以前、あるところに寄稿したのだが、人間社会は大変複雑で、あらゆる出来事はいくつもの要因が複雑に、しかも相互に作用しあいながら作り出していく。そのために社会現象を直すには、複雑に絡み合ったすべての要因を解決しなければならない。しかもその要因一つ一つに人間がかかわりあっている。ゆえに自分だけが直しても他の人がかかわる要因も共に解決できないと社会現象は変わらない。ここで人間の業みたいな性格が障害になる。「自分だけ苦労して直しても他の人が努力しないので、結局は解決につながらない」、だから「正直者がバカを見るなら自分も努力するのをやめよう」となりがちである。こうなってしまうと、社会現象は一箇所にとどまらずさらに悪化していく。全員が現状に問題意識を持ちながら、誰もが手を加えなければ事態はさらに悪い方へ悪い方へと流されていく。近代社会はこうして今を迎えている。
では、こうした現状に労働組合は無関係なのだろうか。近代社会というのは誰一人無関係にしておかない。国民すべてが、自覚しようがしまいが社会現象を作り出す登場人物になっているのだ。極端な例になるが、今日の金融危機を招いたことに、責任のない人間は誰一人いない。乱発された基軸通貨ドルを右から左に動かすことで利益を得るシステムも、おかしいと思いながらも手をこまねいていた自分が居るし、中にはおこぼれを願って同じように投機を目的に株や外国為替相場に手を染めた人もいる。係った度合いの濃淡はあってもすべての国民が無関係には存在しない。労働組合も同様だ。組合費の有効利用を図るためとして投資ファンドに出資したケースもあれば、高利息を求めて選択した先が倒産した銀行というケースもある。世の中「金がすべて」という風潮に流されないのは至難の技かもしれない。
思えば、終戦直後に生まれた日本の労働組合は、生きるために汲々としていた世相の中で、生活のためにと「賃金と一時金」という「カネ」に照準をしぼって運動したのも当時としては当然のことでもあった。だから、社会や企業内における諸制度に対して関心を持てなかったのも止む得なかった。問題は、社会が進歩していったのにもかかわらず、労働組合は「カネ」だけを目指し続けた。ある時期からは、制度の不備をカネで解決する道を選択したともいえるようになってしまった。
しばらく前にこんな話を聞いたことさえある。企業業績の悪化を前にして、失業保険(雇用保険)を労使が負担してきたのだから、貰わないまま退職しては損をしたことになる。何らかの給付を求めるべきである、と。冷静に考えれば失業保険も健康保険も貰わなかったことは、失業もせず、健康も害さずに一生を過ごしたのであり、稀に見る幸せな人生なのに、である。社会が近代化したことによって、社会の中に恵まれない人が出たとき、お互いが助け合おうとする「相互扶助」の精神が培われてくる。言わば人間の尊厳の表れでもあるのだ。どこかの総理大臣のように「なんで自分が弱者の面倒を見なければならいのか」というにいたっては、「カネの亡者」を一国の宰相として仰いでいる国民の一人として、憤りを超えて虚しさを感じるのは自分だけだろうかと思う。
だがチョッと待ってみよう。そうした宰相を選んだのも国民なのだ。それは国会の問題と世間話で終わらせる自分がいる。何もしない自分と何もしない皆がいるだけだ。
話をもとに戻そう。北欧に代表されるヨーロッパの労働運動が、カネと同等に力をいれてきたのが社会制度だ。職業訓練を組合の主要な活動に位置づけたり、デンマークのように失業保険を組合が運営する。言葉は適切でないかもしれないが、社会的システムに労働組合が主要なかかわりを持ち、組合員との間に利害関係を作ることで、高い組織率を維持している現状をどう考えるかである。カネは程々でも社会のシステムが完備していることで、今も将来も安心できる社会にする道を選択したのである。それに対し、社会システムの不備を、多少のカネで補おうとする日本とを比較したとき、私たちの運動は間違いなく正しかったと断言できるだろうか。
近代社会は、人権意識を始め民主主義のような制度を含めて、あらゆる場面で人間の意識の進歩に支えられている。日に日に進化を遂げている人間の意識に比べて、組合運動は進化しているのだろうか。組合運動だけが遅々とした歩みで遅れに遅れてはいないか、そんな危機感が若いリーダーの中で生まれつつあるような気がする。それは冒頭にふれたように、「自分だけの努力の馬鹿らしさ」を克服して、「正直に運動」する人々の出現でもある。
それにしても、経済界も、政治の場も、名も知れずに、ひっそりといる国民の努力と比べると、いくらなんでも現状は酷すぎるし、「儲けのためになりふり構わない」多くの経営者がいる限り、たとえ「正直者が馬鹿」をみたとしても「報われなくても一人コツコツと努力」している人々に、いつまでも頼っていることもできないだろう。そんな人々から「もうやめた」といわれないためにも、自分がやらなければならないこと、自分が出来ることに細々でも手を付けることが求められている。そこから日本の労働組合の再生が始まりはしないか。
では、こうした現状に労働組合は無関係なのだろうか。近代社会というのは誰一人無関係にしておかない。国民すべてが、自覚しようがしまいが社会現象を作り出す登場人物になっているのだ。極端な例になるが、今日の金融危機を招いたことに、責任のない人間は誰一人いない。乱発された基軸通貨ドルを右から左に動かすことで利益を得るシステムも、おかしいと思いながらも手をこまねいていた自分が居るし、中にはおこぼれを願って同じように投機を目的に株や外国為替相場に手を染めた人もいる。係った度合いの濃淡はあってもすべての国民が無関係には存在しない。労働組合も同様だ。組合費の有効利用を図るためとして投資ファンドに出資したケースもあれば、高利息を求めて選択した先が倒産した銀行というケースもある。世の中「金がすべて」という風潮に流されないのは至難の技かもしれない。
思えば、終戦直後に生まれた日本の労働組合は、生きるために汲々としていた世相の中で、生活のためにと「賃金と一時金」という「カネ」に照準をしぼって運動したのも当時としては当然のことでもあった。だから、社会や企業内における諸制度に対して関心を持てなかったのも止む得なかった。問題は、社会が進歩していったのにもかかわらず、労働組合は「カネ」だけを目指し続けた。ある時期からは、制度の不備をカネで解決する道を選択したともいえるようになってしまった。
しばらく前にこんな話を聞いたことさえある。企業業績の悪化を前にして、失業保険(雇用保険)を労使が負担してきたのだから、貰わないまま退職しては損をしたことになる。何らかの給付を求めるべきである、と。冷静に考えれば失業保険も健康保険も貰わなかったことは、失業もせず、健康も害さずに一生を過ごしたのであり、稀に見る幸せな人生なのに、である。社会が近代化したことによって、社会の中に恵まれない人が出たとき、お互いが助け合おうとする「相互扶助」の精神が培われてくる。言わば人間の尊厳の表れでもあるのだ。どこかの総理大臣のように「なんで自分が弱者の面倒を見なければならいのか」というにいたっては、「カネの亡者」を一国の宰相として仰いでいる国民の一人として、憤りを超えて虚しさを感じるのは自分だけだろうかと思う。
だがチョッと待ってみよう。そうした宰相を選んだのも国民なのだ。それは国会の問題と世間話で終わらせる自分がいる。何もしない自分と何もしない皆がいるだけだ。
話をもとに戻そう。北欧に代表されるヨーロッパの労働運動が、カネと同等に力をいれてきたのが社会制度だ。職業訓練を組合の主要な活動に位置づけたり、デンマークのように失業保険を組合が運営する。言葉は適切でないかもしれないが、社会的システムに労働組合が主要なかかわりを持ち、組合員との間に利害関係を作ることで、高い組織率を維持している現状をどう考えるかである。カネは程々でも社会のシステムが完備していることで、今も将来も安心できる社会にする道を選択したのである。それに対し、社会システムの不備を、多少のカネで補おうとする日本とを比較したとき、私たちの運動は間違いなく正しかったと断言できるだろうか。
近代社会は、人権意識を始め民主主義のような制度を含めて、あらゆる場面で人間の意識の進歩に支えられている。日に日に進化を遂げている人間の意識に比べて、組合運動は進化しているのだろうか。組合運動だけが遅々とした歩みで遅れに遅れてはいないか、そんな危機感が若いリーダーの中で生まれつつあるような気がする。それは冒頭にふれたように、「自分だけの努力の馬鹿らしさ」を克服して、「正直に運動」する人々の出現でもある。
それにしても、経済界も、政治の場も、名も知れずに、ひっそりといる国民の努力と比べると、いくらなんでも現状は酷すぎるし、「儲けのためになりふり構わない」多くの経営者がいる限り、たとえ「正直者が馬鹿」をみたとしても「報われなくても一人コツコツと努力」している人々に、いつまでも頼っていることもできないだろう。そんな人々から「もうやめた」といわれないためにも、自分がやらなければならないこと、自分が出来ることに細々でも手を付けることが求められている。そこから日本の労働組合の再生が始まりはしないか。



