ユートピアという言葉はもともと1516年にイギリスの思想家トマス・モアの小説「ユートピア」に登場する架空の国の名前である。語源はギリシャ語の「無い」と「場所」という単語を組合わせたもの(「無い場所」)だが、小説の中では「良い」という接頭語をつけて「良い場所であるがどこにも無い場所」という意味にしているそうだ。現実の生活に苦しむ市民にとっては、現実の不満や不安、悩みから逃がれる地として夢見る憧れの社会であった。共産主義者のマルクスからは「空想的」と非難されたが、ユートピア社会は、「財産を私有せず、金(きん・カネ)を軽蔑し、勤労の義務を負い、必要なものは共同して管理している倉庫の物を使う社会」を目標としており、その限りにおいては共産主義思想がいう理想像(「全員平等」という「現実には在りえ無い場所」)とも重なる一面を持っている。
ユートピア社会は数々の物語に登場しているが、有名なものを拾うだけでも、ギリシャ神話によると今のエチオピアを指すらしいが、南の果てのアイティオピアの地が緑豊かであった時代に呼んでいたそうで、地名がユートピアの語源だという説もある。旧約聖書では「エデンの園」、プラトンが著したものでは「アトランティス」、日本に関するものではマルコ・ポーロが伝えた「ジパング」、中国では桃源郷としてチベットの麓の「シャングリラ」が有名である。シャングリラの地は日本のテレビ番組でよく登場し、現地住民の生活は良く知られるようになった。中国は2001年に雲南省にあるこの地を「シャングリラ県」と名前まで変更している。ちなみにシャングリラの地名は、これも1993年にイギリスの作家ジェームズ・ヒルトンが著した「失われた地平線」の中で、住民が齢をとらない理想の地域としたものである。また、ユートピアは童話の世界でも多く存在する。「竜宮城」もそうだし、宮沢賢治の「イーハトーブ」、また「オズの魔法使い」に出てくる「オズ」の国もそうだし、ピーターパンでは子どもが年をとらないという「ネバーランド」がある。
ユートピアや桃源郷に人々が憧れるのは、現実に対するさまざまな不満や不安から出発する。不満や不安から現実に存在もしない、あるいは「出来もしない」社会を本能的に憧れるからである。19世紀の産業革命による社会の混乱期にも、現状への不満から共産主義の思想が支持を広げた。だから現実の社会や生活に不満や悩みを感じなければ、ユートピアも共産主義のいずれも話題にもならなくなる。
今、日本社会に渦巻く政治的混乱から、人々がともすればこのユートピア的な政策を選択する危機が訪れていると警告されている。その意は、「苦労しないですむ」ために、「望んでいない」ことを避けるために、「感情の赴くままに生きたい」ために、「どこにも無い場所」を望もうとしてるいるからという。【「消費税の引上げに反対」すれば、その結果、増え続ける年金、介護、医療などの社会保障の費用を賄うことはできないし、挙句に国の莫大な借金を減らすめどさえ立たなくなる。「反原発」によって電力供給が中・長期的に脅かされ、ますます高くなる電力料金と相俟って企業の海外移転を加速させ、国内の雇用が悪化すると同時に、火力発電に使用する燃料代は高騰し、年間3兆円も海外に流出させている(同時に地球温暖化を積極的におし進めている)。「TPP交渉に参加」しなければ、グローバル経済の中で欧米や韓国に対し決定的に立ち遅れ、他国との経済力の差はより広がってしまう。その結果、(税金の安いユートピア日本は)年金も医療も介護などの社会保障は期待できない社会になる。(原発の無いユートピア日本は)働き場所のない失業者が蔓延する社会を覚悟しなければならない。(TPP交渉に参加しないユートピア日本は)これもまた国際競争力を失い、雇用不安や生活水準を切り下げなければならない社会になってしまう。社会はある意味で「不都合」なことが多い。その不都合を避けると、ギリシャやスペインを上回る財政破綻によって、もっと大きな増税を余儀なくされ、経済が成り立たない大不況を招きかねない。「不都合」なことを「克服する努力」もしないで、ひたすらユートピアを目指した国民は、弱者にこそ居場所の無い社会、まさしく「よい場所であるがどこにも無い場所」をさまようことになる。】(2013年1月5日「読売新聞」斉藤孝光経済部・長署名記事の要約)
政治家が主張する耳に心地よい政策は、「どこにも無い場所」を訴えているに過ぎない。かつて敗戦直後からしばらくの間、社会党は「非武装中立」の理想を掲げて一時期国民の多くの支持を得た。どこの国にも軍隊が無く、話合いで物ごとが解決できれば素晴らしい世界が訪れる。しかし、竹島や尖閣諸島の領土紛争を見るまでもなく、現実の国際社会は「非武装中立」であれば紛争が起きないわけではない。それが厳然たる現実なのである。理想は理想としてあったにしても、現実の政策はまた別でなければならない。「非武装中立」という「どこにも無い場所」(ありえない政策)を、理想に止めずに現実の外交政策に適用させようとしたために、国民に現実にそぐわない政党と見抜かれ衰退の道を歩むことになったのである。
原子力発電所を廃止して、何も支障が無ければ「反原発」でもよいし、年金も医療も介護も必要が無ければ「増税反対」でも良い。失業してもよければ、あるいは生活が困窮してもよければ「TPP反対」でもいいのである。しかし、働く場所が必要であれば「不安があっても原発を容認し、TPP交渉にも参加」しなければならないし、年金も貰い、安く医者にかかれ、安心して介護を受けられ、かつ国の財政破綻を避けたかったら、ある程度の「増税を容認」しなければならない。何の責任も、義務も、負担も負わずにいられたら楽な人生に違いない。それは「ユートピア」とは似ても似つかない社会であるが、「この世に存在しない社会」という意味では同じかもしれない。「現実に在りもしない社会」を望んだことによって、失望感だけが生まれてしまう。そして、「在りもしない」「出来もしない」幻想に惑わされ、現実を前に失望し、その失望の大きさが、さらなる現状への不満や不安を増幅し、再び「ユートピア」を夢に見て同じことを繰り返す愚。たしかに世の中には自分が望んでいない「不都合」な現実がなんと多いことかとも思えるが・・・。
世の不都合なことから眼をそらせ、あるいは避けることで、ただただ現状よりも、「楽」で、「努力せずに済む」ことを望み、自らが「自律も自戒もせずに済む」自分で居たいために望むユートピアと思われる社会などはどこにも存在しない。それがこの世に「どこにも無い社会」であることを肝に銘じ、結果として失望に苛まれ、不満や不安を増幅させる愚を冒さないために、労働組合こそがその幻想を打ち消し、不都合なことを怯まずに克服し、よりましな社会を作るための使命を果たせるというのは、期待が過剰なのだろうか。



