北朝鮮レベルに日本を貶める憲法改正論
~「国民は考える力を持っていない」と錯覚?~
戦争や紛争は不条理(道理に合わない)に起こされるが、それに翻弄される人々について考えるとき、よく引用されるのはロシアの文豪トルストイの「戦争と平和」である。
19世紀前半のナポレオンのロシア遠征を描いた「戦争と平和」は、登場人物が500人を超える群像小説ということもあるが、戦争によって引き起こされる人々の運命の変遷こそが主題であるように思える。
人類が地球上に誕生し社会を構成して以来、当初は集団と集団、後には国と国との戦争は止むことを知らない。しかも、戦争が終結して平和の象徴になるべき「条約」が成立しても、その条約は長く持たずにどちらかが破棄して紛争が再燃する。今日まで、世界の各国間で締結された条約は多いが、同時に、途中で一方的に破棄された条約もなんと多いことか。
歴史を紐解くまでもなく、戦争が起こった時に、自分の国の方が悪いなどと主張する国は存在しない。当事国はすべて「自国が正しい」と主張して、戦争を正当化させる。歴史的にも戦争は相手国に対する傲慢、脅威、恐怖、不信などの連鎖から起るのは明らかだ。自国だけなら脅威や恐怖、不信は取り除けそうだが、相手国のことは分からないから、「そう思いたい」が「思えない」のだ。この心理がある限り、戦争はなくならないのだろうか。こうして戦争は「憎悪」の連鎖、「恐怖」の連鎖、「不信」の連鎖によって拡大していくものである。「相手国のやり方に憎しみが煮えたぎる」。「自国が正直に対応しても相手国がどう出てくるのか分からない」。「相手国は信用できない」。片方の国だけでなく双方の国それぞれからこうした判断や主張が繰り返される。
さて、2013年3月から4月にかけて北朝鮮による挑発行為が繰り返された。4月15日にはアメリカから話し合いの呼びかけがされたが、北朝鮮は16日にこれを拒否、その理由として挙げているのが「話し合いの前提として『非核化』を条件に付けるのであれば応じられない」というものである。もしアメリカと話し合いをするなら、アメリカが核を保有しているのだから、自分の国も「核武装」していなければ対等の話し合いはできないという論理だ。
翻って、我が国で積極的に憲法第9条の戦争放棄の改憲を主張している、自民党や「維新の会」の言い分を聞いてみると、次の発言に集約されていると言ってもいいだろう(詳細は「語り継ぐもの」(65号)参照)。
【「維新の会」の石原慎太郎共同代表は総選挙目前の2012年12月12日、福岡市内での街頭演説で拉致問題にかこつけて、「憲法9条があるから、私たちは多くの同胞が(北朝鮮に)さらわれ、殺されても抗議して取り返すことができない」。「北朝鮮にすれば、日本の憲法を見たら『あいつら絶対に戦争しない』と思っている」「(戦争しないことを)世界に約束しているから、(北朝鮮は)勝手気ままに日本人を連れて行って殺されている」と熱く憲法「改正」の必要性を語った。9条があるから拉致されても取り返すことができない、と述べるということは、北朝鮮と戦争して拉致被害者の方々を取り返すということである。
これに呼応して、「維新の会」幹事長の松井一郎大阪府知事は同日、記者団に「まず憲法96条を変えないと、9条は変えられない」と説明している。
安倍自民党と「維新の会」が双子の兄弟のように親和性があるといわれる所以(ゆえん)だが、両党とも第9条の戦争放棄を改正したいために、まず第96条を改正して、次の段階で本命の第9条を改正しようと姑息な手法を用いている】という指摘は正鵠を得ている。
双方の主張を比べてみよう。
■北朝鮮の主張「アメリカと対等な話合いをするためには、自国も核武装していなければならない(だから核武装するのだ)」。
■自民党と維新の会の主張「憲法第9条で『戦争放棄』しているから(戦争できないから)拉致される」「日本が戦争する体制を作っていたら、拉致被害は起きなかった」。
■2013年12日のNHK番組で「過去の植民地支配と侵略」を謝罪した1995年の「村山首相の談話」について話題が及ぶと、「当時(日本が)資源封鎖された中で全く抵抗せずに植民地となる道を選ぶのがベストだったのか」と批判(自民党・高市政調会長)
三つの主張を見比べれば、双方の主張がまさに同じ発想に立っていることがわかる。「北朝鮮の理不尽な主張と行動」と「自民党や『維新の会』の憲法改正論者の主張と行動」は、根っこの部分で同じなのである。
お互いが相手と同じ「戦争をする意思」と「戦力」をもっていなければ対等
にはならないという主張だ。北朝鮮は、「アメリカと同じ核を保有しなければ対等な話し合いはできない」。日本の憲法改正論者は、「日本に戦争をやる意思があれば拉致は起きなかった」。「過去日本が戦争を始めたのは資源封鎖されていたからだ」(現在、各国から経済制裁や資源封鎖されている北朝鮮が、追い詰められて核実験を強行したり戦争を挑発するのはいいというのと同じである)。
そして、どの国の国民も、自国の利益を護るというナショナリズム・民族意識は強く持っているし、権力者のそうした主張には抵抗は少なく同調しやすいものである。日本人なら誰ひとりとして、北朝鮮の拉致を擁護することはない。しかし、過去で言えばヒトラーのナチ・ドイツや、現在では北朝鮮を見るまでもなく、全体主義・独裁国家では、権力者という者は、国民が等しく持っているナショナリズム・民族主義を感情的に煽り立てることができれば思いのままの政策を実行できる。その意味で、権力者が一番困るのは国民が冷静な判断力を持ってしまうことである。ドイツの国民は、ヒトラーの「ドイツ人は優秀民族、劣等民族は根絶せよ」の主張に熱狂し、圧倒的な支持を与えて、あのユダヤ人の大量虐殺に手を染めてしまうのである。北朝鮮では情報をコントロールして「国民に真実を知らせない、あるいは考える力を持たせない」ことで権力の思いのままの政策を遂行していく。
北朝鮮のような独裁国家でも、民主主義が定着している日本でも、権力者が思いのままの政策を実行していくには、国民が持っているナショナリズムをくすぐるか、あるいは国民に考える力を持たせないようにすることが一番効果的なのである。
過去も現在も、戦争はこうした理不尽で感情的・偏狭的なナショナリズムによって引き起こされていくのである。理論的に言えば、日本の改憲論者は、自分たちが非難する相手と同じ過ちを犯しているのだから、同じ発想に立っている北朝鮮を非難する資格はないと言えるのである。
民主主義という制度は、自分の考えを他人に理解してもらう手続きともいえる。そのために日本の憲法は普通の法律とは違って「改正しよう」という発議の要件を厳格に定めている。衆・参各院で3分の2の賛成がなければ発議すらできない(第96条)。「それは厳しすぎる」。「3分の1の少数の議員が反対したら発議もできないのはおかしい」と主張する。これを逆から見ると、ちょくちょくと変えない方がいい憲法を「3分の1もの議員が反対しているのに無理にでも改正したほうがいい」という論法だ。憲法を改正したいとする意思は自由にもてばいいのである。かくいう私自身も、北朝鮮の核保有論、韓国の竹島問題、中国の尖閣諸島問題などを考えれば、それらの一方的な主張に対抗するためには、感情的には日本も軍備を保持し、「戦争も辞さず」との思いが瞬間的にでも脳裏をかすめることがないと言えば嘘になる。それが日本人としてのナショナリズムなのだと思う。しかし、「ちょっと待てよ」と感情を抑えて冷静さを取り戻す。「この考え方こそ、北朝鮮の考え方と一緒なのではないか」。そして「発議の要件が厳しいから、簡単に発議できるようにしろ」とは民主主義に反するのではないか。自分の考えに賛成してくれるように粘り強く説明を繰り返し、一人でも多くの賛同者を増やしていく。それが民主主義なのだと思うがどうだろうか。
私たちは改めて思う。物事を一時的な偏狭なナショナリズムの感情に支配されれば、権力者の思い通りになってしまう危険がある。このような時こそ、権力者が最も嫌う「冷静に考えて判断する国民」にならなければならない。



