鈴木勝利 コラム「語りつぐもの」

鈴木勝利 コラム「語りつぐもの」

「ぬるま湯の蛙」と「象牙の箸」 -vol.11-
鈴木 勝利 顧問
2008/10/10
 世の中の変化というものはゆるゆると瞬間では分からないように変わっていく。そして、ある時期が来てはっきりと表面に出てくることが多い。もちろん短期間に劇的に変わることもあるが、それは変化というよりはむしろ革命に近い。

 ゆるゆるとした変化が厄介なのは、変化そのものを意識できず、いつの間にかそれに染まってしまい、加えて変わっていく自分を知らずにいるからである。目に見えるようになって気がついたときには遅かったということになる。

 いま社会は大きく変化し、今までとはまったく違う日本社会が出現している。人々からは思いやりがなくなり、犯罪も低年齢化が進み、親の子殺しのような悲惨な事件が後を立たない。
 でもそれはわずかな時間に劇的に変化したわけでもなく、時間をかけてゆっくりと進んできたものだ。
 社会の変化がそうした性格を持っているとしたら、リーダーと呼ばれる人の資質とは、時代がどう変わっていくのかを知る洞察力にあるように思う。

 「蛙のぬるま湯」の話がある。
 蛙を初めから熱湯に入れようとしても蛙は逃げていってしまう。ところが蛙をぬるま湯に入れると抵抗せずにいる。徐々に温度を上げていっても逃げない。そのうち体中を真っ赤にして死んでしまうという話である。

 中国戦国末期の書である「韓非子(かんびし)」にもこんな話がある。
 商(殷)の宰相であった箕子(きし)は、時の商王・受王 (紂王)が象牙の箸を使っているのを見て、自分が仕える王が、始めは些細な箸の贅沢だがやがて食器全体の贅沢になり、さらに広がって王室全体が贅を極め、国の財政を困窮させるに違いないとこう嘆く。

 「我その終わりを畏(おそ)る、ゆえにその始めを恐(おそ)る」

 案の定、多額の財を浪費し贅の限りを尽くした王は、ついに天に一歩でも近づくための高層楼台までをも建築し、王朝は崩壊の道をたどってしまう。

 「ぬるま湯の蛙」も「象牙の箸」も、変化に埋没してしまう人間の心理に警鐘を鳴らしているに違いない。

 とくに厄介なのは、そうした危険性に気がついても、当初は些細な変化であるために、「始めを恐れ」て警鐘を鳴らしても誰も同調してくれないことである。人間とはどうしても現実が目の前に現れないと考えようともしないようだ。

 必ずしも同じではないが、賄賂を受け取る側の心理もこれに近い。最初は社会的な儀礼に近い進物、たとえば2~3千円の菓子折りなら、「マアこのくらいなら」と抵抗なく受け取る。それが5千円になっても、3千円と比較して「このくらいなら」と受け取ってしまう。一万円になっても5千円と比較する。やがて3万円、5万円の商品券のときにも、比較は絶えずその前の金額なのだ。そしてついには10万円になっていく。一つひとつの段階の違いは大きく感じない。
 冷静に見れば、ゼロから一挙に10万円を比較できれば、金額の大きさに受け取るのをためらう感覚が生まれるのに、一つ一つの段階の違いを大きく感じなければ受け取るのに抵抗はない。

 また、贈収賄が当たり前の環境にいれば罪の意識は希薄になる。
よく話題になる建設業界などで「談合」が繰り返されるのは、談合を「必要悪」と考える環境にあるからでもある。

 自分たちの心理や行為が国民とかけ離れていることに気がつかないとさまざまな軋轢が生まれる。
 典型的な例は政治家の失言である。国民とは違う世界で生活していると、汚染米騒動を「ジタバタ」と表現してしまう前農林水産大臣も、愛知県岡崎の豪雨被害を「名古屋でなくてよかった」と揶揄した新総理(当時の幹事長)も、食の安全に不安を募らせている消費者の心理が分からぬゆえに、あるいは豪雨被害者の気持ちに配慮できないゆえに思わず口に出てしまったもので、単に口が滑ってしまったという類の失言ではない。
 読売新聞の編集委員である橋本五郎氏は麻生新総理の度重なる失言癖にこう忠告する。

 「麻生氏の祖父である吉田茂総理も幾たびか失言を繰り返したが、吉田氏の失言には哲学があったのに対し、麻生氏の失言は軽薄の域を出ていない」(08年9月25日・読売新聞朝刊)。

 消費者担当大臣を置いて消費者の目線に立った政策を行なうといっても、商店やスーパーで値段を気にして商品を買っている消費者の気持ちが分からなければ無理な話だ。
 こうした人々にいまさらながら政治を託さなければならないのかと自嘲の呟きをもらしても、そうした人々に3分の2の多数を与えたのもまた私たち国民なのだ。

 愚痴めいた話はさておき、リーダーにはある現象から将来の問題を洞察する力が必要だとなれば、組合役員にも同様の能力を求められているはずである。
 会社での出来事、組合員のちょっとしたつぶやき、他の会社や組合の動き、それらが何を意味し、自分たちの組合運動にどのような影響を与えるのか、あるいは同じことがおきるのか、さまざまな予見を拾い出し無視できないのであれば早急に対策を立てておく。それがリーダーの務めなのだが現状に甘んじているうちに、事が大きくなってはじめて対策に追われる様をよく見る。

 公務員が起こす不祥事の中で組合が未然に解決できた例もあるはずである。大阪市における自治体職員の綱紀紊乱には開いた口がふさがらないし、自治労大阪支部の責任は重い。もし組合が事前に解決させていたら、事は違った結果になったに違いない。社会保険庁の「ヤミ専従」問題も同様だ。
 こうした不祥事は単に当該労働組合だけの問題では終わらない。「労働組合は不正義なことをする団体」と社会全体が見てしまうことの影響は計り知れない。とくに昨今のように政治が混沌としていると、必ず一方の政争の具に利用されてしまう。

 「農協の論理」も「医師会の論理」も、「永田町の論理」も、それぞれの組織の中では常識であり、正しいと思われているのだ。
 組織の中では正しいと思われていることが、社会の常識と食い違っていないかどうか、組合リーダーは点検を怠ってはならない。そうしないと「労働組合の論理」が社会から孤立することになる。


 発言時期や場所から見て是非はあるものの、「政権を放り出した総理」と批判される福田前総理が、記者会見の最後に放った「私は自分を客観的に見ることができる」という一言を、少しは噛み締めたほうがよいのかもしれない。




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