個の時代、多様化の時代とは、まったく労働組合にとって最も不得手な時代を迎えたようだ。
労働組合は何をするにも組合員がまとまることが大前提で、組合員が持っている多少の異論は、目的のために我慢をしてもらい、活動してきた。なぜなら今までの社会では、少数の異論より多数決の大原理を優先してきたからである。
民主主義である以上、多数決原理は今でも有効に機能しているし、歴史的には人類が創造した最も普遍的かつ崇高な原理とも言われてきた。
ところが組合運動や社会生活では、少しばかり様相が違ってくる。
労働組合は「組合員」という人間集団で構成されている。以前ふれたが、人間は生活の向上と安定によって「より人間らしい」生き方を求めるようになる。
「人間らしい」とは、人としての尊厳の追求である。人生においては「生き甲斐」を求め、会社では「働き甲斐」に意味を見出す。組合員が自分らしさを求め、自分の人生に価値を見出すためには、自分の存在を他者から認められ、尊重されることを欲する。
「自分の価値」とは人それぞれ。すなわちひとり一人が価値観を持つことである。誰一人として同じ価値観ということにはならない。だから多様化するのである。
実は処遇制度に成果主義が導入されたときに、「これからは労働条件が個別化するので、集団である労働組合の役割は終わった」という意見が散見された。
本稿で述べようとしているのはこれとは違うが、この点にふれておくと、成果主義が導入され処遇が個別化されようが、労働組合の役割はいささかも変化しない。むしろ必要性はますます高まるのである。それは、従業員個人と、会社という組織の彼我の力関係による。
会社にとって、どんなことをしても余人を持って代えがたい能力をもっている場合は別にして、従業員Aさんは、Aさんでなくても良いのである。BさんでもCさんでも良いのだ。駄目なら他の人にすればいいだけだ。
ところが従業員の方はそうはいかない。会社で働いて賃金を得て、その賃金でたとえば親子四人が生活しているのだ。働かなければ一家が路頭に迷ってしまう。生計の基盤をなしている会社をおいそれと辞めるわけにはいかないのだ。
この場合、個人と会社の力関係は圧倒的に違う。個人の力では如何ともし難いから、集団である労働組合の力によって対等が保証されるのである。労働条件が個別化すればするほど労働組合の必要性が高まるのである。労働組合の必要性は揺るぎもしていないのに、なぜか集団としての労働組合は機能しにくくなる。それが今日の宿題なのである。
労働組合は、集団として会社と対等性を保つために、組合員個々がバラバラにならないように努力する。これが「統一」とか「団結」といわれるものだ。統一や団結によって始めて会社との対等性が保たれるのである。その組織原理と、組合員が持ち始めた多様性とは相容れない。一言で言えば、組合の組織原理である「統一・団結」は、組合員が持ち始めた「価値観の多様化」とは対立概念になる。リーダーがその狭間で呻吟しているのが今の組合運動なのである。
この対立し矛盾した行動原理と意識の中で運動することは可能なのだろうか。答えははっきりしている。イエスなのだ。が、しかし、それには今までの活動のあり方を一変させることが条件になる。どのように変えるのか。
振り返ってみると、労働組合の組織や行動の原理は、基本的には上意下達、金太郎飴を求めてきた。リーダーの方針が徹底され、組合員は一糸乱れぬ意識と行動を見せる。組合員の誰に聞いても金太郎飴のように、どの人をみても同じ意識を持ち行動している。それが強固で団結している労働組合の理想とされてきた。
しかし、価値観が多様化すると、違う価値観を持っている人からは「少しおかしい」、「賛成できない」ということになってしまう。なぜなのかが分からないと、「組合員が理解しない」、「分かってくれない」という嘆きや愚痴の世界に埋没してしまう。
価値観が多様化するのは一人ひとりが自立し、自分の存在を求めているからに他ならない。だから多様化することは好ましいのである。自分の意見を持たずに雰囲気に流されることもなく、自分で考え、自分で決めたいと思っている。そのときに労働組合が「多数の決定には従うべきだ」といっても説得力はない。肝心なのは、統一や団結をすべての行動に適用せずに、適用する対象と範囲を限定することがスタートになる。
各組合が時間外労働の削減対策として行っている「一斉退社日」を考えてみよう。
残業を減らすにはさまざまな障害がある。企業をとりまくライバル企業との競争に始まって、企業内における生産計画、人員計画、管理者の意識、職場の雰囲気などなどである。本稿では残業の削減が目的ではないので、運動のあり方に限って述べれば、組合の方針の視点から見れば、せめて一週間に一度は残業なしで帰りたいが、「上長がいるので帰りにくい」「自分だけでは」という組合員の声がある。そこで「全員が帰る」ことで、「帰りにくい」という組合員の声に応ようとする。
ところが、個々の組合員にとっては事情がいろいろとある。「私用があるので退社日は明日が好ましい」、「今日は残業をやっても良いのに」というように、である。全員の声を聞けば「一斉退社日」はできないから「統一日」を設けるのは「止むを得ない」ことになる。しかし、これが個々の組合員の心情に微妙な不満を残すことになってしまう。この一見矛盾した事柄をどのように整合性を取ればいいのかが難しいのだ。組合員それぞれが事情を抱えている中で、その事情を満足させ、かつ、どうすれば個々の組合員に一週に一度の「残業なし日」を設けられるのか。組合員意識の多様化に対応した組合活動とは。この答えを見出してこそ、21世紀の労働組合が見えてくるのである。
労働組合は何をするにも組合員がまとまることが大前提で、組合員が持っている多少の異論は、目的のために我慢をしてもらい、活動してきた。なぜなら今までの社会では、少数の異論より多数決の大原理を優先してきたからである。
民主主義である以上、多数決原理は今でも有効に機能しているし、歴史的には人類が創造した最も普遍的かつ崇高な原理とも言われてきた。
ところが組合運動や社会生活では、少しばかり様相が違ってくる。
労働組合は「組合員」という人間集団で構成されている。以前ふれたが、人間は生活の向上と安定によって「より人間らしい」生き方を求めるようになる。
「人間らしい」とは、人としての尊厳の追求である。人生においては「生き甲斐」を求め、会社では「働き甲斐」に意味を見出す。組合員が自分らしさを求め、自分の人生に価値を見出すためには、自分の存在を他者から認められ、尊重されることを欲する。
「自分の価値」とは人それぞれ。すなわちひとり一人が価値観を持つことである。誰一人として同じ価値観ということにはならない。だから多様化するのである。
実は処遇制度に成果主義が導入されたときに、「これからは労働条件が個別化するので、集団である労働組合の役割は終わった」という意見が散見された。
本稿で述べようとしているのはこれとは違うが、この点にふれておくと、成果主義が導入され処遇が個別化されようが、労働組合の役割はいささかも変化しない。むしろ必要性はますます高まるのである。それは、従業員個人と、会社という組織の彼我の力関係による。
会社にとって、どんなことをしても余人を持って代えがたい能力をもっている場合は別にして、従業員Aさんは、Aさんでなくても良いのである。BさんでもCさんでも良いのだ。駄目なら他の人にすればいいだけだ。
ところが従業員の方はそうはいかない。会社で働いて賃金を得て、その賃金でたとえば親子四人が生活しているのだ。働かなければ一家が路頭に迷ってしまう。生計の基盤をなしている会社をおいそれと辞めるわけにはいかないのだ。
この場合、個人と会社の力関係は圧倒的に違う。個人の力では如何ともし難いから、集団である労働組合の力によって対等が保証されるのである。労働条件が個別化すればするほど労働組合の必要性が高まるのである。労働組合の必要性は揺るぎもしていないのに、なぜか集団としての労働組合は機能しにくくなる。それが今日の宿題なのである。
労働組合は、集団として会社と対等性を保つために、組合員個々がバラバラにならないように努力する。これが「統一」とか「団結」といわれるものだ。統一や団結によって始めて会社との対等性が保たれるのである。その組織原理と、組合員が持ち始めた多様性とは相容れない。一言で言えば、組合の組織原理である「統一・団結」は、組合員が持ち始めた「価値観の多様化」とは対立概念になる。リーダーがその狭間で呻吟しているのが今の組合運動なのである。
この対立し矛盾した行動原理と意識の中で運動することは可能なのだろうか。答えははっきりしている。イエスなのだ。が、しかし、それには今までの活動のあり方を一変させることが条件になる。どのように変えるのか。
振り返ってみると、労働組合の組織や行動の原理は、基本的には上意下達、金太郎飴を求めてきた。リーダーの方針が徹底され、組合員は一糸乱れぬ意識と行動を見せる。組合員の誰に聞いても金太郎飴のように、どの人をみても同じ意識を持ち行動している。それが強固で団結している労働組合の理想とされてきた。
しかし、価値観が多様化すると、違う価値観を持っている人からは「少しおかしい」、「賛成できない」ということになってしまう。なぜなのかが分からないと、「組合員が理解しない」、「分かってくれない」という嘆きや愚痴の世界に埋没してしまう。
価値観が多様化するのは一人ひとりが自立し、自分の存在を求めているからに他ならない。だから多様化することは好ましいのである。自分の意見を持たずに雰囲気に流されることもなく、自分で考え、自分で決めたいと思っている。そのときに労働組合が「多数の決定には従うべきだ」といっても説得力はない。肝心なのは、統一や団結をすべての行動に適用せずに、適用する対象と範囲を限定することがスタートになる。
各組合が時間外労働の削減対策として行っている「一斉退社日」を考えてみよう。
残業を減らすにはさまざまな障害がある。企業をとりまくライバル企業との競争に始まって、企業内における生産計画、人員計画、管理者の意識、職場の雰囲気などなどである。本稿では残業の削減が目的ではないので、運動のあり方に限って述べれば、組合の方針の視点から見れば、せめて一週間に一度は残業なしで帰りたいが、「上長がいるので帰りにくい」「自分だけでは」という組合員の声がある。そこで「全員が帰る」ことで、「帰りにくい」という組合員の声に応ようとする。
ところが、個々の組合員にとっては事情がいろいろとある。「私用があるので退社日は明日が好ましい」、「今日は残業をやっても良いのに」というように、である。全員の声を聞けば「一斉退社日」はできないから「統一日」を設けるのは「止むを得ない」ことになる。しかし、これが個々の組合員の心情に微妙な不満を残すことになってしまう。この一見矛盾した事柄をどのように整合性を取ればいいのかが難しいのだ。組合員それぞれが事情を抱えている中で、その事情を満足させ、かつ、どうすれば個々の組合員に一週に一度の「残業なし日」を設けられるのか。組合員意識の多様化に対応した組合活動とは。この答えを見出してこそ、21世紀の労働組合が見えてくるのである。



