鈴木勝利 コラム「語りつぐもの」

鈴木勝利 コラム「語りつぐもの」

欲求の変化に対応した運動へ -vol. 6-
鈴木 勝利 顧問
2008/05/10
社会生活になじまず家に引きこもっているニートと呼ばれる人々が話題になっているが、最近の調査では学校を卒業して就職しないまま家にこもる人よりは、一度は会社に就職したものの、職場の人間関係に悩んで家庭に引きこもる人が多くなったという。
人間関係が難しいのはいまさら言うまでもないが、人の心の襞(ひだ)複雑で他人には分からないからなのだろう。それは今も昔も変わらないことなのだが、今日、人間関係が希薄になったのにはそれなりの理由がある。
人は個々人が自立し、尊重されなければならないが、同時に一人では生きられない存在でもある。昔の家庭は多世帯家族で構成されていた。親子がいて祖父母がいて時には祖々父母の多世帯家族の同居が一般的であった。しかしこの多世帯家族の同居は、時に、嫁・姑戦争に代表されるように人間関係を煩わしいものにする。それを嫌って家族単位に独立し核家族を構成するようになる。近所づきあいも煩わしいから避ける。挙句の果てに隣の部屋で孤独死していても何日も気づかないことさえ起こってしまう。人間関係が希薄になった社会では、相互のコミュニケーションをはかる能力が欠如するのは当然でもある。

IT社会も同様だ。何事もメールで済ましているうちに、いつの間にか顔をあわせて言葉をもって自分の気持ちを伝えることが不得手になってしまう。

IT社会の先輩であるアメリカ、その中心を成すシリコンバレーは、アメリカで最もホームパーティが盛んだという。IT社会の申し子とも言うべき彼の地で、なぜホームパーティが盛んなのか。
メールが飛び交うシリコンバレーでは、自分のパソコンに読みきれないくらいのさまざまなメールや情報がくる。当然虚実入り混じった情報が氾濫しているから、真偽の見分けが重要になる。それがうまくいかなければ、致命的な判断ミスを犯してしまう。
真偽が混在するメールを、どのように取捨選択するのか。その一助にしているのが、ホームパーティという。実際に顔を合わせてコミュニケーションを図ることによって、その人物を評価し、信用できるようであればその人のメールも信用するという。
どんなに科学や技術が進歩しても、それを扱う人間こそが最後の決め手になるということだ。
にもかかわらず、便利さのみで携帯メールに依存したまま社会に出た若者が、コミュニケーション能力に劣るのは避けられない。もちろん、このほかにも、思いやりとか礼節とか、さまざまなことが原因になっているのだが、人間関係が社会生活にとって欠くべからざる要素であることに異論はないだろう。

さて、ひるがえってこの人間関係を考える上で、人々の気持ち・心理を理解できるか否かが重要になる。それは一対一の人間関係のみならず、人間の集団にとっても無視できない。
著名な心理学者マズローは人の意識が微妙に変化していくことに着目する。俗にマズローの「動機づけの基本原則」として普遍化している理論で、詳細は省くとして大筋次のような考え方に立っている。

人の欲求はそれぞれの経済的レベルによって変化するというもので、第一段階は生存のための欲求である。これは本能としてもっている食欲、物欲、性欲の三大欲求に例えれば分かりやすい。人間が生きるために必要な欲求は、理屈ではなく本能として授けておかなければならない。三度の食事は、理論から必要として無理やりとっているのではなく、本能として食欲があるがゆえに食事をするのである。食事をしなければ餓死するしかない。

第二段階は、第一段階でまがりなりにも生きるための食事が満たされると、食欲は変化し、ただ「食べられればよい食事」から、「よりうまいもの」を「より多く」欲するようになる。物欲も同様に、生きるために必要な最低限のモノが満たされると、つぎには「より良いモノ」を「十分」に求める。人間社会が永遠に続くために子孫の繁栄が欠かせないことから、本能として異性にあこがれ、性欲を通じて子供を成す。その欲求は、次第に性格や人間性などの相性を重視する本能へと進化する。

こうして生活条件が満たされると人間の欲求は、自分の存在価値や生きがいなどの精神的欲求へとさらに進化する。動機づけとは、この欲求のレベルや内容によって違ってくるのである。

そしていま人々は、知識を高めたい、能力を伸ばしたい、自己実現をはかりたい、などの精神的欲求を求めるようになってきた。
先輩の皆さんが築いた組合運動も、この動機づけの変化に対応して進められてきた。終戦直後の荒廃した貧しい時代には、「生きるため」の職場の確保(雇用確保)、「食える賃金」を目指してきた。
これが満たされると、ヨーロッパ並みの賃金(より良いものをより多く)を求めはじめ、現在は多くの組合が「真」の「豊かさ」を求め、あるいは、もっと直截的に「モノから心へ」をスローガンに掲げている。すべてがマズローの欲求の変化に対応した運動になっているのである。
ところが、せっかく単純に「豊かさ」(カネ、モノの充足)ではなく、「真」をつけることで、「豊かさ」はカネやモノだけではない「真の豊かさ」を追い求めるとしながら、活動している中身は相も変わらない賃上げという「カネ」だけに眼を向けていて、少しも変化していない。
誰もが一円でも余計に欲しいと思うが、一方で自分の職場や家庭で自分の存在価値を認めて欲しい、自分の思いを実現したい、働きがいや生きがいを感じたいと思い始めている中で、今までと同じ延長線上の運動に終始していては、組合員の関心を呼び起こすことはできない。生きるための欲求から、次により良いものをより多く求めた後に、精神的充足を求めるのが人間なのである。言い換えれば、より人間らしく生活するためには、生活の豊かさが必要なのである。
餓死寸前の人々に精神的充足の必要性を訴えても、人々はそれよりも今日のパンを欲するに違いない。
精神的充足とは、職場でも社会でも、自分の意見を聞いてくれる、取り入れてくれることが意味を持っているということなのである。それを体現しているのが民主主義なのであり、自由という制度なのだ。

人間は限りなく豊かであるべきなのだ。

しかしその豊かさは、単に、贅沢をしたい、楽をしたいのではなく、人間としての精神的充足を実現するために必要だからなのだ。
万事をカネとモノですます運動から、人間としてのあり方を問う運動に変化させることこそ、21世紀にふさわしい組合運動といえるのである。



ホームページトップへ戻る メルマガ登録