感情は一般的なのである。
自分を含めて多くの人がそうであるように、人は目先の不快な現象を失くすことだけを求め、そうなったらどんなに大きな代償を払うかを考えなかったり、その結果を気にしないことが多い。原子力発電をやめることによる「安心」のメリットはわかりやすいが、それによって電気料金の値上げや経済成長の低下による失業が起こるのは先のことなので、因果関係がよくわからなくなってしまう。
電力が足りなくなったら「電力会社が悪い」「政府が悪い」。雇用の場がなくなり失業者が増大したら「企業が悪い」「政府が悪い」と言っていればいい。このように短期的なメリットがわかりやすく、長期的なデメリットがわかりにくい時、目先のメリットだけ追求して後者の結果に責任を負わず、他人、あるいは政府の責任にして、その責任の追及だけをする態度は、私たち一般の国民にも生まれやすい。何事も自分は正しく他人や政府の責任にすることができれば楽だからである。
政府の政策によれば、再生可能エネルギーの能力の拡大を図らなければならないが、「これは日本の高度成長期に匹敵する設備拡大を20年間続けること必要があり、現実的でない」(日本商工会議所)との批判は無視される。一般に日本では、「会社と従業員」の利害関係について、どちらといえば「会社」の方を冷たくみて、「従業員」の側に同情が集まりやすい。私などもそうだが、こうした考え方は「会社」が利益を追求する組織体であるのに対し、「従業員は自分と同じ人間」だから心情を理解しやすいことから生まれる。メディアを通じて企業の不祥事が大きく取り上げられることが多い中で、経済団体の発言を「眉にツバつけて」聞いたり、「聞き流す」、あるいは「信用しない」という習い性をもってしまったのかもしれない(j.union「語り継ぐもの」(44)号2011年7月15日)。
しかし、高い電力料金により、日本は今まで以上に高コスト体質国になり、企業の国際競争力を著しく削ぎ、結果として企業が海外に逃避し、国内に雇用の場を大きく失わせ、失業者の増加をもたらす恐れが大きくなることは分かる。それは私たちが日常的に、職場の仕事を通じて目にしてきているからである。日常生活で手にしているものの中に、いかに「メイドイン・チャイナ」「メイドイン・タイランド」「メイドイン…etc」が多いことか。海外進出すれば、その企業は存続できても日本国内の雇用には貢献していない。日本経済は、従業員を多く雇用する強い製造業の輸出によって得られた富をもって資源を購入し、輸出によって得た富を、国内に還流させて産業や企業を成り立たせ、他の産業の雇用の場を作っているのである。国民の大半はこうして生活が維持されているのである。生活が維持されているから文化も、芸術も、音楽も、芸能も、サービス産業も、ITによる通販も成り立っているのだ。生活できなければ、だれもCDを買わないし、歌謡ショーどころではない。ましてやサービス業関連は無縁な存在と化してしまう。
企業が海外進出する理由となる電気代などのコストの増加は、それ自体のみが海外進出の決定的な要因になるわけではない。円高など他にもいろいろの要因がある。しかし、高コストがジワジワと企業をむしばみ、国際競争力を弱体化させていくことは誰にでも分かる。他の要因を含めて国際競争力を失った企業は、国内での活動では活路が見いだせず、事業の縮小(あるいは倒産)の憂き目にあうか、海外に出るかしか道はない。どちらにしろ国内での雇用にはマイナスの影響を与える。国民の働く場所がなくなっていくのである。結果責任を考えるのであれば、経済団体の主張にも「聞く耳」をもたなければならない。「日本の産業構造は変化し昔とは違っている」。「製造業が苦しんでも、新たに生まれた産業でその穴を埋めればいい」という主張も散見される。そうした産業が「海外に投資して、外国から利益を稼げばいい」という主張もある。たしかに、外国からエネルギーを買うだけでいいなら許される意見かもしれないが、国内の産業が弱体化して経済力を衰えさせたかつてのイギリスの植民地政策もそうであったし、アメリカも同様に国内の製造業を弱体化させ、それが今日のアメリカ経済を苦境に追い込んでいる教訓を忘れてはならない。海外で稼ぐ産業・企業は、海外の雇用労働者を増やして企業を存続させるだけで、日本国内でどれだけ日本人の労働者を雇えるのかという雇用吸収力の違いを無視している。国内で人手を必要としなかったり、低い労働条件の産業がいくら繁栄しても、あるいは、海外進出した企業が存続しても、国内で日本人が安心して働ける場所がなくなっては意味がないのである。組合員の雇用に責任を持つ労働組合であれば、雇用を失う危険のある動きに警鐘を鳴らす時が来ている。
今の自分と、将来のリスク。私自身も年金や医療の恩恵を受けているが、自分の当面の利害だけを考えるのであれば、将来の雇用不安などを心配しないで、若者が就職難や社会保障などの負担増によってどんなに苦しもうが、「将来のことは知ったことではない」と片付けてしまえば簡単だ。「自分さえよければいい」という風潮を、容認したり同調したりすることがいいのか、自らの反省を含めて冷静に考えなければならない時期に来ている気がする。
ましてや、雇用の心配などしなくて済む人々が、「たかが電気ごとき」と主張する様は、まさに「他人のことなど知ったことではない」「将来のリスクは知ったことではない」と言うに等しいのである。
(本号では、原子力発電ゼロが及ぼす「雇用面への影響」(4の1)に焦点を当てたが、将来のリスクとしては、このほかにも、「火力発電による地球温暖化の加速」(4の2)、「化石燃料費の高騰による貿易収支の悪化と日本経済への影響」(4の2)、「自然再生エネルギーの問題点」(4の3)、「放射線問題と風評被害」(4の4)などがあるので、機会を見ながら順次掲載していく予定にしている。また、最近耳にする「海外投資からの利益による新しい経済構造」がもたらす国内雇用への不安、春闘への影響などについては、次号(61)号で記す予定である)