前回は信念と宗教に関連して、近代日本社会で宗教が一種のブームになった時に、あるときは政治的構造変化(第一次ブームは明治維新、第三次ブームは第二次世界大戦の敗戦時)、あるときは経済的・社会的構造変化(第二次ブームは明治の富国強兵社会構築のための資本主義の勃興期、第四次ブームが高度成長期から今日までの社会構造的変化)によって惹き起こされると記した。いずれも過去の価値観が大きく変化するときだ。例えば明治維新によって江戸時代の士農工商という身分制度が破壊されると、昨日まで武士は身分制度の頂点に立ち、ときに切り捨て御免が許されていたのに、朝になったら「今日からみな平等」で、後にはちょん髷も帯刀も禁止されてしまう。そんな社会になったらこれからどうして生きていけばいいのか途方にくれてしまう人が多く出てもおかしくない。例えば第二次世界大戦の敗戦によって、それまでの全体主義が否定され、家庭では家父長制度によって自分の思うままに威張り腐ってきた父親が、今日から妻も子供も平等といわれてもどうしたらいいのかすぐには対応できない。価値観の変化はこうして多くの国民に戸惑いを与えてしまう。戸惑いがひどくなれば自分自身で悩むしかない。その時に手を差し伸べてくれるのが宗教であったらすぐに飛びついてしまうのだ。
大昔は自分たちの理解を超えている超現象である天地異変を、神のなせるわざとして畏怖し驚愕し、万物には神が宿るものと信じていた。人間がこの世に生まれてからこの方、人々は悩み、迷い、場合によっては心を漂流させてきた。そして今日、自立や自我の尊重が叫ばれるようになると、さすがに自然現象への疑問や畏怖はなくなっても、今度は、自立しているがゆえに、他人に頼らずに自分ひとりで悩みこむケースが激増する。第四次宗教ブームが今日まで長く続いている理由である。
終身とまで表現されてきた日本の長期雇用制度、会社で一生懸命に働けば定年までは勤められる、賃金も勤続に応じて上がっていく。そんな仕組みが大きく変化し、真面目にコツコツと働くより、業績という結果が重視される処遇制度。定年まで勤められる可能性が不安定になった雇用問題。自分の両親の働き方をみて、長期雇用と年功処遇を前提に考えてきた働き方や生き方が通用しなくなって、変化の渦の中で戸惑い悩むのは当たり前でもあるのだ。あるいはまた、集団の力、チームワークで業績をあげてきた日本企業の職場も、チームの成績よりも個人の力量が問われ、とくに企業の存続や発展を左右する技術開発、ソフト開発に携わる従業員は、たえず一人の力量が即結果に結びつくから、圧倒的な重圧の下で仕事をしていかなければならない。
個人は自立し尊重されなければならない。しかし同時に人は一人では生きていかれないのだ。お互いに支えあって初めて人生を送ることが出来る。社会がバラバラになってしまった日本では、結果が個人の責任に結びつくゆえに、該当者は思い悩む日々を送らざるを得ない。
それぞれの産業や企業内において、思い悩んだ末に病んだり、時には自殺する人が後を絶たない。それは組合にとっては組合員であり、企業にとっては従業員なのである。いみじくもジャーナル誌が指摘するように、メンタルヘルス活動は労働組合にとって重視すべき主要な活動なのであり、できるなら組合員にとって組合役員や委員が最も信頼すべきカウンセラーであって欲しいのである。
かつて厚生労働省(統合前?)で「自殺予防有識者会議」でこんな事例を聞いた。当時全国で最も高齢者の自殺者が多い村が新潟にあった。新潟大学医学部ではその原因を探るべく村に入って詳細な調査を行なった結果、自殺者が増える時期に注目する。厳しい寒さが終わりを告げ暖かくなる時期に増えるのである。調査結果はいう。農村だから春を迎えると一家総出で畑仕事に出かける。しかし、高齢者は家族自体が体を気遣って家の留守番を頼んでしまう。この親思いが思わぬ結果をもたらす。家族が皆外へ出て仕事に精を出している中で、家で一人過ごす高齢者は、ふと「必要とされない自分」に気づいてしまう。家族の中で必要でなくなった自分は、「生きていく価値があるのか」と思い悩み始める。成人となった子供たちに直接聞くことも出来ず、一人悶々と悩んだ末に、「不必要なら死」を選んでしまうのである。
そこで医学生たちは、家族に対して高齢者にも些細な仕事でも受け持ってもらうことで、一家にとって「あなたを必要としていることを分かってもらうよう」依頼して歩く。家族にとっては、高齢になった親に楽をしてもらいたいとの思いやりが、自分たちの意思に反して思わぬ結果をもたらしていることに気づく。こうして数年が過ぎてみると、その村は全国でも屈指の「高齢者の自殺が少ない村」に変貌したのである。高齢になったとはいえ、家族の中で自分の存在を認められ、その役割を果たす喜びこそが、「生き甲斐」になったのである。
これは何も高齢者に限ったことではない。私たちだって、職場で自分が認められ、あるいは価値を持っているとわかれば、そこに「働き甲斐」を見出せる。そしてその余裕が、そんな自分を愛せるのと同時に、他者への思いやりや人間として愛することができるようになるのである。そんな自分、そんな職場であったならば、思っただけでも今とはまったく違う労働組合になるに違いない。
少し前まで、家に引きこもって働かないニートと呼ばれる人々の大半は、学生時代からの人付き合いが苦手であったり、出来にくい人が多く、学校を出ても就職しない人が占めていた。ところが最近では、一度は会社勤めをしたものの、職場の人間関係に失敗して家に引きこもる人が急増しているという。人間関係がうまく出来ない人が増えているのだ。自分の一生が他者との支え合いで成り立つ社会なのに、肝心の人間関係で挫折すると致命傷を負う。組合員の一生に、空気のごとく必要不可欠に存在する労働組合のリーダーにとって、「何をなすべきか」ははっきりしている。過去の運動の延長線から、新たな時代が求めている運動へと転換できるか否かが、今後の組合運動の評価を左右するカギになっているのだ。
大昔は自分たちの理解を超えている超現象である天地異変を、神のなせるわざとして畏怖し驚愕し、万物には神が宿るものと信じていた。人間がこの世に生まれてからこの方、人々は悩み、迷い、場合によっては心を漂流させてきた。そして今日、自立や自我の尊重が叫ばれるようになると、さすがに自然現象への疑問や畏怖はなくなっても、今度は、自立しているがゆえに、他人に頼らずに自分ひとりで悩みこむケースが激増する。第四次宗教ブームが今日まで長く続いている理由である。
終身とまで表現されてきた日本の長期雇用制度、会社で一生懸命に働けば定年までは勤められる、賃金も勤続に応じて上がっていく。そんな仕組みが大きく変化し、真面目にコツコツと働くより、業績という結果が重視される処遇制度。定年まで勤められる可能性が不安定になった雇用問題。自分の両親の働き方をみて、長期雇用と年功処遇を前提に考えてきた働き方や生き方が通用しなくなって、変化の渦の中で戸惑い悩むのは当たり前でもあるのだ。あるいはまた、集団の力、チームワークで業績をあげてきた日本企業の職場も、チームの成績よりも個人の力量が問われ、とくに企業の存続や発展を左右する技術開発、ソフト開発に携わる従業員は、たえず一人の力量が即結果に結びつくから、圧倒的な重圧の下で仕事をしていかなければならない。
個人は自立し尊重されなければならない。しかし同時に人は一人では生きていかれないのだ。お互いに支えあって初めて人生を送ることが出来る。社会がバラバラになってしまった日本では、結果が個人の責任に結びつくゆえに、該当者は思い悩む日々を送らざるを得ない。
それぞれの産業や企業内において、思い悩んだ末に病んだり、時には自殺する人が後を絶たない。それは組合にとっては組合員であり、企業にとっては従業員なのである。いみじくもジャーナル誌が指摘するように、メンタルヘルス活動は労働組合にとって重視すべき主要な活動なのであり、できるなら組合員にとって組合役員や委員が最も信頼すべきカウンセラーであって欲しいのである。
かつて厚生労働省(統合前?)で「自殺予防有識者会議」でこんな事例を聞いた。当時全国で最も高齢者の自殺者が多い村が新潟にあった。新潟大学医学部ではその原因を探るべく村に入って詳細な調査を行なった結果、自殺者が増える時期に注目する。厳しい寒さが終わりを告げ暖かくなる時期に増えるのである。調査結果はいう。農村だから春を迎えると一家総出で畑仕事に出かける。しかし、高齢者は家族自体が体を気遣って家の留守番を頼んでしまう。この親思いが思わぬ結果をもたらす。家族が皆外へ出て仕事に精を出している中で、家で一人過ごす高齢者は、ふと「必要とされない自分」に気づいてしまう。家族の中で必要でなくなった自分は、「生きていく価値があるのか」と思い悩み始める。成人となった子供たちに直接聞くことも出来ず、一人悶々と悩んだ末に、「不必要なら死」を選んでしまうのである。
そこで医学生たちは、家族に対して高齢者にも些細な仕事でも受け持ってもらうことで、一家にとって「あなたを必要としていることを分かってもらうよう」依頼して歩く。家族にとっては、高齢になった親に楽をしてもらいたいとの思いやりが、自分たちの意思に反して思わぬ結果をもたらしていることに気づく。こうして数年が過ぎてみると、その村は全国でも屈指の「高齢者の自殺が少ない村」に変貌したのである。高齢になったとはいえ、家族の中で自分の存在を認められ、その役割を果たす喜びこそが、「生き甲斐」になったのである。
これは何も高齢者に限ったことではない。私たちだって、職場で自分が認められ、あるいは価値を持っているとわかれば、そこに「働き甲斐」を見出せる。そしてその余裕が、そんな自分を愛せるのと同時に、他者への思いやりや人間として愛することができるようになるのである。そんな自分、そんな職場であったならば、思っただけでも今とはまったく違う労働組合になるに違いない。
少し前まで、家に引きこもって働かないニートと呼ばれる人々の大半は、学生時代からの人付き合いが苦手であったり、出来にくい人が多く、学校を出ても就職しない人が占めていた。ところが最近では、一度は会社勤めをしたものの、職場の人間関係に失敗して家に引きこもる人が急増しているという。人間関係がうまく出来ない人が増えているのだ。自分の一生が他者との支え合いで成り立つ社会なのに、肝心の人間関係で挫折すると致命傷を負う。組合員の一生に、空気のごとく必要不可欠に存在する労働組合のリーダーにとって、「何をなすべきか」ははっきりしている。過去の運動の延長線から、新たな時代が求めている運動へと転換できるか否かが、今後の組合運動の評価を左右するカギになっているのだ。



