家庭にテレビが普及し始めるきっかけは、現在の天皇陛下が皇太子時代の御成婚である。時折、テレビ番組で当時の映像が放映されてわかるように、式典を終えた皇太子殿下と美智子妃殿下が馬車から沿道の人々に会釈を返すさまは、白黒テレビであっても見る人を清々しい気持ちにさせたものである。
そして後の東京オリンピックでカラーテレビがブームになり、冷蔵庫、洗濯機と並んで「三種の神器」と呼ばれ、日本の高度成長を支える象徴となった。
当時を思い起こせば、やっと購入したテレビで放映されるアメリカのホームドラマを見て、そこに映し出されるアメリカ市民の家庭生活に驚いたものだ。大きな冷蔵庫、便利この上ない洗濯機、ハタキや箒に代わって見る間にきれいにするクリーナー。自分たちもあんな物を持ちたい、そんな生活ができたらきっと幸せに違いない。多くの人がそう思って懸命に働いてきた。そして今、まがりなりにもどの家庭でも三種の神器がそろっている。やっと目的を果たせたものの、ふと考えてしまう。「これが夢見てきた幸せなのか」、
望んでいたものの多くがそろってみたものの、何かが足りないのだ。この物足りない気持ちは何なのか。人々は立ち止まりながら、足りない何かを探しているのだ。
人間生活とは面白いもので、「モノの豊かさ」を得る代わりに代償を払う宿命を持っているようだ。快適な生活や快楽を得ることで、代償を払っているのだ。歩くより楽な車に乗るほど足が弱くなる。はるか昔、何年にも及ぶ座禅によって足が固まってしまった達磨大師ほどではないにしても、確実に足が弱くなっているのは誰もがわかっている。快適な夏にしてくれるクーラーは冷え性を、魚の骨を通して吸収してきたカルシュウムの補給が減少すれば、骨粗鬆病になる。「飲む、舐める、啜る」という楽な食べ物の摂取方法は、子供たちの健康を確実に蝕みつつある。
豊かさの代償は肉体的なものだけではない。精神的代償もあるのだ。私は男ばかり五人兄弟の真ん中である。貧しい生活では、お客さんが持ってきたお土産の配り方にも、工夫が必要になる。一つであれば、「今日は長男から」あるいは「末っ子から」となり、「真ん中から」だったという記憶はない。
あるいは五等分にして分ける。この繰り返しを通じて「我慢」することや「みんなで分ける」こと、そして「思いやる」ことを覚えさせられていく。
また、子供ながら一計を案じてデパートでの買い物でこんなこともした。
欲しい玩具を買ってもらいたいがために、売り場で寝転んで大きな声で泣き叫ぶ。親が「みっともない」と感じて仕方なく買ってくれるだろうとの読みだ。ところが、わが母親は叱るだけで一向に買ってくれない。怒りながら泣き止むのを気長に待つのである。やがて私も疲れて大声を出せなくなってしまう。母親は意地悪をしているわけでもないし、教育のためにしているわけでもない。買うお金が無いのだ。
こうして、子供の浅知恵では太刀打ちできない現実を知る。いくら泣き叫んでも思い通りにならないことを学んだのである。
当時より豊かになった今であればどうだろうか。同じような状況になったら、世の親の多くは「みっともない、他の人に迷惑だから」と買い与えて黙らせてしまうに違いない。
かくして子供たちは「こうすれば親は言うことを聞いてくれる」と覚え、我慢することを知らずに育っていく。我慢できずにキレル子供たちが増えるのにも、こうした時代の反映である。
それではどうすればいいのか。昔のように貧しい時代に戻せば事は済むのだろうか。科学が発達し技術は進歩し文明が発展していく限り、生活を昔に戻すことは不可能である。問題は、世の中は貧しい時代ゆえの功罪、豊かさゆえの功罪を持っていることだ。功はそのまま生かし、罪(ざい)を何で補うのかが大事なのである。
時間が許す限り歩いて足腰の弱体化を防ぐ。時には、夏は暑く冬は寒い環境に身をゆだねる。食生活をもう一度見直ししてみる。また、他人に対する思いやりや慈しみの重要性、そして自由には責任が伴うことを日常生活で培う努力をすることなどを豊かな生活を通じて補う方法を模索し、話し合う。
労働組合がその手助けをすることも大事なことなのだ。
人々は、日常生活を通じてさまざまな価値観を作り上げた。個の自立とか多様性の時代を迎えて、更にその価値観は尊重されている。そのため、例え間違った価値観を持ったにしても誰からも明確に否定されなかったら、それが最も正しいと思うようになるのも無理からぬことである。あるいは、極めて無気力に「思うことすらせず」漫然と時間を過ごしているだけかもしれない。
多くの人が集まる労働組合である以上、さまざまな価値観を持った人が混在するのは当然であり、だからこそ集団としてまとめていくことの難しさは容易に想像できる。
組合が何を求め、どこに向かって進もうとしているのか、リーダーに課せられた役割は重く難しい。しかしその活動が人々の心の内にまで思いを及ぼすものであれば、21世紀の組合運動の光明となるに違いない。
そして後の東京オリンピックでカラーテレビがブームになり、冷蔵庫、洗濯機と並んで「三種の神器」と呼ばれ、日本の高度成長を支える象徴となった。
当時を思い起こせば、やっと購入したテレビで放映されるアメリカのホームドラマを見て、そこに映し出されるアメリカ市民の家庭生活に驚いたものだ。大きな冷蔵庫、便利この上ない洗濯機、ハタキや箒に代わって見る間にきれいにするクリーナー。自分たちもあんな物を持ちたい、そんな生活ができたらきっと幸せに違いない。多くの人がそう思って懸命に働いてきた。そして今、まがりなりにもどの家庭でも三種の神器がそろっている。やっと目的を果たせたものの、ふと考えてしまう。「これが夢見てきた幸せなのか」、
望んでいたものの多くがそろってみたものの、何かが足りないのだ。この物足りない気持ちは何なのか。人々は立ち止まりながら、足りない何かを探しているのだ。
人間生活とは面白いもので、「モノの豊かさ」を得る代わりに代償を払う宿命を持っているようだ。快適な生活や快楽を得ることで、代償を払っているのだ。歩くより楽な車に乗るほど足が弱くなる。はるか昔、何年にも及ぶ座禅によって足が固まってしまった達磨大師ほどではないにしても、確実に足が弱くなっているのは誰もがわかっている。快適な夏にしてくれるクーラーは冷え性を、魚の骨を通して吸収してきたカルシュウムの補給が減少すれば、骨粗鬆病になる。「飲む、舐める、啜る」という楽な食べ物の摂取方法は、子供たちの健康を確実に蝕みつつある。
豊かさの代償は肉体的なものだけではない。精神的代償もあるのだ。私は男ばかり五人兄弟の真ん中である。貧しい生活では、お客さんが持ってきたお土産の配り方にも、工夫が必要になる。一つであれば、「今日は長男から」あるいは「末っ子から」となり、「真ん中から」だったという記憶はない。
あるいは五等分にして分ける。この繰り返しを通じて「我慢」することや「みんなで分ける」こと、そして「思いやる」ことを覚えさせられていく。
また、子供ながら一計を案じてデパートでの買い物でこんなこともした。
欲しい玩具を買ってもらいたいがために、売り場で寝転んで大きな声で泣き叫ぶ。親が「みっともない」と感じて仕方なく買ってくれるだろうとの読みだ。ところが、わが母親は叱るだけで一向に買ってくれない。怒りながら泣き止むのを気長に待つのである。やがて私も疲れて大声を出せなくなってしまう。母親は意地悪をしているわけでもないし、教育のためにしているわけでもない。買うお金が無いのだ。
こうして、子供の浅知恵では太刀打ちできない現実を知る。いくら泣き叫んでも思い通りにならないことを学んだのである。
当時より豊かになった今であればどうだろうか。同じような状況になったら、世の親の多くは「みっともない、他の人に迷惑だから」と買い与えて黙らせてしまうに違いない。
かくして子供たちは「こうすれば親は言うことを聞いてくれる」と覚え、我慢することを知らずに育っていく。我慢できずにキレル子供たちが増えるのにも、こうした時代の反映である。
それではどうすればいいのか。昔のように貧しい時代に戻せば事は済むのだろうか。科学が発達し技術は進歩し文明が発展していく限り、生活を昔に戻すことは不可能である。問題は、世の中は貧しい時代ゆえの功罪、豊かさゆえの功罪を持っていることだ。功はそのまま生かし、罪(ざい)を何で補うのかが大事なのである。
時間が許す限り歩いて足腰の弱体化を防ぐ。時には、夏は暑く冬は寒い環境に身をゆだねる。食生活をもう一度見直ししてみる。また、他人に対する思いやりや慈しみの重要性、そして自由には責任が伴うことを日常生活で培う努力をすることなどを豊かな生活を通じて補う方法を模索し、話し合う。
労働組合がその手助けをすることも大事なことなのだ。
人々は、日常生活を通じてさまざまな価値観を作り上げた。個の自立とか多様性の時代を迎えて、更にその価値観は尊重されている。そのため、例え間違った価値観を持ったにしても誰からも明確に否定されなかったら、それが最も正しいと思うようになるのも無理からぬことである。あるいは、極めて無気力に「思うことすらせず」漫然と時間を過ごしているだけかもしれない。
多くの人が集まる労働組合である以上、さまざまな価値観を持った人が混在するのは当然であり、だからこそ集団としてまとめていくことの難しさは容易に想像できる。
組合が何を求め、どこに向かって進もうとしているのか、リーダーに課せられた役割は重く難しい。しかしその活動が人々の心の内にまで思いを及ぼすものであれば、21世紀の組合運動の光明となるに違いない。



