この地球上には人類の叡智が生み出したさまざまな制度があるが、その中で最も進歩したものが民主主義であるといわれる。おそらくは、人間社会において紛争が頻繁に起こり、殺戮を繰り返してきた反省や国民大多数の幸せのためにふさわしいものとして作り出されたものに違いない。だから、現在の民主主義が絶対的で唯一無二の制度というわけでもなく、単に歴史の中で生まれた他の制度との比較でより優れた制度というだけで、時代が進めば民主主義に変わるもっと素晴らしい制度が生まれるかもしれないのだ。 国であれ団体であれ、集う人々の総意を形作るのが民主主義なのだが欠点もある。民主主義の代表例としてあげられる古代ローマ・ギリシャ時代では人々の総意が欲望に負ける例がよく紹介される。国民が一箇所に集まり直接民主主義として総意をはかるのは民主主義の原点なのだが、時には人々の欲望の赴くままに結論を出してしまう。「大衆衆愚政治」と呼ばれるものだ。とはいえ、代表者を選んで「選ばれし者が決定する間接民主主義」も、必ずしも選ばれし者が選んだ人の利益に忠実である保障はない。為政者が自分たちの意思に反した政治を行った時のために選挙制度が設けられているのだが、時の為政者は自分に不利にならないように選挙の時期を決めることができる。今日の日本の政治状況を見ればはっきりしている。与党の追加経済対策の目玉である定額給付金制度に対しても、「国民は貰ってしまえば気が変わるから、そのときの選挙をすればいい」と豪語するに及んでは、国民を愚弄するにもほどがあるとさえ思えてしまう。
翻って民主的に運営されている組合組織にもさまざまな特徴があり問題も多い。身近な09年春闘をめぐっても同様だ。よく上意下達とか下意上達といわれるように、どちらであっても物事を決める際には組合員の総意を図らなければならない。方針の決定には参加した組合員の総意が反映されている筈だし、あるいは自分の意思と違っても多数決で決められたことには従う義務がある。これは民主主義の大原則なのだが、それが足かせとなり一度決めたら修正し難いという硬直性を持ってしまう。連合が春闘方針の議論を始めるのは前年の夏からである。09年の方針は去年の夏頃から議論をしている。かなりの時間を使って方針を決めているのである。連合の方針は会議に参加した産業別組合の役員の総意ということになる。したがって産別組織は連合決定に従う義務が発生する。産別は産別で連合方針の議論に参加するにあたって各企業別組合の意向を把握する。連合方針に賛否を意思表示するために傘下組合の了承を得ているのである。したがって傘下組合も産別方針に従う義務が発生する。傘下組合も同様に、産別の会議に参加するために事前に内部の意思統一を図っている。連合や産別が決めることに賛否を問うているはずである。
こうして産別は連合が決めた方針に従う義務を持ち、単組は産別の決めた方針に従う義務を持ち、組合員は単組の決めた方針に従う義務を持つ。この際は上部団体から決めていくのがいいのか、あるいは単組から決めていくのがいいのかは別にして(一見、上意下達にみえるが、下部組織も議論を平行的に行い弊害を避ける努力をしている。上意下達と下意上達の折衷方式とでも言おうか)、手続きの上からもこれは民主主義の大原則に上に立った全く正しい方式なのである。この原則を否定してしまうと物事は何も決められなくなってしまうからである。ところが、問題になるのがこの手続きに費やした時間がかかわってくることである。時間がかかればかかるほど、環境条件が変化していくからである。ここに民主主義の欠点がある。もう一度振り返ってみよう。誰が見ても要求議論が始まった頃と現在とでは経済環境や企業業績は一変している。とくに非正規社員の失業がこんなに深刻になるとは誰もが予想していなかった。就労形態・雇用形態が違うだけで簡単に解雇され、路頭に迷う人々が後を立たず、さらに人材業界の見通しでは一層の失業が発生すると予測している。他人の犠牲の上に自らの雇用を守り、自らの賃金のみに関心を示すことの是非は前号で述べたので省くが、問題は図体の大きい組合組織が、民主的に決めた方針だからといって変えることに躊躇している状況を憂えるからである。そして躊躇しているうちにこれだけ環境が変わってくると上部団体とは違った方針を決めざるを得ない組合が出てくるのは必然なのである。実際に交渉に責任を持つ単組としては、予想を超える業績悪化と雇用不安を抱える中で、手続きが正しいからといって悪化した環境条件のもとで既定方針どおりとはいかないのだ。例外的に言えば、経済環境の影響を受けない業種、たとえば公務員や公共関連企業、それに特定の企業などの組合では方針の転換には否定的になるだろうが、多くのリーダーは「何とかしなければ」と悩んでいるように思える。前述した民主主義のルールに反するという制約に縛られているからである。一番望ましいのはナショナルセンターが方針を転換することなのだが、ナショナルセンター自らがこれまでの民主的手続きを否定することは期待できない。そうなればなったで異論を唱える組合も予想されるし、組織としてのまとまりに不安を抱えるようになる。さらに転換ができない背景の一つには、組合が自制・自粛して良識を示しても、今の経営者団体を見る限り「かえって悪乗り」される危険があるからである。その危惧は理解できる。かつて2002年だったと思うが、当時の不況下で政・労・使によるワークシェアリングの委員会が作られたのだが、ワークシェリングの前提となる「均衡処遇」をめぐって当初から労使の主張が対立し、当時の日経連は正規社員の賃金をパート並みに下げることのみを主張し、組合は対抗してパートの賃金を正規社員並みに上げることを主張、結局は、「同じ仕事をしているからといって、勤続30年の正規社員と昨日入社したパートを同じ処遇にはできない」という支離滅裂な主張(30年勤続者とパートが同じ仕事のはずはないのだが)まで持ち出されるに及んで何の成果も出せなかった苦い経験があるし、今日のように労務問題のみならず不祥事を繰り返す企業が後を絶たず、加えて自浄作用すらも失った経営者団体をみるにつけ、「正直者が馬鹿を見る」恐れがあることを否定できないからである。しかしそれを理由に、非正規社員の犠牲を見逃し組合運動が社会から孤立する犠牲まで払わなければならないのか、もっと言えば社会の主要な構成員として信頼や尊敬されるチャンスを自ら手放してしまうことを恐れるのである。
皮肉にも民主的運営を誇りとする労働組合は、人類が叡智を結集してつくった民主主義による足かせで身動きできないでいる。この状況からいかに脱却するのか、21世紀の組合運動の未来がかかっている。
道はある。信頼関係のある民間労使が交渉を通じて知恵を出し合い、その道を見出して欲しいと思わずにはいられない。
翻って民主的に運営されている組合組織にもさまざまな特徴があり問題も多い。身近な09年春闘をめぐっても同様だ。よく上意下達とか下意上達といわれるように、どちらであっても物事を決める際には組合員の総意を図らなければならない。方針の決定には参加した組合員の総意が反映されている筈だし、あるいは自分の意思と違っても多数決で決められたことには従う義務がある。これは民主主義の大原則なのだが、それが足かせとなり一度決めたら修正し難いという硬直性を持ってしまう。連合が春闘方針の議論を始めるのは前年の夏からである。09年の方針は去年の夏頃から議論をしている。かなりの時間を使って方針を決めているのである。連合の方針は会議に参加した産業別組合の役員の総意ということになる。したがって産別組織は連合決定に従う義務が発生する。産別は産別で連合方針の議論に参加するにあたって各企業別組合の意向を把握する。連合方針に賛否を意思表示するために傘下組合の了承を得ているのである。したがって傘下組合も産別方針に従う義務が発生する。傘下組合も同様に、産別の会議に参加するために事前に内部の意思統一を図っている。連合や産別が決めることに賛否を問うているはずである。
こうして産別は連合が決めた方針に従う義務を持ち、単組は産別の決めた方針に従う義務を持ち、組合員は単組の決めた方針に従う義務を持つ。この際は上部団体から決めていくのがいいのか、あるいは単組から決めていくのがいいのかは別にして(一見、上意下達にみえるが、下部組織も議論を平行的に行い弊害を避ける努力をしている。上意下達と下意上達の折衷方式とでも言おうか)、手続きの上からもこれは民主主義の大原則に上に立った全く正しい方式なのである。この原則を否定してしまうと物事は何も決められなくなってしまうからである。ところが、問題になるのがこの手続きに費やした時間がかかわってくることである。時間がかかればかかるほど、環境条件が変化していくからである。ここに民主主義の欠点がある。もう一度振り返ってみよう。誰が見ても要求議論が始まった頃と現在とでは経済環境や企業業績は一変している。とくに非正規社員の失業がこんなに深刻になるとは誰もが予想していなかった。就労形態・雇用形態が違うだけで簡単に解雇され、路頭に迷う人々が後を立たず、さらに人材業界の見通しでは一層の失業が発生すると予測している。他人の犠牲の上に自らの雇用を守り、自らの賃金のみに関心を示すことの是非は前号で述べたので省くが、問題は図体の大きい組合組織が、民主的に決めた方針だからといって変えることに躊躇している状況を憂えるからである。そして躊躇しているうちにこれだけ環境が変わってくると上部団体とは違った方針を決めざるを得ない組合が出てくるのは必然なのである。実際に交渉に責任を持つ単組としては、予想を超える業績悪化と雇用不安を抱える中で、手続きが正しいからといって悪化した環境条件のもとで既定方針どおりとはいかないのだ。例外的に言えば、経済環境の影響を受けない業種、たとえば公務員や公共関連企業、それに特定の企業などの組合では方針の転換には否定的になるだろうが、多くのリーダーは「何とかしなければ」と悩んでいるように思える。前述した民主主義のルールに反するという制約に縛られているからである。一番望ましいのはナショナルセンターが方針を転換することなのだが、ナショナルセンター自らがこれまでの民主的手続きを否定することは期待できない。そうなればなったで異論を唱える組合も予想されるし、組織としてのまとまりに不安を抱えるようになる。さらに転換ができない背景の一つには、組合が自制・自粛して良識を示しても、今の経営者団体を見る限り「かえって悪乗り」される危険があるからである。その危惧は理解できる。かつて2002年だったと思うが、当時の不況下で政・労・使によるワークシェアリングの委員会が作られたのだが、ワークシェリングの前提となる「均衡処遇」をめぐって当初から労使の主張が対立し、当時の日経連は正規社員の賃金をパート並みに下げることのみを主張し、組合は対抗してパートの賃金を正規社員並みに上げることを主張、結局は、「同じ仕事をしているからといって、勤続30年の正規社員と昨日入社したパートを同じ処遇にはできない」という支離滅裂な主張(30年勤続者とパートが同じ仕事のはずはないのだが)まで持ち出されるに及んで何の成果も出せなかった苦い経験があるし、今日のように労務問題のみならず不祥事を繰り返す企業が後を絶たず、加えて自浄作用すらも失った経営者団体をみるにつけ、「正直者が馬鹿を見る」恐れがあることを否定できないからである。しかしそれを理由に、非正規社員の犠牲を見逃し組合運動が社会から孤立する犠牲まで払わなければならないのか、もっと言えば社会の主要な構成員として信頼や尊敬されるチャンスを自ら手放してしまうことを恐れるのである。
皮肉にも民主的運営を誇りとする労働組合は、人類が叡智を結集してつくった民主主義による足かせで身動きできないでいる。この状況からいかに脱却するのか、21世紀の組合運動の未来がかかっている。
道はある。信頼関係のある民間労使が交渉を通じて知恵を出し合い、その道を見出して欲しいと思わずにはいられない。



