国内には一度自分の会社で採用した以上、従業員の雇用に手をつけるのは最後の最後であるとして雇用を守ろうとしている企業経営者も多い。しかし、近年の経済環境を理由にして、あるいは最も手っ取り早い業績向上の道は人件費の削減とばかり、従業員の雇用に責任のかけらも持たない経営者も多くなった。
若年労働者の高い失業率を反映して大量採用・大量退職を繰り返し、「従業員を使い捨て」するブラック企業も話題になっている(「語り継ぐもの」(特別版3の1参照)。
産業の盛衰は国の経済にとって避け難い現象なのだが、衰退産業に位置づけられた企業にとっては死活問題だから、現実を認めるのにはかなりの勇気が必要になる。それは従業員で構成する労働組合にとっても同じである。時代の変化を認めれば自分たちの職場を失い、組合員の雇用が守れないからである。その結論がどうなるにしても、結論が出るまでには限りない労使の話し合いがもたれる。労使の話し合いをわずらわしいと考える経営者にとっては、もっと簡単に解雇できる制度が望ましい。
長い日本経済の低迷を脱するためには、衰退産業から成長産業への労働者の移動が必要だ、という論理もそれなりに説得力を持つ。問題は、どこが衰退産業で何が成長産業なのか、それは誰が決めるのか、ということになる。もちろん市場が決めるという答えが返ってくるのは分かり切っているが、往々にしてこの「市場が決める」と答える経営者には、自らの経営手腕がないことの言い訳に使う者も多い。だから、産業の盛衰があるからといって、国内の産業や企業のすべてを一律に対象とする「解雇しやすい制度」は、労働力の移動を推進する目的ばかりとはいえない。
業績向上や業績回復をはかろうとする経営者にとって、部下である従業員の扱いを自由にできることが、最も簡単な経営施策だ。業績向上のための経営施策に思い悩み苦労しないで済むし、自分の経営手腕の能力は問われないからだ。
参議院選挙前に明らかにすれば選挙にマイナスになるからと、詳細な方針を示さなかった安倍政権が、選挙での大勝を受けていよいよ本格的に労働行政の変更に着手することになる(2013年10月に召集される臨時国会に「産業競争力強化法案」として提出されると思われる)。
話は6年前にさかのぼる。第一次安倍晋三内閣が発足した2007年5月のことだ。首相の意を受けて労働規制の緩和を図っていた規制改革会議の労働タスクフォースから「脱格差と活力をもたらす労働市場へ」という方針が示された。
その内容たるや信じられないもので、多くの識者から疑問や非難の声が上がった。その一部を、2013年3月13日の「東洋経済オンライン」から紹介してみよう(【】内)。
【「一部に残存する神話のように、労働者の権利を強めれば、その労働者の保護が図られるという考え方は間違っている」という前提をおいて、最低賃金の引き上げ、女性労働者の権利強化、正社員の解雇規制、労働時間の上限規制、労働者派遣法の直接雇用申し入れ義務などをことごとく否定していた。
さらに、厚生労働省、労働法・労働経済研究者に対しては、「ごく初歩の公共政策に関する原理すら理解しない議論を開陳する向きも多い」と非難。急務の課題として、解雇権濫用法理の緩和、解雇の金銭解決の試行導入、労働者派遣の完全自由化、労働政策立案を公益側、労働側、使用者側の3者で構成される労働政策審議会を廃止して、「フェアな政策決定機関」を創設するよう】求めていた。
この文書を作成した委員の一人は、当時こう語っている。
【たとえば最低賃金制度が効率性をゆがめる影響はあるに決まっている。影響はあるのだから制度は不要であり、世界中で導入されているのだとしたら、それは世界中が間違っている。日本だけは正すべきだ】。
【解雇規制を緩和した上、労働者派遣を完全自由化したら「どん底への競争」になる」との主張に対しては、「それで何が悪いのか。路頭に迷うのと、せめて派遣で働けるのと、どっちがいいのですか」。「市場の失敗がない以上は労働行政の役割はほとんどいらない」】
2007年末に発表されたこの第二次答申は、安倍首相辞任の後を継いだ福田内閣が発足すると、さすがに自民党内からも「規制改革会議にいる学者は本当に現実が分かっているのか」との強い批判が出て正式な法案になることはなかった。
2012年に再度登場した安倍首相は、2007年の答申案の趣旨を生かす「労働関係の規制改革」に意欲をもち、規制改革会議をスタートさせた。政府の方針を作る際には、民間識者の会議を設けて答申を得て決めるから、当然のように委員に誰を就任させるかによって結論はほぼ決まってくる。「解雇を自由にできる」ようにしたいと考える委員を選べば、結論はおのずからはっきりする。つまり、どのような考え方をもっている委員を選べばいいのかに尽きる。その場合、可能な限り公平・公正な答申を求めたければ、人選にも反映されなければならない道理になる。利害当事者が委員になると利害が衝突して結論がまとまりにくくなる。労働行政でいえば、労使の代表が入った場合だ。ところが、安倍政権の委員選任には、一方の当事者である経営者の代表が何人も入っているのに、労働側の委員は一人もいない。このような不公平・不公正な人選が行われた委員会では、労働者である国民の意向は反映されないし、一部の経営側の意向に沿った答申が作られるのは当たり前である。答申案自体に最初から公平性や公正性が疑われるのはこうした理由による。
学者などの民間識者が立派で適切な案をまとめたと思っても、一方的な委員の選任によって初めから汚れた案として登場することになってしまうのだ。さらに、前述した委員の発言で明らかなように、労働者を人としてではなく、設備や材料などと同じ生産要素としか見ないという決定的な過ちを犯しているのである。従業員は材料や設備とは違う人間なのである。人間である以上、生きていくために最低限の生活が営めなければならない。だから経営者に従業員の最低限の生活を保障するよう定めたのが「最低賃金」なのである。この「最低賃金」さえも「効率性をゆがめる」と否定する経営者や学者の意思を反映させようとする「アベノミクス」とは、いったい、どのような労働環境を作ろうとしているのだろうか。
1688年のイギリスにおける市民革命によって打ち立てられた三原則(①契約自由の原則、②財産権の尊重、③過失責任の原則)によって、近代資本主義社会が誕生、次の世紀に勃興した産業革命(1700年代)によって大量の労働者が発生する。街に失業者があふれる社会情勢を背景に、経営者は過酷な労働条件・労働環境を強いて多くの国民に犠牲を払わせた。女性はもとより「いたいけな児童」の深夜・徹夜労働も当たり前に行われた。こうした状況に対し、労働組合と国民世論は経営者の一方的な暴挙を非難し、議会において、例えば、女性・児童の深夜労働の禁止など、経営者の行き過ぎた行為を禁止する法律を成立させていく。この禁止行為の集大成、労働条件の最低保障などが今日の労働法の原型になるのだが、そうした歴史を積み重ねて出来上がった労働法に対して、それが労働力の移動を妨げると解釈したり、経営者の思いのままの人事ができないから、もっと使いやすい制度にしようと考えるのは本末転倒なのである。その時々の社会において、労働者や世論から非難されるような行為をするから法律で禁止したのである。あり得ないことだが「もし労働者や世論も容認できる経営者の労務管理」を行っていれば、労働法で経営者を縛る必要もおきてこない。経営者が不自由と非難する今の労働法こそが、過去に経営者が理不尽な暴挙を繰り返したがゆえに制定されたのであり、逆説的に言えば労働者や世論が支持する経営施策を行っていれば労働法は不必要だったのである。派遣法の改正も、2008~2009年に話題になった「派遣村」のように、人間を使い捨てのように扱ったから改正されたのである。そのようなことが起きなければ派遣法の改正も必要なかったのである。
労働法の改正に当たっては、労使ともまずはこの歴史をしっかりと認識した上で、今日の経済環境にふさわしいあり方を模索しなければならない。(5の1了)



